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2008年6月24日 (火)

川戦:英雄編①プロローグ

 ようやく、松平清康までたどり着きました。松平清康は1510年(永正七年)生まれです。家督を継いだのが1523年(大永三年)で十三歳の時でした。没年が1534年(天文四年)で、二十五歳を待たずに死んでおります。その間三河国をほぼ統一し、尾張国にまで攻め込むという縦横無尽の活躍をしていたわけです。でも、こんな活躍をするには若過ぎると思うのです。しかも、家督を継ぐ直前には前の家督である信忠が一門・家臣と内訌を繰り広げておりました。そんなグダグダ状態の松平一門の屋台骨を建て直し、一族郎党を結束させて三河国統一という偉業を果たすなどということをわずか十三歳の少年一人の力でできるかというと、不可能だと思います。それを可能にする者は英雄の称号を受けるに充分の資格を有していると私は談じます。
 しかしながら、本稿は歴史考察を目的としております。であるならば、何がそれを可能にしたのかを考察するのが本稿の本分です。勿論、清康は有能でしたし将器もありました。一門衆や家臣達にも有能な人材が揃っていたことを否定するものではありません。長親の代には存亡の危機に立たされるくらいの猛攻を受け、信忠の代には勢力維持が手一杯だった松平氏に、爆発的な勢力伸張をもたらしたのは一体何なのか。そこにスポットをあてて仮説をたててみました。

 松平清康について三河物語を書いた大久保忠教は三十まで生きていたなら天下を取ていただろうと、激賞しております。客観的に見て、確かに清康の代で松平家は大きくなりましたが、他勢力の伸張度合いと比べても、少しハッタリを効かせすぎているのではないかと思えます。松平清康とその家臣達が見た天下取り構想まで考察をすすめられたらいいな、とおもいつつ本稿を記します。

1511年(大永 元年)    松平清康(1)、生誕。
1521年(大永 元年)    足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。
1523年(大永 三年)    清康(13)、家督継承。(明大寺)岡崎親貞と戦争を始める。
1525年(大永 四年)    清康(14)、岡崎親貞を大草に追い、岡崎に移る。
1525年(大永 五年)    清康(15)、足助の鈴木重政を降伏させる。
1526年(大永 六年) 三月 松平信定、この頃までに守山を領有
           八月 今川氏親没。氏輝が家督相続
1528年(大永 八年)    清康(18)、岡崎で鷹狩中に叶田大蔵に襲撃される。
1529年(享禄 二年)    清康(19)、小島城を攻める。
1530年(享禄 三年)    清康(20)、岡崎城を明大寺から竜頭山に移す。
              清康、尾張出兵
              清康、宇利城を攻める。
              清康、吉田城を攻める。
1531年(享禄 四年) 六月 本願寺法主証如、北陸三ヶ寺の討伐令。実円出陣。(大小一揆)
          十一月 清康(21)、伊保の三宅加賀守を広瀬城に追う。
1533年(天文 二年) 三月 清康(23)、三宅・鈴木連合軍を岩津で撃破。
          十二月 清康、品野(桜井信定?)勢と井田野で戦う。
1535年(天文 四年) 六月 清康、猿投神社を焼く。
          十一月 石山本願寺、細川晴元の軍門に降る。
          十二月 清康(25)、守山に出陣して陣没(守山崩れ)
1536年(天文 五年) 三月 今川氏輝没。花倉の乱を経て今川義元が家督相続。

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