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2008年6月26日 (木)

川戦:英雄編②松平継承戦争

 石川忠輔を松平蔵人信忠押籠めの実行犯として『三河後風土記正説大全』よりも、成立年次が古く、より信憑性が高そうな『松平由来書』によると、松平郷の松平勝茂を初めとする一門衆が集まり、乱暴・無慈悲で強毅な信忠を弾劾し、松平信忠の隠居とそれに替わる後継者をたてなければ一門衆はそれぞれの所領に引き籠り、出仕はしないことを申し合わせます。その決定を起請文にして安祥松平家の家老である酒井将監忠尚に手渡します。酒井忠尚はこれを松平信忠に見せたところ、観念して家督を嫡子の清康に譲り、自らは隠居した。と、言うことになっています。
 このあたりは三河物語には書いていないことなので、別史料で埋めるしかないのですが、いずれにせよ信忠に直接引導を渡したのは一門衆ではなく、家臣だったようですね。

 そもそも松平信忠が孤立したのは、永正三河乱で破壊された大樹寺を再建した折、安祥家初代の親忠の子孫は皆大樹寺に帰依せよと宣言したことにあったと、私は考えております。これは宗家であった岩津松平家をないがしろにする行為であるかのように一門衆には映ったのではないでしょうか。この時点で岩津松平家の勢力がどの程度のものであったかは不明ですが、これ以後信忠は西方寺、妙心寺、萬松寺など、一門ゆかりの寺社に禁制・安堵を施し融和に努めます。しかし、同盟を組んだ斯波氏・吉良氏が遠江国で今川氏親に敗北した煽りをうけて、安祥松平家の権威は失墜します。このあたりは全くの想像ですが、斯波氏・吉良氏の遠江国回復をあてこんで、一門衆に約束したことが反故になったのかもしれません。一門衆の信忠に対する信用はなくなり、新たな松平家の枠組みが話しあわれたのだと見ております。

 信忠後継候補は桜井松平信定であったことは、三河物語にも明記してあります。それを推進したのは誰なのか。確定できませんが、一門衆だったのではないでしょうか。そしてその場合、その地位はあくまでも安祥松平家家督であって、松平宗家の惣領としての椅子が用意されていたのではなかったのではないかと考えます。
 なぜなら、桜井松平信定は次男であり安祥家家督の地位は一門衆の支持に基づくものになるからです。仮に宗家惣領の立場を得られたとしても立場は弱くなり、実権は一門衆に握られることになります。しかし、それは安祥松平家の家臣達の地位弱体化に繋がることでもありました。
 安祥松平家は親忠の代から信忠に至るまで矢作川沿いの本願寺教団の勢力圏に分家を配し、家臣団を組織しておりました。その多くは門徒武士です。彼らは松平宗家家臣となることによって松平家との共存を図っておりましたが、分家の家臣に格下げとなれば彼らに任された裁量も大きく減じられてしまうことは想像に難くありません。
 では、何故桜井松平信定ではいけないのか。安祥家家臣の立場に立つなら、その場合一門衆と大きな妥協をする懸念があったからではないでしょうか。そう考えると、信忠が家臣に引導を渡される形で押籠められたのも、信忠が一門衆に対して融和的な姿勢をとっていたからとも考えられます。
 実行犯として石川忠輔や酒井将監忠尚の名前が挙げられていることはとても示唆的です。家康の代になって、三河で一向一揆が起きた折、石川一族の多くは一揆方となり、酒井将監忠尚もまた一揆方の将として戦っております。
 すなわち、信忠押籠は一門衆に対して非妥協路線を推し進める門徒家臣による幼君擁立クーデターの可能性があります。門徒達に対しては、1518年(永正十五年)に本願寺九世法主実如が三法令を発布し、私戦は禁じられておりましたが、松平家の内訌から自分達の権益を守るという名分でしのいだのではないかと考えます。松平家が『尾三同盟』に忠実であれば、吉良家、斯波家の協力は得られるはずで、松平家の内訌はそれを脅かすものであったということも出来たかもしれません。

 1522年(大永二年)、信忠押籠の前年に三河国を連歌師の宗長が東三河から西上の途上、通りがかりますが、三河国で俄かに矛盾することがあったため、矢作・八橋を通過する予定を海路を使って刈谷まで向かいました。この時点ですでに戦いは始まっていたようです。それは安祥松平信忠対岡崎松平信貞だったと思われますが、具体的に誰が誰を敵として戦ったかは不明です。岩津松平家や大給・松平郷の動きもわかりません。
 史料の上で明らかなのは、1524年(大永四年)岡崎松平信貞が山中城を安祥松平清康に奪われ、大草に退去したということです。大草はかつて松平信光が西郷頼嗣を岡崎から追いやった地でもあります。
西郷頼嗣はその折に、征服者である信光の子、光重を養子にしたとされており、その縁か岡崎松平信貞は西郷氏を称していたとも言われております。以後、岡崎松平信貞の血統は大草松平家と呼ばれるようになります。時に清康、弱冠十四歳です。

 清康は奪った山中城に入りました。そして、根拠地を竜頭山に移し、そこに岡崎城を移設します。これは井田野を視野にいれたかったのではないかと私は考えます。旧岡崎松平家が根拠地としていた明大寺や山中城は井田野からみれば、乙川を超えた所にあります。
 井田野のど真ん中に大樹寺があるのですが、これは永正三河乱においてもあっさりと占領されておりますし、防衛拠点としてあまり役にたっていません。松平長親は安祥から兵を率いて戦う羽目に陥っております。大樹寺の山門から竜頭山の岡崎城は一直線の位置にあってよく見えるといいます。過去から係争の地である井田野は松平家にとっての心臓部だったのではないかと思われるのです。

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2008年6月24日 (火)

川戦:英雄編①プロローグ

 ようやく、松平清康までたどり着きました。松平清康は1510年(永正七年)生まれです。家督を継いだのが1523年(大永三年)で十三歳の時でした。没年が1534年(天文四年)で、二十五歳を待たずに死んでおります。その間三河国をほぼ統一し、尾張国にまで攻め込むという縦横無尽の活躍をしていたわけです。でも、こんな活躍をするには若過ぎると思うのです。しかも、家督を継ぐ直前には前の家督である信忠が一門・家臣と内訌を繰り広げておりました。そんなグダグダ状態の松平一門の屋台骨を建て直し、一族郎党を結束させて三河国統一という偉業を果たすなどということをわずか十三歳の少年一人の力でできるかというと、不可能だと思います。それを可能にする者は英雄の称号を受けるに充分の資格を有していると私は談じます。
 しかしながら、本稿は歴史考察を目的としております。であるならば、何がそれを可能にしたのかを考察するのが本稿の本分です。勿論、清康は有能でしたし将器もありました。一門衆や家臣達にも有能な人材が揃っていたことを否定するものではありません。長親の代には存亡の危機に立たされるくらいの猛攻を受け、信忠の代には勢力維持が手一杯だった松平氏に、爆発的な勢力伸張をもたらしたのは一体何なのか。そこにスポットをあてて仮説をたててみました。

 松平清康について三河物語を書いた大久保忠教は三十まで生きていたなら天下を取ていただろうと、激賞しております。客観的に見て、確かに清康の代で松平家は大きくなりましたが、他勢力の伸張度合いと比べても、少しハッタリを効かせすぎているのではないかと思えます。松平清康とその家臣達が見た天下取り構想まで考察をすすめられたらいいな、とおもいつつ本稿を記します。

1511年(大永 元年)    松平清康(1)、生誕。
1521年(大永 元年)    足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。
1523年(大永 三年)    清康(13)、家督継承。(明大寺)岡崎親貞と戦争を始める。
1525年(大永 四年)    清康(14)、岡崎親貞を大草に追い、岡崎に移る。
1525年(大永 五年)    清康(15)、足助の鈴木重政を降伏させる。
1526年(大永 六年) 三月 松平信定、この頃までに守山を領有
           八月 今川氏親没。氏輝が家督相続
1528年(大永 八年)    清康(18)、岡崎で鷹狩中に叶田大蔵に襲撃される。
1529年(享禄 二年)    清康(19)、小島城を攻める。
1530年(享禄 三年)    清康(20)、岡崎城を明大寺から竜頭山に移す。
              清康、尾張出兵
              清康、宇利城を攻める。
              清康、吉田城を攻める。
1531年(享禄 四年) 六月 本願寺法主証如、北陸三ヶ寺の討伐令。実円出陣。(大小一揆)
          十一月 清康(21)、伊保の三宅加賀守を広瀬城に追う。
1533年(天文 二年) 三月 清康(23)、三宅・鈴木連合軍を岩津で撃破。
          十二月 清康、品野(桜井信定?)勢と井田野で戦う。
1535年(天文 四年) 六月 清康、猿投神社を焼く。
          十一月 石山本願寺、細川晴元の軍門に降る。
          十二月 清康(25)、守山に出陣して陣没(守山崩れ)
1536年(天文 五年) 三月 今川氏輝没。花倉の乱を経て今川義元が家督相続。

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2008年6月12日 (木)

川戦:押籠編⑩考察

 本編は派閥の離合集散が激しい時代に当たりますので、ややこしかったかと思います。私の頭の中の整理を含め、以下にその概略をおさらいします。
 永正五年、今川氏親は東三河国人達を従えて井田野に殺到しました。その時の攻勢はこんな感じです。
  今川氏親、伊勢宗瑞、駿遠国人、東三河国人(本多氏含む)、戸田憲光
 対する松平勢は
  岩津松平氏、安祥松平長親、岡崎松平、酒井、本多、大久保他
 中立勢力は
  本願寺教団

 この時、京では細川政元暗殺の余波で三人の養子達が後継者争いをする間隙を突いて、足利義材が上洛を果たしております。義材の支援をしている勢力の中には本願寺と戦っている畠山氏、朝倉氏がいます。山科本願寺法主の実如は堅田に遷り、本願寺教団は身動きの取れない状況でした。
 今川の進軍は井田野で一応止まります。ここで、戸田憲光は伊勢宗瑞に今川と縁を切れと申し出ます。彼が考えていた三河の統治形態はだいたいこんな所でしょうか。

 足利義材>伊勢貞宗>伊勢宗瑞、戸田憲光、松平長親、東三河国人衆、本願寺教団

 伊勢貞宗は足利義材の上洛と同時にこれを迎え入れ、幕閣の一角に居残りました。本願寺法主実如の母は伊勢家の出でありましたので、一応勢力に入れております。伊勢氏を中心とした三河国というのも思考実験としては面白いと思います。
 しかし、伊勢宗瑞はそれに従いませんでした。彼はその後駿河以西の戦いからは身を引き、関東の戦に専念します。戸田構想(と私が勝手に名づけたもの)は伊勢宗瑞がいて初めてなりたつものでしたので、三河の親今川勢力はその中心を喪った形になりました。今川氏親は足利義材から遠江守護の肩書をもらったため、義材派とカテゴライズされている研究者も多いと思われます。
 しかし、私自身はそんな単純なものではなかったと考えています。上洛した足利義材の政策スタッフに伊勢宗家の貞宗も入っており、今川家は伊勢氏ルートというパイプも築けていたにもかかわらず、この直後伊勢宗瑞は三河経営から身を引いているのですね。その路線は潰えていると考えております。伊勢貞宗は足利義材を宥めて、堅田に籠っている本願寺九世法主の実如の山科本願寺復帰の介添えをしましたが、その後管領細川高国が失脚するまで、山科本願寺は身動きの取れない状況でした。足利義材=伊勢氏=今川氏親のラインは上手く機能していないと私は見ております。

 今川侵攻の反作用として結成されたのが尾三連合です。ここにも背後に足利義材が噛んでいると思われます。斯波義達は遠江国守護の座を義材に取り上げられた形ですが、回復の機会も与えました。少なくとも、斯波義達が遠江奪還の戦いを今川氏親に仕掛けることを止めませんでした。畿内には足利義澄と細川澄元が健在で、義材は京の掌握を急がなくてはなりませんでした。だから、東海道では駿遠三を支配する巨大な領主が誕生するよりは、旧主と新主で消耗戦をしてもらっていたほうが都合がよかったのです。それを京で支えたのが、西条吉良義堯でした。

 足利義材>斯波義達>吉良義堯>大河内貞綱・満成、富永氏、松平長親・信忠、水野忠政

 この連合を背景に、松平長親・信忠親子は矢作川流域の支配を進めます。そして、岩津松平家からの独立を図る文書を大樹寺に遺します。すなわち――松平親忠の子孫(つまり安祥家一門)は男女の別なく大樹寺に帰依すること――です。
 しかし、この布陣も串の刃が欠けるように脱落してゆき、連合は有名無実に陥ります。
 まず、遠江で斯波軍が今川氏親に敗北します。大河内貞綱は敗死し、斯波義達も捕虜となって尾張に送り返されます。次に足利義材が管領細川高国と争って京を出奔します。吉良義堯の影響力は足利義材の後ろ盾あってのものでしたので、やむなく三河に戻ります。連合の中心を欠いてしまった結果、松平長親・信忠は一門の不満を抑えきれなくなります。信忠は一門衆が帰依する諸寺院に対して、寄進や禁制・安堵状の発行により保護を行いますが、一門衆の納得は得られなかったようです。

 1522年(大永二年)、信忠押籠の前年に三河国を連歌師の宗長が東三河から西上の途上、通りがかりますが、三河国で俄かに矛盾することがあったため、矢作・八橋を通過する予定を海路を使って刈谷まで向かいました。この時点ですでに戦いは始まっていたようです。それは安祥信忠対岡崎信貞だったと思われます。

 反安祥の勢力は岩津、岡崎、大給、松平郷といったところでしょう。彼らとの抗争の中で、信忠の隠居は規定路線になります。その後継をめぐって安祥家は二派に分かれます。桜井松平信定を押す勢力と、信忠の子、清康を押す勢力です。信定は後背勢力として斯波氏の庇護を受けており、織田信秀、水野忠政らがその背後にいます。それを受け入れられるかどうかの判断を三河松平氏は突きつけられた格好になっております。
 水野忠政の妻は岡崎松平信貞の娘であり、桜井松平信定は安祥以外の一門衆との閨閥を有しております。桜井信定擁立ということであれば、岡崎松平家と水野家の支持をえることができそうです。安祥松平家が御家安泰を図るなら、ここは松平信定を惣領家家督とした方が誰も傷つかない状況だったということが出来るでしょう。これは安祥松平家惣領の長親にも理解できることです。
 対して、清康擁立の立場は微妙です。安祥家正嫡とはいえ、この危急の刻に十三歳の幼君に一門の浮沈の舵取りをさせるというのはギャンブル以外の何者でもありません。非器――ウツワにアラず――無能として押し籠められた信忠の代替としての、実力未知数の幼君というのは一門が納得する解としてはありえないと思います。これは別に擁立した勢力があったと見るべきでしょう。
 故に松平信忠を押し籠めた実行犯が石川忠輔であったというエピソードが残っていると言う事実は大きな意味を持ちます。幼君推戴をしたのは一門ではなく、家臣団だったということです。
 現に清康は家督相続早々、岡崎松平家と戦っております。これはそれぞれが別の事件であるということではなく、信忠押籠の後始末であったと考えております。

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2008年6月10日 (火)

川戦:押籠編⑨押籠の実行犯

 最近、宮城谷昌光氏の『風は山河より』という小説を読み始めました。本稿でも触れる予定の松平清康康による東三河征服から家康の代の長篠合戦までの期間を東三河の国人領主菅沼氏の視点から描いた小説です。

 そこに、松平信忠の押籠めシーンがあったのですが、ここの実に興味深いエピソードが紹介されておりました。主君押籠めの実行犯が誰なのかが書いてあるのですね。一門の意を受けた信忠の腹心。石川忠輔だというのです。石川忠輔は松平親忠に仕えた親康の子であり、寛政重修諸家譜には、小川の伯父康長と計って、野寺本証寺その他の地侍を安祥家の御麾下となしたとあります。安祥松平氏の功臣といってよい人物です。その彼が主君信忠に城外に美人がいると、告げてその言葉に誘われて外に出た所を捕まって大浜称名寺に監禁されたというストーリー仕立てです。

 出典は徳川実紀だと書いてあったので、調べてみましたが、見当たりませんでした。徳川実紀という本は、林述斎の指揮の元、成島司直をはじめとする幕府の史家達が1809年(文化六年)に起稿、1849年(嘉永二年)に十二代代徳川家慶に献じられた歴史書です。初代家康(東照宮)から十代家治(浚明院殿)までの治世を、家康の代なら東照宮御実紀、二代秀忠なら台徳院御実紀という具合に編年体で記述てあり、幕府の公式記録と言うべきものです。基本的に各将軍の治世を記録したものですから、徳川家康以前の記録は本来の採録すべき範囲外なのですが、血統を糺す意味合いもあって、清和天皇から家康に至る経歴が東照宮御実紀の冒頭に書かれております。
 ここでの記述は三河物語にあるのと同じく、誰が信忠を隠居に追いやったのかは明確に書かれていないものです。徳川実紀は大分の書物であり、人物索引の副読本で引いてみたのですが、やはりなさそうです。徳川実紀の編纂に加わった成島司直には「改正三河後風土記」というその時代を扱った著作もあるのですが、やはりその記録はありません。ここまで探して見つからなかったので、同じ宮城谷昌光氏が書いた『古城の風景』というエッセイを読んでみたところ、信忠押し込めの同じ話が載っておりました。そこには『三河後風土記正説大全』にあると書いてあり、確認いたしました。

 似たような書名が色々出てきましたので、若干整理します。
 徳川家康に平岩親吉という家臣がおりました。彼は主君の一代記と主家の由来を記した書物を書いたという伝が残っております。その書名を『三河後風土記』といいます。
 ところがこれは偽書であるらしい。少なくとも、幕末の頃に幕臣として史書編纂に携わった成島司直はそう主張しております。彼が考証を行った結果、『三河後風土記』の編者は江戸初期に偽系図を広めていた沢田源内という人物ではないか、と指摘ました。そればかりか、この『三河後風土記』に対して『三河物語』や『武徳編年集成』などの記述を元に、校訂を加えて『改正三河後風土記』なんて本を作ってしまいました。成島司直が『徳川実紀』の編纂に取り掛かる以前の話です。やっぱりというかなんというか、『改正三河後風土記』に書いてないことが『徳川実紀』に書いてあるとは思えなかったのです。
『三河後風土記正説大全』は伝平岩親吉=沢田源内?系統の本を改撰した書物です。成立は享保年間で、神田白龍子という兵学者・軍談家が加筆したものらしい。
 まぁ、徳川実紀にせよ、三河後風土記にせよ、三河後風土記正説大全にせよ、改正三河後風土記にせよ、史料価値としてはそんなに高いものではありません。それらの書物がネタ元にしている史料が重要になってきます。本稿で三河物語を重視しているのはそれらの書物のネタ元もしくは、ネタ元に一致する記述のある、江戸初期の史料であるからです。

 とはいえ、『石川忠輔による押籠』のエピソードはこの時代の一門と家臣の関係を示唆するものの一つであるような気がします。
 清康相続後の別のエピソードですが、三河物語にも家臣と一門の関係を示すエピソードが記されております。安祥松平家とその家臣たちで能の興行をしたときの事です。松平一門で、松平清康野叔父の桜井信定のために用意された席に家臣の一人が居座り、どけ・どかぬの押し問答がありました。家臣は最初は席を譲るつもりだったのですが、公衆の場で面罵されたことに憤りそのまま居座ったのですね。これを聞きつけた清康はその家臣を呼びつけたのですが、清康は一門にくってかかったこの家臣を罰しませんでした。それどころか、家臣の家の過去の功績を褒め称え、あまつさえ領地の加増すらしたのです。例によって具体性のないあいまいな書き方をしている部分で当の家臣が一体誰であるのか、三河物語は明らかにしておりません。しかしながら、三河物語の書き方は明らかに家臣の方に非があるような書き方をしつつなおも、清康が家臣を庇った度量の広さを褒めております。
 これを能の席取りの話ではなく、土地争いの仮託であるととらえれば興味深いものがあります。桜井の土地は明応の井田野合戦で、矢作川西岸の国人・土豪達との争いに勝利した松平親忠が子の親房を入れたことが始まりです。桜井の土地は本願寺教団の三河三ヶ寺の一つ本証寺に程近く、石川・内藤等の門徒達の勢力圏です。明応の井田野合戦で敵対した姫の領主、内藤重清を討った関係でしょう。門徒達にとっては進駐した形になります。桜井の新領主、親房には子がいなかったようで、その土地は長親の子の信定が継ぐことになりましたが、進駐した形には変りありません。そんな中、起こった土地争いというのはありそうな話です。語り手の大久保忠教にとって、信定は主筋に当たる人物であり、清康の治世を理想化しているきらいがありますから、これを能の興行に置き換えるということはありそうな話だと思います。
 これが土地の争いだとするならば、清康がこの家臣を責めず、譜代の奉公を褒め称えるという行動には、もともとの家臣達の物であった土地を奪った松平家の負い目を認めたと取れます。加増はその補償のために代替地を用意してやったのかもしれません。いずれにせよ、このエピソードは清康の時代にあっては、一門といえども家臣を無視できない程の勢力となったことを示しています。

 そのターニング・ポイントが『石川忠輔による押籠』にあったのかも知れません。信忠の隠居に主導的に動いたのは松平一門衆でした。しかし、一門衆は一枚岩ではありません。安祥家とそれ以外に分裂しつつありました。石川忠輔がその一門の意向で押籠に動いたとするならば、その首謀者が誰であるのかを考えなければならないかと思います。次項でそれを整理してみます。

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2008年6月 5日 (木)

押籠編⑧『尾三連合』の行く末

 永正年間に三河国に侵入した今川氏親。その侵攻に対抗するために一つの連合体のようなものが存在していました。『尾三連合』と思いつきで名づけましたが、どの歴史書にも載ってませんから悪しからず。それは、尾張国守護斯波義達と西条吉良義信とその孫義堯を中心とした勢力です。そして、吉良義信は足利義材とも近しい関係にありました。
 遠江国を今川氏に奪われた斯波義達は三河の吉良義信の支援を受けて、自ら軍を率いて攻め込みました。現在の浜松にあたる引馬を領していたのは吉良氏被官の大河内貞綱です。その奪回は吉良氏にとっても斯波氏にとっても重要な課題でした。吉良氏は三河国における立場を固めるために、被官衆に婚姻政策をすすめます。安祥松平家にもその誘いの手がきました。松平家は今川氏に岩津家を攻撃され、大樹寺は破壊されて大きな被害を受けておりました。その再建と復興のために吉良氏の助力は欲しかった所でしょう。松平信忠は大河内貞綱の一族の娘を娶りました。そして、信忠の妹を吉良家の家臣富永氏に嫁がせております。おそらく、その見返りとして後方支援を担ったのかもしれません。もしくは、最前線で戦ったかもしれませんが、その活躍は記録に残っておりません。ただ、信忠の声望の低下は、この『尾三連合』が今川氏親に敗れた後におこっておりますから、その可能性がないわけではありません。
 そうした苦労を尾張国の斯波氏は汲んだようです。松平信忠の弟、桜井松平信定に那古屋に程近い守山に領地を与えました。その事は連歌師である宗長が記した『宗長日記』の大永六年三月二十七日条に尾張国守山にある松平与一信定の館で千句の興行があったことが記されているのでわかります。
 そして、桜井信定には織田信定の娘を娶らせました。尾張の織田家には幾つか系統があるのですが、この織田信定は弾正忠家、織田信長の祖父に当たる人物です。これを視野に入れるなら、桜井松平信定を安祥家の後継に推した人々のスタンスがわかると思います。即ち、『尾三同盟』のてこ入れを行い、安祥松平家を尾張国の利益の代弁者としたい勢力です。但し、この時の斯波家は当主義達が今川氏親の捕虜となり、侘びを入れて尾張に還されておりました。目付けとして那古屋に今川氏豊が送り込まれております。斯波家は衰亡の道を走っておりましたが、尾張国を織田家が乗っ取るのはもう少し先の話になります。よって、桜井信定を推す勢力がその意図を貫徹できなかったとしてもそれはやむを得ないことだったかもしれません。

 戸田憲光が唱えた伊勢宗瑞を中心とした『三河国人連合』は今川家の撤退によって霧散しました。目的を見失った連合体は消え去ってしまうのが宿命です。それに対するアンチ・テーゼとして、打倒今川を旗印に『尾三連合』は結成されました。しかし、その当初の目的が果たせないことが誰の目にも明らかになった時、新たな枠組みが必要になってきます。
 松平信忠の退場をその文脈でみるならば、松平清康の登場と限界はおのずと明らかになってくるのではないかと思います。

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2008年6月 3日 (火)

押籠編⑥松平信忠と『尾三連合』

 親忠の死を契機に長親は信忠に家督を譲り、自らは出家します。とは言え家督と惣領は異なり、惣領は終身です。将軍職を譲った後の大御所徳川家康と二代将軍秀忠の関係を思い浮かべていただければ、ご理解いただけるのではないでしょうか。二重権力のようにも見えますがこのような役割分担の類例は他家にも結構みることができます。

 ところが、この信忠は『不肖』の後継者だったといわれております。三河物語では松平歴代の中で、この人物だけは徹底的にこき下ろしているのですね。曰く、武芸に劣り、家臣を労らず、慈悲の心が無い人物であると。その為に信忠に対して主君押し込めを敢行し、弟の桜井松平信定を推す勢力が現れ、これを抑えきれずに跡目を子の清康に譲って隠遁したとあります。三河物語はこの後の清康をベタ褒めしていますので、あえて信忠を腐しているフシもなくはありませんが、その実情はどうなのかについて以下に考証してみようと思います。

 長親の構想では、長親が死ねば信忠が惣領のまま出家して大樹寺に入り、安祥家の家督は孫の清康が継ぐ事になっていたのではないかと思われます。しかし、結果として長親の目論見は成立しませんでした。親忠が死去した時、信忠は僅か十一歳でした。伊勢宗瑞が井田野に攻め込んだ時は十六歳。一軍の将として、一族の命運を握って采配を振るうには若すぎまます。それ故隠居した長親が前線に立った訳です。
 長親は次男信定に桜井を、三男義春に青野を、四男親盛に福釜を、五男利長に東端をと、次々に分家を作りました。長親の長男である信忠の年齢及び、信忠の嫡男清康の生誕時期(永正八年・1511年)を考えると、それらが行われたのは永正三河乱の後のことであり、大河内氏とその主人である吉良氏のバックアップを得ての事だと考えられます。1508年(永正五年)に足利義材(義植)が将軍に復帰した時、時の西条吉良家当主の吉良義信は京の館に足利義材を招いて歓待しておりますし、その後も足利義材とは良好な関係を保っております。1511年(永正八年)には、吉良氏被官の大河内貞綱が斯波義達の支援を得て遠江に出陣しているのですから、この時点の松平長親・信忠の立場も足利義材よりと考えて差し支えないだろうと思います。

 この体制は一見磐石に見えます。三河国内の敵対勢力に対しては吉良氏が支え、今川氏の国外勢力に対しては斯波氏がにらみを聞かせる。本願寺教団に対しては、大樹寺を一門の宗派と定め、松平親忠の子孫はこれに帰依することを要求しました。岩津家は事実上解体した中、安祥家が結束すれば、他の一門も従わざるを得ないでしょう。本願寺教団も朝倉・畠山氏が指示する室町殿足利義材・管領細川高国の監視下にあって身動きの取れない状況です。強権的に見えるかもしれませんが、信忠は称名寺に永正三河乱の戦死者供養のための踊念仏を企画するなどして、民心の安定を図ったりしました。

 しかし、この状況は長続きしません。まず、1517年(永正十四年)に大河内貞綱が、引馬で今川勢と戦い、敗死します。遠江国は完全に今川氏親の手に落ちました。今川氏親は斯波義達を捕らえ、因果を含めて尾張国に送り返します。その際に末子の氏豊を那古屋(現在の名古屋)に送り込みました。斯波氏にはそれを排除する余力もありません。
 三河の本願寺勢にとっては勢力挽回のチャンスですが、ここで大きな牽制球が投げられました。1518年(永正十五年)に実如が本願寺門徒に対して、三箇条の掟を定め、遵守を要求したのです。曰く、戦争するな、徒党を組むな、年貢を滞らせるな。一言で言うと王法に従えです。これは細川高国が牛耳る幕府の圧力をかわすため、教団強化の時間を稼ぐための命令でした。
 しかし、『尾三連合』にとってこの後自体はさらに悪化します。1521年(大永元年)足利義材が阿波に出奔しました。管領細川高国と対立したせいです。時の西条吉良家当主は義堯でしたが、以後、京都において吉良氏が活動することがなくなりました。つまり、将軍家とのパイプが途切れてしまったわけです。そして、その年、斯波家当主の斯波義達も亡くなっております。三河において松平家と吉良家を守ってくれる勢力が悉くなくなったわけですね。当然、安祥松平家に対する求心力も低下してゆきます。

 そこに降って湧いたのが信忠押し込めの動きでした。その後に清康が取った行動を考えれば、その擁立者の思惑も浮かび上がってくるように思います。即ち、それは外征。庇護者のなくなった三河国はこのままだと外部勢力の草刈場になることは必定でした。そこで一か八か三河国を一つにまとめ上げるというプランが練られたのだと思われます。その為の安祥家家督の移譲です。
 現存する史料から鑑みるに、信忠は三河物語でいわれているような武芸に劣り、家臣を労らず、慈悲の心が無いという欠点を全て持っているようには思えないのですね。踊念仏を企画したり、宗派を問わず諸寺に寄進を行ったりと民心を安んじるための努力を不断に続けているような人物です。ただ、その活動は武士団の棟梁というよりは、有徳人としての活動に近いように見受けられました。この人物には戦闘に参加したと言う記録がないのです。そこから戦の才に恵まれていなかったという評価はありうるのかもしれません。そして、清康が家督を継ぐや否や一族間で係争が勃発した所を見るに、信忠にはその係争の当事者となれない事情があったと言えるのかもしれません。

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