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2008年6月26日 (木)

川戦:英雄編②松平継承戦争

 石川忠輔を松平蔵人信忠押籠めの実行犯として『三河後風土記正説大全』よりも、成立年次が古く、より信憑性が高そうな『松平由来書』によると、松平郷の松平勝茂を初めとする一門衆が集まり、乱暴・無慈悲で強毅な信忠を弾劾し、松平信忠の隠居とそれに替わる後継者をたてなければ一門衆はそれぞれの所領に引き籠り、出仕はしないことを申し合わせます。その決定を起請文にして安祥松平家の家老である酒井将監忠尚に手渡します。酒井忠尚はこれを松平信忠に見せたところ、観念して家督を嫡子の清康に譲り、自らは隠居した。と、言うことになっています。
 このあたりは三河物語には書いていないことなので、別史料で埋めるしかないのですが、いずれにせよ信忠に直接引導を渡したのは一門衆ではなく、家臣だったようですね。

 そもそも松平信忠が孤立したのは、永正三河乱で破壊された大樹寺を再建した折、安祥家初代の親忠の子孫は皆大樹寺に帰依せよと宣言したことにあったと、私は考えております。これは宗家であった岩津松平家をないがしろにする行為であるかのように一門衆には映ったのではないでしょうか。この時点で岩津松平家の勢力がどの程度のものであったかは不明ですが、これ以後信忠は西方寺、妙心寺、萬松寺など、一門ゆかりの寺社に禁制・安堵を施し融和に努めます。しかし、同盟を組んだ斯波氏・吉良氏が遠江国で今川氏親に敗北した煽りをうけて、安祥松平家の権威は失墜します。このあたりは全くの想像ですが、斯波氏・吉良氏の遠江国回復をあてこんで、一門衆に約束したことが反故になったのかもしれません。一門衆の信忠に対する信用はなくなり、新たな松平家の枠組みが話しあわれたのだと見ております。

 信忠後継候補は桜井松平信定であったことは、三河物語にも明記してあります。それを推進したのは誰なのか。確定できませんが、一門衆だったのではないでしょうか。そしてその場合、その地位はあくまでも安祥松平家家督であって、松平宗家の惣領としての椅子が用意されていたのではなかったのではないかと考えます。
 なぜなら、桜井松平信定は次男であり安祥家家督の地位は一門衆の支持に基づくものになるからです。仮に宗家惣領の立場を得られたとしても立場は弱くなり、実権は一門衆に握られることになります。しかし、それは安祥松平家の家臣達の地位弱体化に繋がることでもありました。
 安祥松平家は親忠の代から信忠に至るまで矢作川沿いの本願寺教団の勢力圏に分家を配し、家臣団を組織しておりました。その多くは門徒武士です。彼らは松平宗家家臣となることによって松平家との共存を図っておりましたが、分家の家臣に格下げとなれば彼らに任された裁量も大きく減じられてしまうことは想像に難くありません。
 では、何故桜井松平信定ではいけないのか。安祥家家臣の立場に立つなら、その場合一門衆と大きな妥協をする懸念があったからではないでしょうか。そう考えると、信忠が家臣に引導を渡される形で押籠められたのも、信忠が一門衆に対して融和的な姿勢をとっていたからとも考えられます。
 実行犯として石川忠輔や酒井将監忠尚の名前が挙げられていることはとても示唆的です。家康の代になって、三河で一向一揆が起きた折、石川一族の多くは一揆方となり、酒井将監忠尚もまた一揆方の将として戦っております。
 すなわち、信忠押籠は一門衆に対して非妥協路線を推し進める門徒家臣による幼君擁立クーデターの可能性があります。門徒達に対しては、1518年(永正十五年)に本願寺九世法主実如が三法令を発布し、私戦は禁じられておりましたが、松平家の内訌から自分達の権益を守るという名分でしのいだのではないかと考えます。松平家が『尾三同盟』に忠実であれば、吉良家、斯波家の協力は得られるはずで、松平家の内訌はそれを脅かすものであったということも出来たかもしれません。

 1522年(大永二年)、信忠押籠の前年に三河国を連歌師の宗長が東三河から西上の途上、通りがかりますが、三河国で俄かに矛盾することがあったため、矢作・八橋を通過する予定を海路を使って刈谷まで向かいました。この時点ですでに戦いは始まっていたようです。それは安祥松平信忠対岡崎松平信貞だったと思われますが、具体的に誰が誰を敵として戦ったかは不明です。岩津松平家や大給・松平郷の動きもわかりません。
 史料の上で明らかなのは、1524年(大永四年)岡崎松平信貞が山中城を安祥松平清康に奪われ、大草に退去したということです。大草はかつて松平信光が西郷頼嗣を岡崎から追いやった地でもあります。
西郷頼嗣はその折に、征服者である信光の子、光重を養子にしたとされており、その縁か岡崎松平信貞は西郷氏を称していたとも言われております。以後、岡崎松平信貞の血統は大草松平家と呼ばれるようになります。時に清康、弱冠十四歳です。

 清康は奪った山中城に入りました。そして、根拠地を竜頭山に移し、そこに岡崎城を移設します。これは井田野を視野にいれたかったのではないかと私は考えます。旧岡崎松平家が根拠地としていた明大寺や山中城は井田野からみれば、乙川を超えた所にあります。
 井田野のど真ん中に大樹寺があるのですが、これは永正三河乱においてもあっさりと占領されておりますし、防衛拠点としてあまり役にたっていません。松平長親は安祥から兵を率いて戦う羽目に陥っております。大樹寺の山門から竜頭山の岡崎城は一直線の位置にあってよく見えるといいます。過去から係争の地である井田野は松平家にとっての心臓部だったのではないかと思われるのです。

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