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2008年5月22日 (木)

川戦:押籠編④足利義材の掌(たなごころ)

 尚、本稿ではこの永正の井田野合戦を1508年(永正五年)のこととしていますが、柳営秘鑑は1501年(文亀元年)、徳川実記では1505年(永正三年)説をとっています。永正三年に今川氏親が牧野古白と戦ったことは同時代史料で明らかになっております。そして永正の井田野合戦においては、今川勢と戦っているはずの牧野氏が今川軍として松平勢と対峙しています。それらの前後関係を見るに、永正三年に牧野氏を降した今川勢が、牧野氏の残兵を率いて松平氏を攻めたとみるのが妥当のように見えます。よって、永正五年説を本稿でも採用しております。

 この永正五年説をとった場合、京都の動きと照らし合わせれば、永正三河乱の様相がおそらくは違って見えてくるのですね。既に触れたとおり、牧野氏の今橋城を落とした翌年1507年(永正四年)6月23日に細川政元は暗殺されます。山科本願寺の実如が累が及ぶのを避けて堅田に非難したのはこの時です。この事件は政元の暗殺を教唆したかどで、九月一日には政元の三人の養子の一人、澄之が粛清され、阿波国守護家出身の細川澄元が京兆家を継ぐことで一応の決着が図られました。しかし、その年末に大内義興の支援を受けた足利義材(この時は義尹と改名中)が上洛の途に出ます。細川澄之は備中国守護家出身の細川高国に足利義材との交渉を命じましたが、逆に義材に加担します。京は恐慌に陥りました。そして、1508年(永正五年)四月には細川澄元と足利義澄、近江に脱出、高国が入京。六月には足利義材が上洛を果たします。伊勢家惣領の伊勢貞宗は五月の段階でちゃっかり足利義材派に乗り換えています。八月に今川氏親と伊勢宗瑞が吉田を進発した頃はすでにこんな状況でした。
 今川氏親は細川政元派として足利義材派の遠江国守護の斯波義寛から遠江国を奪ったはずなのですが、1508年(永正五年)七月までには足利義材(義植)から遠江国守護の職を貰っています。
 この『遠江国守護』の扱いが少々厄介です。一説には明応年間に斯波義寛が足利義澄派に鞍替えしたことに乗じて今川氏親も足利義材派に転じたという見方もあるそうですが、今川氏親も足利義材もお互いをどこまで信頼していたのかが未知数です。というより、今川氏親は足利義材・細川高国と足利義澄・細川澄元を両天秤にかけ、足利義材も今川氏親と斯波義達を互いに戦わせて牽制したのではないかという気がしています。理由は後で述べます。

 牧野氏を倒した時の今川氏は足利義澄=細川政元ラインで攻勢をかけましたが、松平攻めにおいてはその立場を変えているのですね。奇しくも同じ年の六月に戸田宗光が亡くなっています。寿命とも考えられますが、京都の動きと考え合わせると謀略のセンも考えられないわけでもないです。氏親が伊勢宗瑞を吉田から東海道沿いに一直線に大樹寺まで向かわせたのは尾張への進軍ルートを確保するためであり、最終目標は斯波義達が支配するもう一つの国、尾張攻めを敢行するためだったのではないかと思われます。

 西三河は本願寺教団と岩津松平家の惣領は細川政元が押さえておりました。しかし、現地では分家筋の安祥家が井田野の要衝を押さえ、実質的に松平一門を支配している状況です。ここを叩けば尾張国は目の前でした。ところが政局がここに着て大きく変わります。伊勢貞宗が早々に足利義材についたのも、尾張攻撃を視野に入れた伊勢宗瑞を支援するのが目的だったのかもしれません。とすると今川氏親の遠江国守護職は、今川氏親→伊勢宗瑞→伊勢貞宗→足利義材のルートで奏上されのかもしれません。
 本願寺教団は法主の実如が近江国堅田に逼塞し、三河の門徒衆は身動きの取れない状況でした。

 井田野合戦において、伊勢宗瑞と松平長親は直接対決しました。岩津城の攻防の結果は諸説あるものの、井田野合戦の結果はどうやら痛み分けでした。兵力差を考えると長親の頑張りが評価されるでしょう。
 三河物語においては、合戦後伊勢宗瑞は『最後に戦場を占領している今川軍の勝ちだ』と勝利宣言します。それを受けて、今川軍に与力した戸田憲光が宗瑞に対して『駿河と手を切り、三河に味方しろ』と言います。これに対して、『一度戻って詰めの城の戦闘準備を整えたらまた戻ってくる』と答えたまま、自分だけ撤退し、結局戻ってこなかった。というオチがついています。
 ここの解釈は戸田氏の離反を怖れての撤退というのが主流な説です。しかし、そうではなく、この合戦が既に細川政元の敗北、足利義材の勝利が確定した状況で敢行されたことを前提に考えてみれば戸田憲光と伊勢宗瑞の会話の意味は別な様相を呈してくるように私には見えます。

 戸田の提案はこのまま伊勢宗瑞を首領として、勢力を維持することではなかったでしょうか。そしてこの時の戸田には京都の状況、今川氏親の両天秤は見えていなかったと思います。
 その場には戸田、今川に服属した牧野、鵜殿、菅沼、奥平と三河国の主だった国人達が集結しています。細川政元は死にましたが、足利義澄と細川澄之は存命です。二人を助ける形での闘争の継続は可能なはずでした。戸田憲光にとっては伊勢宗瑞は主筋の一族の者ですから主人として立てるにはうってつけの人物です。
 しかし、この時点で吉田にいる今川氏親からは撤退命令が出ていたと思われます。おそらくは今川氏親が怖れていた事態が起こった、足利義材がこの戦いに介入したのではないかと思います。京を押さえたとは言え、足利義材はまだ畿内を平定したとは言えず、足利義澄や細川澄元も生きています。もし、今川氏親の思惑通り尾張攻めが成功したとすれば、今川家は伊豆国(伊勢宗瑞が支配)、駿河国、遠江国、三河国、尾張国の東海五カ国を支配する一大勢力になります。大内義興がバックについているとはいえ、これを御せるほど足利義材の力は強くありません。また、斯波氏は足利義材が流亡中に支援してくれた勢力です。であるならば、両者に足利義材の必要性を感じさせながらつぶれない程度に競わせることが、義材にとっては都合のいい状況だったのです。
 伊勢宗瑞は三河国人達を宥めすかして撤退しました。案の定、制圧したはずの遠江国において守護家の斯波義達が息を吹き返し、今川氏親に再戦を挑みます。この再起の背後に足利義材(義植)と細川高国がいたと私は見ております。
 松平長親は結果において救われたといえるでしょう。

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