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2008年5月20日 (火)

川戦:押籠編③松平の敵

 今川氏親による次のターゲットは松平氏でした。三河物語によると今川軍は吉田を進発し、東海道沿いに真っ直ぐ大樹寺へ向かったとあります。牧野氏の領地と松平氏の勢力圏は随分と離れており、その間に鵜殿氏、菅沼氏、奥平氏と様々な勢力が割拠していますが、それらを全て従えて進軍できたということは、予め入念な下工作が施されていたとおもっていいでしょう。
 とは言うものの、松平氏は伊勢氏の被官であり、立場的には戸田憲光と同じはずです。松平信光が伊勢貞親の被官であったことは蜷川親元の日記に明記されておりますし、信光の子の親長も伊勢氏に仕え、京で金融業を営んでいたことが記録に残っております。
 但し、永正三河乱勃発の時点で惣領の松平親長は存命であったかどうかは不明です。彼が確実に生きていたとわかるのは1503年(永正元年)に分一徳政令による債権放棄免除の申し立てをした記録です。そして、1520年(永正十七年)には彼が別の債権において徳政令に対する債権放棄免除の手続きをしなかったために、債権消失の判決が下ったことです。この時点で死んでいた為、債務保全が出来なかったともとらえられるため、はっきりとしたことは判らないそうです。親長の年齢は不詳ですが、弟の親忠の年齢を考えると今川勢侵入時点で六十代で、息子に代を譲っている頃だと思われるのですが、その息子の消息がつかめておりません。三河国は親忠、長親親子が采配している状況でした。この状況が細川政元、今川氏親、伊勢宗瑞にとって足利茶々丸が堀越公方家を乗っ取ったのと同じように映ったのかもしれません。

 今までの稿で石川政康は息子を安祥松平家に仕えさせたと繰り返し書いておりますが、その関係については慎重な考察が必要であると思っております。特に、永正年間における松平家と石川家及びその背後にある本願寺教団との関わりは多くの微妙な要素を含んでいるように思います。
 例えば、松平親忠は明応の井田野合戦の翌年の1494年(明応三年)に、石川一族の本拠地である小川を制圧しております。そして、親忠と長親の代で桜井、青野、藤井、福釜、東端と矢作川下流域から油が淵に至る本願寺教団の諸寺院を囲むように松平の分家を設けています。
 これらの動向は細川政元と協調関係にある実如や三河国本宗寺の実円(実如の四男)にとっては脅威だったのではないかと思われます。すでに実如は細川政元の意を受けて、北陸と河内国で戦端を開いています。あくまでも仮説ですが、実如と実円は細川政元とともに、松平氏の排除を画策したのではないかと思います。
 根拠としては、二つあります。一つは吉田から大樹寺まで抵抗らしい抵抗を受けていないこと。南方の土呂、深溝、五井、竹谷、形原方面には目もくれず、真っ直ぐ大樹寺に向かっています。
 もう一つは、迎撃に出た松平長親勢の中に石川氏の記載がないことです。石川氏は安祥城の家老として門徒武士を組織化して安祥城に入れたはずです。永正の井田野合戦の記録自体にこのときの松平勢の構成を書いたものは少ないのですが、柳営秘鑑という史料にはこの時の先陣として酒井浄賢、岡崎松平親重、本多、大久保、柳原が当たったと書かれているそうです。酒井氏は松平親氏の代から準一門の扱いを受けている一族ですし、岡崎松平氏は一門衆です。本多、大久保氏は安祥譜代家として江戸時代を通して重用されてきた一族です。柳原氏はわかりません。後詰として待機できるような余裕が松平長親にあったとは到底思えません。本願寺の意を受けて石川一族はこの合戦に参加していなかったのではないかと疑っております。もちろん、後世の都合による付会というものもあるかもしれませんが、そうなると岡崎松平氏の名前が入っているのが不自然なのですね。岡崎松平氏はこの後安祥松平氏によって大草に押し込められて、家康の代において三河から放逐されるのですから。

 1501年(文亀 元年)8月10日に松平親忠が没し、同月16日に丸根家勝等連署禁制という文書が作られます。この文書は松平一門の者が結束して大樹寺を守ることを約したものですが、ここに戸田氏の一族の者の名(田原孫次郎家光)が記されております。戸田宗光が松平信光の娘婿であった関係でしょう。ここには安祥譜代七家の署名はありません。戸田氏も松平一門との血縁関係を前提にした署名でしょう。その戸田氏が今川勢として大樹寺を占拠し、岩津を攻め、松平長親と戦ったのですから、この文書は反故にされております。

 そして、三河物語に語られている今川勢として松平氏を攻めた諸家を列記します。牛久保の牧野、二連木の戸田、西之郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺の菅沼、長篠の菅沼、野田の菅沼、設楽・嵩瀬・西郷・伊奈の本多、吉田の人々。三河国人のオールスターキャストです。
 柳営秘鑑では長親の先陣を務めた本多氏が今川方に加わっております。本多氏は支族が多く、所謂安祥譜代七家の本多氏は、本多氏の一部だったのかもしれません。ここに書かれている諸家は清康、家康の代においては松平氏に服属し、与力した一族ですがこれら諸家が一堂に会したという意味で永正の井田野合戦は大きな意味をもっていたといえるでしょう。

 三河物語においては、長親が岩津救援のために駆けつけた家臣を前にして涙する美談がつづられているのですが、このエピソードには家臣たちが何者であるのかは記されておりません。また、その安祥松平家の家臣達にとって、岩津家の人々は松平党の『重臣』であって松平一族の惣領とは書かれていない等、他の記述と比べてこの部分は非常に後世の付会くさいです。三河物語は徳川家の譜代家臣(特に大久保家)が徳川家に対していかに貢献したかを記した書物ですが、柳営秘鑑に書かれている大久保の家名が、大久保家の子孫の手になる三河物語に書かれていないのですね。それどころか、誰が長親に味方して伊勢宗瑞と戦ったのかについては、ただ五百騎とのみ記載して詳細を明らかにしておりません。他の合戦談においては敵も味方もその陣容が微細に書かれているにもかかわらずにです。このあたりに当時の松平長親と岩津宗家を含めた松平一門の苦境が垣間見えるような気がします。

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