« 川戦:押籠編①プロローグ | トップページ | 川戦:押籠編③松平の敵 »

2008年5月15日 (木)

川戦:押籠編②細川政元の闘争

 1505年(永正二年)、山科本願寺で法主実如が畿内・北陸の門徒達に対して畠山氏、朝倉氏への攻撃を命じた翌年、伊勢宗瑞が今川氏親の命を受けて三河に侵攻しております。畠山氏、朝倉氏の背後には足利義材がおり、本願寺教団は彼らを敵に回したわけですね。足利義材は1493年(明応二年)細川政元によって京都を追われ、流れ公方として各地を転々としており、地方の諸侯の助力を得て上洛を策しておりました。
 本願寺は実如と細川政元とのつながりに加え、実如の母が伊勢氏の出身で当主伊勢貞宗は細川派として行動しております。また、実如は日野富子の兄である日野勝光の猶子でもありました。
 安城市の歴史を調べますと本願寺は1461年(寛正二年)に上宮寺如光に十文字名号を与えたことを皮切りに安城市内の寺や門徒に名号やら阿弥陀如来絵像を下しているのですが、蓮如の代では1676年(文明八年)に一度途切れます。実如の代になってそれが再開されるのですが、その初出が1493年(明応二年)本證寺門徒の某に下されたものです。1493年(明応二年)は足利義材が京を追われた年です。この時点で蓮如はまだ存命ですが、寺務の一切は実如に任されておりました。この件を含め、1493年(明応二年)から、実如が畿内・北陸の門徒に動員をかけた1505年(永正二年)までの十二年間に七件の阿弥陀如来絵像が現在の安城市一帯の門徒達に下されております。タイミング的に実如の細川政元支援に呼応したものと見ることができるかもしれません。
 本願寺による阿弥陀如来絵像の門徒への下付は1505年(永正二年)以降、一端途切れ1513年(永正十年)から1515年(永正十二年)の間に三度あって再び途切れます。これは三河国が今川氏親の侵攻を受けたこともあるでしょう。さりながら、主因は1507年(永正四年)に細川政元が暗殺され、後難を怖れた実如が山科から近江国堅田に移った為だと思います。実如は1509年(永正六年)には山科本願寺に戻っております。仲介したのが晩年の伊勢貞宗とのことですから、実如の母の実家の一族である伊勢貞宗が細川高国と折り合いをつけることができたということなのでしょう。細川高国は畠山氏、朝倉氏のバックアップを得て帰京した足利義材(義植)を奉じておりますから、実如も山科復帰後しばらくの間は身動きがとれなかったはずです。

 細川政元と対立する足利義材派にとっては西三河の地は細川氏支持派が支配する土地と映ったに違いありません。1506年(永正三年)から三河国に侵攻を開始した今川氏親と伊勢宗瑞の立場を考察してみます。伊勢宗瑞は幕府の政所執事を勤めた伊勢氏の一族です。伊勢宗瑞の姉(妹という説もあり)は北側殿といい、今川義忠の妻でした。今川義忠は応仁の乱中、遠江国で討ち死にし、家督をめぐって混乱が起きました。そこを上手く収拾したのが京から駿河に下向した伊勢宗瑞であり、調停の結果今川氏の新当主になったのが氏親でした。その縁で伊勢宗瑞は今川氏親に仕える事になったわけです。経緯が経緯だけに、家臣とは言え対等以上の関係だったと想像できます。

 1491年(延徳3年)今川氏の領国の隣国である伊豆国を支配する堀越公方家で内紛が起こります。当主足利政知が死に、その嫡子であった足利潤童子を弟の茶々丸が殺害して堀越公方家をのっとりました。堀越公方足利政知は永享の乱で滅ぼされた鎌倉にあった関東公方に変わるものとして細川政元が送り込んだ新関東公方家です。ところが元祖関東公方の子孫が下総国古河を拠点として関東公方を名乗ったため、足利政知は伊豆一国を支配する存在に過ぎなくなったわけです。小家となったといえども、足利政知は将軍の連枝なわけですが、その相続が暴力によって横領されたことは、政知を関東に送り込んだ幕府にとって看過できないことでした。
 1493年(明応二年)細川政元が足利義材を追い落とし、実権をにぎると間もなく、伊勢宗瑞が伊豆に攻め込み、足利茶々丸を滅ぼします。足利義材が京を脱出したことにより、彼を奉じる勢力が現れるのは自明でした。足利茶々丸は現政権が望まぬ形でお家乗っ取りをしたのです。細川政元にとって潜在的な脅威になりえる存在でした。伊勢宗瑞は政所執事(このときは貞陸)の一族です。細川政元は彼を通じて伊勢宗瑞に足利茶々丸を討たせたということが近年の研究でわかってきております。
 この見解に従うなら、今川氏親、伊勢宗瑞は細川政元派ということが出来るでしょう。以後、伊勢宗瑞は伊豆を支配するとともに、今川氏親の家臣として遠江国の斯波氏と戦います。

 永正年間の今川氏親の三河侵攻はその文脈の延長線上で考えてみるなら、興味深い方向性をみることができるかもしれません。
 1506年(永正三年)今川氏親はまず、三河国今橋城による牧野古白を滅ぼします。ここを攻める渥美郡の戸田氏の後詰としての参戦です。時の当主は戸田憲光で、伊勢貞親の被官であった宗光(全久)の息子です。もともと碧海郡上野(今の豊田市上郷町)を根拠地にしていましたが、知多から渥美半島に根拠地を広げ、上野の領地はどうも放棄されたのではないかと思われます。血縁関係のある松平氏が周辺を囲むように勢力伸張している以上、上野から所領を増やすあてはなく、戦国領主としての旨味はあまりないと判断したと私は考えています。
 牧野氏は出自がはっきりしておりません。古白の父の代に一色時家に服属した新興の土豪だったようです。応仁の乱を経て東三河の今橋(現在の愛知県豊川市)に城を築きました。一色氏は没落した後もこの地に根付いた戦国領主です。足利義材を野に放ってしまった以上、出自不明の、なおかつ伊勢氏被官の戸田氏に対立する勢力である牧野氏は潜在的な敵対勢力です。足利義材は日本中から支援勢力を求めています。牧野古白が足利義材を支援すると名乗り出れば、それに応じた地位を与えることは想像に難くありません。牧野氏を討伐することは、政所執事伊勢氏の一族である伊勢宗瑞にとっても、その主人の今川氏親にとっても、それだけではなく、細川政元にとってもメリットのあることだったでしょう。

|

« 川戦:押籠編①プロローグ | トップページ | 川戦:押籠編③松平の敵 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/41190052

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:押籠編②細川政元の闘争:

« 川戦:押籠編①プロローグ | トップページ | 川戦:押籠編③松平の敵 »