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2008年5月29日 (木)

川戦:押籠編⑦松平家の内訌

 松平信忠は三河物語その他の文書において、散々こき下ろされております。いわば松平歴代の中でも『不肖』の人物です。その評価は一端脇に置いた上で、現存する同時代文書から彼の人物像を本稿で考察したいと思います。
 彼は後世に十通前後の署名文書を残しております。その全てが寺社関係であるのは、彼が仏心の篤い人物であることをさすのか、それとも毀誉褒貶の中で寺社以外に発給した文書が廃棄された結果であるのかは定かではありません。
 以下にその一覧を示します。

1503年(文亀 三年)信忠、称名寺の為に禁制発行。(信忠)
1509年(永正 六年)信忠、称名寺に寺領寄進。(信忠)
1512年(永正 九年)信忠、称名寺の永正三河乱戦没者供養念仏踊りの為の田地寄進(信忠)
1513年(永正 十年)長親、大樹寺に再建。大樹寺格式。(道忠)
1518年(永正十五年)信忠、西方寺に寺領寄進。(信忠)
1519年(永正十六年)信忠、妙心寺の寺領を安堵。(信忠)
1520年(永正十七年)信忠、大樹寺の別時念仏の調整を植村・中山に依頼。(太雲)
1520年(永正十七年)信忠、萬松寺に禁制発行。(信忠)
1523年(大永 三年)信忠、明眼寺に田地寄進。(信忠)
1526年(大永 六年)信忠、某社の奉加帳に一門・家臣とともに記名。(信忠)
1528年(大永 八年)信忠、大樹寺相伝の祠堂銭と田地安堵を長親と発行。(祐泉)

 内訳は称名寺(時宗)に三通、大樹寺(浄土宗白旗派)に三通、西方寺(浄土宗西山深草派)に一通、妙心寺(浄土宗西山深草派)に一通、萬松寺(曹洞宗)に一通、明眼寺(浄土真宗高田専修寺派)に一通、不明が一通です。称名寺と大樹寺にやや多く文書が残っている所から、それら社寺とのつながりが窺えます。
 妙心寺、萬松寺、西方寺は信忠の曽祖父にあたる信光ゆかりの寺社であり、明眼寺は長親以後に松平氏とのつきあいのある寺です。

 興味深いのは大樹寺に残された三通の文書、それぞれ署名が異なっています。それぞれ、道忠、太雲、祐泉。大樹寺文書の署名は後世に残っている名前と異なった名前で署名されているケースが見受けられます。親忠は西忠、長親は道閲という具合に。これは法号と解釈できるのですが、三つの名前をもっている信忠は特殊なケースといえるでしょう。しかも、大樹寺以外の文書には信忠と署名しているのですね。この使い分けに信忠と大樹寺、そして長親との隔絶を感じます。関係が良好であるならば、同じ名前を使い続ける筈です。そもそも、寄進状や安堵状、禁制文書の署名とは発給者の意思を明らかにするものであり、それがころころ変わるのは信用を落とす行為なのですから。道忠、太雲、祐泉の号が信忠という署名と併行して使われているとすれば尚更です。長親と信忠は永正乱で破壊された大樹寺を再建し、親忠の子孫は大樹寺に帰依せよ書かれた文書に署名しています。その文書の存在を前提に考えるならば、大樹寺を中心とした一門統制を図ろうとした主体は長親であり、信忠はそれに従わされた立場にあったといえるかもしれません。

 信忠と称名寺は関係が深く、永正井田野合戦から四年後の1512年(永正 九年)に信忠、称名寺の永正の三河乱戦没者供養の為の念仏踊りの為の田地寄進を行っております。但し、称名寺関連で現存する信忠文書はこれが最後。この翌年『親忠の子孫は大樹寺に帰依すべし』という文書に道忠の号で署名をしています。以後の、家督譲渡を強いられるまでの動向を追いますと、まず西方寺に寺領を寄進しています。この西方寺は妙心寺と同じく、松平泰親の子教然良頓開山の寺です。大樹寺に対しては別時念仏を絶やさないようにと家臣に命じている文書があります。残りは、妙心寺への寺領安堵状と萬松寺への禁制発行で、両寺を信忠が守護することを宣言した文書です。
 これらの文書はいずれも、安祥家以外の松平家関連寺院なのですね。これを信忠の仏心からととらえることもできるでしょうが、その信忠の家督譲渡を強いたのは松平一門衆でした。

 松平由来書という史料にはその経緯が以下のように書かれているそうです。
 松平郷松平家の勝茂が、信忠は『がうぎ(強情・神仏の祭礼をしない者)』であるので、隠居を求めるべく、一門の評定にかけました。一門衆はこれを諾とし、連判状を作って信忠に渡した後、それぞれの所領に引き篭もったそうです。信忠はやむなく、自ら隠居を決め称名寺に隠遁したそうです。この結果から判断するに、信忠の活動は『親忠の子孫は大樹寺に帰依すべし』という文言への対応であり、分裂しかかった一門に対する融和政策だったと思われます。信光明寺に親忠の子の超誉存牛が入ったのもその一環だったでしょうが、彼は大永元年に京に上って知恩院の住持になります。ひょっとしたら、岩津と安祥の関係の悪化により安祥家出身の超誉が岩津に居辛くなったのかもしれません。結局、信忠の工作は失敗に帰してしまいました。

 ただ、松平由来書の見解に従った場合、三河物語に書かれているような桜井松平信定が対抗馬として押し立てられたという記事は考えにくくなります。というのは、桜井松平信定もまた、安祥家の人間なのです。一門への融和策はすでに信忠によってとられておりますし、信定を押し立てて一門衆にどんな得があるのか、今ひとつ判らないです。
 安祥松平家勢力の減退は後ろ盾となった大河内氏、その背後にある吉良氏、斯波氏による遠江出征の失敗、そして吉良氏と繋がりがあった足利義材の二度目の都落ちとリンクしていると考えられます。であるならば、信忠の地位低下はとりもなおさず信定の地位低下につながります。信忠の後に家督を継いだ清康が一番初めに行ったのは、岡崎攻撃。すなわち一門衆への戦争でした。
 三河物語には、信定を擁して家督譲渡を迫る首謀者を信忠が斬った。にもかかわらず、家督譲渡の圧力が弱まらなかったため、清康に家督を譲渡したと書かれています。

 以下は推量です。本来の対抗馬は岩津松平家の者であり、それを実際に松平信忠は斬った。しかし、
それによって逆に事態は悪化し、一門と安祥家との対立は修復不能に陥ったように思われます。その時点で安祥松平家の後継と目されたのが、桜井信定だったのではないでしょうか。何しろ、信忠の嫡男清康はわずか十三歳なのですから。
 清康相続を誰が決めたかについては、そしてその直後に始まる戦争を軸に考えてみるべきだと思います。攻勢に出たのは安祥家です。清康にその意思はともかく、実力があったとは思えません。戦争指導者としての才覚があったことは諸書に記されていますが、十三歳の少年にそれが備わっていると、戦争が始まる前から見抜ける者がいたとは考えられないのですね。
 長親がもしも一門に対する戦争を考えていたなら、家督は清康ではなく、信定にしていたでしょう。平時であれば長子相続が望ましいことは言うまでもありませんが、これから戦争をしようとするものが十三歳の当主を立てて戦うというのは、現実的ではありません。一方の信定に一軍を率いる器量が備わっていたことは、後の戦歴が物語っています。
 信忠は清康相続を支持したとは思いますが、戦争を望んだとは思えません。もしそうなら自らが戦い、家督を譲渡はしなかったでしょう。三河物語においては、家督譲渡を迫った首謀者を斬ったことになっているのです。それが一門との戦いに参戦していないとすれば、やはり身体的な理由で戦場に立てなかったとしか考えられません。
 では、誰が清康相続を推したのか。それは安祥家の家臣団の中にいたと考えます。その中でも戦争にたけた人物が安祥家の名前で戦争をするために、あえて幼少の清康を押し立てたのではないか。そう考えるのが私には一番しっくりきます。
 その人物は軍事力を持っているにもかかわらず、表立って戦争が出来ない立場にあった人物です。

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