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2008年5月 1日 (木)

川戦:山科編⑩考察

 浄土真宗の宗門の一つである本願寺教団のありよう。蓮如の時代と実如・蓮淳の時代では大きく様相を異にしているように見受けられます。蓮如は人を惹きつける才能を持った一個のスターでした。故に彼が比叡山延暦寺に弾圧を受けたとしても、彼を助ける人々が勝手連のように集合し、三河や北陸、河内方面に布教を進めることができたのでしょう。勝手連は勝手連であるが故に、それぞれがそれぞれの動機から蓮如に加担しております。それ故、蓮如本人はそれぞれの戦いに介入することが出来ませんでした。
 加賀一向一揆が富樫政親を滅ぼした時、時の管領細川政元は本願寺教団に処罰を求めましたが、この時蓮如が下した裁定は『叱りの御文』でした。仮にこれが実如や蓮淳をはじめとする蓮如の後継者ならば彼らを破門するか、北陸に畿内の門徒を送り込んで成敗していたかもしれません。もっとも、だからと言って蓮淳や証如が間違っていると言うつもりはありません。彼らには彼らの事情があったのです。
 蓮如の遺産は途轍もなく大きく、にもかかわらず蓮如の後継者達には蓮如が持っていた人を惹きつける才覚は無かった。無いというのは語弊がありますね。蓮如ほどの才覚は有していなかったと言った方が正しいでしょう。しかし、教団は一人の力では維持できないくらいに肥大化しています。実如や蓮淳には助けが必要でした。それが細川政元だったと思います。
 彼らにとって細川政元は中央とのパイプであり、仏法と王法をつなく架け橋でした。その選択は細川政元が平時の政治家である限りにおいて間違いではないと思います。さりながら、時は乱世であり、混迷の状況を打開するビジョンを細川政元自身も持っておりませんでした。少なくとも、実効ある結果を残せませんでした。そして政元もまた、山科本願寺に助力を求めたのです。そして、それは王法が仏法に求めるもの――魂の救済――ではなく、門徒による武力行使という極めて俗なものだったわけです。

 山科本願寺に寺を建て、門徒が富樫政親を自刃に追いやったにもかかわらず、叱りの御文一枚で大目に見てもらった時点で、もはや後に引けなくなっていたのだと思います。実如や蓮淳は舵を切り替えました。法主を中心とした統制のとれた教団に変えることです。
 その為に、教義を明らかにし、王法に従うことを宣言し、家門の序列を定めました。その為に連能とその子たち、加賀三ヶ寺の兄や伯父達を敵に回して粛清しました。その中にあっては湖族の信を集めて蓮如を支援した法住とその後を継いだ明宗の堅田本福寺や、蓮如のために吉崎の地をあてがった越前本覚寺が口出しをする余地はありえなかったようです。

 勿論、色々な所で不満は生じます。それを宥めるためにとった手段が二つ。一つは、門徒達の俗な要望にも応えてやること。越前国から加賀に亡命した本覚寺の蓮恵は、本願寺の不戦方針を不服として連枝の連悟と争い破門を受けましたが、それでも越前の亡命門徒衆は故地回復の望みをもっていました。その望みに応えて畠山氏や朝倉氏と戦う彼らを最終的には承認し、彼らを罰しようとした加賀三ヶ寺を武力討伐するに至ります。そして同時に法主の権威を高めるだけ高めました。蓮如を支援した外部の寺の者達よりも、連枝が偉く、連枝も法主の方針に逆らえば処罰される。このルールを教団全体に浸透させたわけです。

 しかし、絶対的な権威というものは実は危ういのですね。畠山氏追討の為に山科を出て石山に入った法主証如に河内の門徒衆は沸き立ちました。そしてそれは証如自身にコントロール出来る物ではなかったのです。本願寺が教団として軍事行動を取る時には家宰の下間氏が担当しますが、この時下間頼秀・頼盛兄弟は大一揆勢を率いて北陸に出張中でした。証如は細川晴元からの要請によって、畠山義宣と三好元長を門徒たちに討たせました。
 そして、勝利に酔った門徒達は大和に乱入し、興福寺に狼藉を働きます。証如にはこれを押しとどめることは出来ませんでした。本来ならば、本福寺や本覚寺に相当する河内や大和在国の有力寺院が暴発を止めるべきなのですが、彼らの権威は蓮淳によって徹底的に貶められていたわけです。地元の有力寺院にしても、下手に止めて加賀の小一揆のように討伐されるのではないかと思ってしまえば止めるに止められませんよね。追認の上意を当てにした末端勢力の暴走は昭和に至っても二・二六のクーデター未遂事件を引き起こしております。
 その結果本願寺は討伐の対象となり、証如は山科本願寺を失いました。蓮淳は伊勢長島に亡命していません。下間頼秀・頼盛兄弟を呼び戻したものの戦況は絶対的に不利なものでした。結局の所、蓮淳が細川晴元に降伏を申し入れ、下間頼秀・頼盛らの破門を条件に受け入れられました。ギリギリのところで証如は許され、石山御坊は石山本願寺として存続できることになったわけです。

 ただ、細川晴元にしても内外に多数の敵を有し、味方と言えど決して信頼の置ける者たちばかりではありませんでした。結局の所、身内に刺される形で細川晴元も失脚するに至ります。その後も続く目まぐるしい権力争いの時代を、本願寺はそのプレイヤーとなることで生き抜くことが出来たわけです。それはこの時代に、蓮淳が本願寺と言う宗教団体あるいは、蓮如を中心とした勝手連を本願寺法主を中心とした戦国大名に作り変えたお陰ということも出来るかもしれません。

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