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2008年6月12日 (木)

川戦:押籠編⑩考察

 本編は派閥の離合集散が激しい時代に当たりますので、ややこしかったかと思います。私の頭の中の整理を含め、以下にその概略をおさらいします。
 永正五年、今川氏親は東三河国人達を従えて井田野に殺到しました。その時の攻勢はこんな感じです。
  今川氏親、伊勢宗瑞、駿遠国人、東三河国人(本多氏含む)、戸田憲光
 対する松平勢は
  岩津松平氏、安祥松平長親、岡崎松平、酒井、本多、大久保他
 中立勢力は
  本願寺教団

 この時、京では細川政元暗殺の余波で三人の養子達が後継者争いをする間隙を突いて、足利義材が上洛を果たしております。義材の支援をしている勢力の中には本願寺と戦っている畠山氏、朝倉氏がいます。山科本願寺法主の実如は堅田に遷り、本願寺教団は身動きの取れない状況でした。
 今川の進軍は井田野で一応止まります。ここで、戸田憲光は伊勢宗瑞に今川と縁を切れと申し出ます。彼が考えていた三河の統治形態はだいたいこんな所でしょうか。

 足利義材>伊勢貞宗>伊勢宗瑞、戸田憲光、松平長親、東三河国人衆、本願寺教団

 伊勢貞宗は足利義材の上洛と同時にこれを迎え入れ、幕閣の一角に居残りました。本願寺法主実如の母は伊勢家の出でありましたので、一応勢力に入れております。伊勢氏を中心とした三河国というのも思考実験としては面白いと思います。
 しかし、伊勢宗瑞はそれに従いませんでした。彼はその後駿河以西の戦いからは身を引き、関東の戦に専念します。戸田構想(と私が勝手に名づけたもの)は伊勢宗瑞がいて初めてなりたつものでしたので、三河の親今川勢力はその中心を喪った形になりました。今川氏親は足利義材から遠江守護の肩書をもらったため、義材派とカテゴライズされている研究者も多いと思われます。
 しかし、私自身はそんな単純なものではなかったと考えています。上洛した足利義材の政策スタッフに伊勢宗家の貞宗も入っており、今川家は伊勢氏ルートというパイプも築けていたにもかかわらず、この直後伊勢宗瑞は三河経営から身を引いているのですね。その路線は潰えていると考えております。伊勢貞宗は足利義材を宥めて、堅田に籠っている本願寺九世法主の実如の山科本願寺復帰の介添えをしましたが、その後管領細川高国が失脚するまで、山科本願寺は身動きの取れない状況でした。足利義材=伊勢氏=今川氏親のラインは上手く機能していないと私は見ております。

 今川侵攻の反作用として結成されたのが尾三連合です。ここにも背後に足利義材が噛んでいると思われます。斯波義達は遠江国守護の座を義材に取り上げられた形ですが、回復の機会も与えました。少なくとも、斯波義達が遠江奪還の戦いを今川氏親に仕掛けることを止めませんでした。畿内には足利義澄と細川澄元が健在で、義材は京の掌握を急がなくてはなりませんでした。だから、東海道では駿遠三を支配する巨大な領主が誕生するよりは、旧主と新主で消耗戦をしてもらっていたほうが都合がよかったのです。それを京で支えたのが、西条吉良義堯でした。

 足利義材>斯波義達>吉良義堯>大河内貞綱・満成、富永氏、松平長親・信忠、水野忠政

 この連合を背景に、松平長親・信忠親子は矢作川流域の支配を進めます。そして、岩津松平家からの独立を図る文書を大樹寺に遺します。すなわち――松平親忠の子孫(つまり安祥家一門)は男女の別なく大樹寺に帰依すること――です。
 しかし、この布陣も串の刃が欠けるように脱落してゆき、連合は有名無実に陥ります。
 まず、遠江で斯波軍が今川氏親に敗北します。大河内貞綱は敗死し、斯波義達も捕虜となって尾張に送り返されます。次に足利義材が管領細川高国と争って京を出奔します。吉良義堯の影響力は足利義材の後ろ盾あってのものでしたので、やむなく三河に戻ります。連合の中心を欠いてしまった結果、松平長親・信忠は一門の不満を抑えきれなくなります。信忠は一門衆が帰依する諸寺院に対して、寄進や禁制・安堵状の発行により保護を行いますが、一門衆の納得は得られなかったようです。

 1522年(大永二年)、信忠押籠の前年に三河国を連歌師の宗長が東三河から西上の途上、通りがかりますが、三河国で俄かに矛盾することがあったため、矢作・八橋を通過する予定を海路を使って刈谷まで向かいました。この時点ですでに戦いは始まっていたようです。それは安祥信忠対岡崎信貞だったと思われます。

 反安祥の勢力は岩津、岡崎、大給、松平郷といったところでしょう。彼らとの抗争の中で、信忠の隠居は規定路線になります。その後継をめぐって安祥家は二派に分かれます。桜井松平信定を押す勢力と、信忠の子、清康を押す勢力です。信定は後背勢力として斯波氏の庇護を受けており、織田信秀、水野忠政らがその背後にいます。それを受け入れられるかどうかの判断を三河松平氏は突きつけられた格好になっております。
 水野忠政の妻は岡崎松平信貞の娘であり、桜井松平信定は安祥以外の一門衆との閨閥を有しております。桜井信定擁立ということであれば、岡崎松平家と水野家の支持をえることができそうです。安祥松平家が御家安泰を図るなら、ここは松平信定を惣領家家督とした方が誰も傷つかない状況だったということが出来るでしょう。これは安祥松平家惣領の長親にも理解できることです。
 対して、清康擁立の立場は微妙です。安祥家正嫡とはいえ、この危急の刻に十三歳の幼君に一門の浮沈の舵取りをさせるというのはギャンブル以外の何者でもありません。非器――ウツワにアラず――無能として押し籠められた信忠の代替としての、実力未知数の幼君というのは一門が納得する解としてはありえないと思います。これは別に擁立した勢力があったと見るべきでしょう。
 故に松平信忠を押し籠めた実行犯が石川忠輔であったというエピソードが残っていると言う事実は大きな意味を持ちます。幼君推戴をしたのは一門ではなく、家臣団だったということです。
 現に清康は家督相続早々、岡崎松平家と戦っております。これはそれぞれが別の事件であるということではなく、信忠押籠の後始末であったと考えております。

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