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2008年6月 3日 (火)

押籠編⑥松平信忠と『尾三連合』

 親忠の死を契機に長親は信忠に家督を譲り、自らは出家します。とは言え家督と惣領は異なり、惣領は終身です。将軍職を譲った後の大御所徳川家康と二代将軍秀忠の関係を思い浮かべていただければ、ご理解いただけるのではないでしょうか。二重権力のようにも見えますがこのような役割分担の類例は他家にも結構みることができます。

 ところが、この信忠は『不肖』の後継者だったといわれております。三河物語では松平歴代の中で、この人物だけは徹底的にこき下ろしているのですね。曰く、武芸に劣り、家臣を労らず、慈悲の心が無い人物であると。その為に信忠に対して主君押し込めを敢行し、弟の桜井松平信定を推す勢力が現れ、これを抑えきれずに跡目を子の清康に譲って隠遁したとあります。三河物語はこの後の清康をベタ褒めしていますので、あえて信忠を腐しているフシもなくはありませんが、その実情はどうなのかについて以下に考証してみようと思います。

 長親の構想では、長親が死ねば信忠が惣領のまま出家して大樹寺に入り、安祥家の家督は孫の清康が継ぐ事になっていたのではないかと思われます。しかし、結果として長親の目論見は成立しませんでした。親忠が死去した時、信忠は僅か十一歳でした。伊勢宗瑞が井田野に攻め込んだ時は十六歳。一軍の将として、一族の命運を握って采配を振るうには若すぎまます。それ故隠居した長親が前線に立った訳です。
 長親は次男信定に桜井を、三男義春に青野を、四男親盛に福釜を、五男利長に東端をと、次々に分家を作りました。長親の長男である信忠の年齢及び、信忠の嫡男清康の生誕時期(永正八年・1511年)を考えると、それらが行われたのは永正三河乱の後のことであり、大河内氏とその主人である吉良氏のバックアップを得ての事だと考えられます。1508年(永正五年)に足利義材(義植)が将軍に復帰した時、時の西条吉良家当主の吉良義信は京の館に足利義材を招いて歓待しておりますし、その後も足利義材とは良好な関係を保っております。1511年(永正八年)には、吉良氏被官の大河内貞綱が斯波義達の支援を得て遠江に出陣しているのですから、この時点の松平長親・信忠の立場も足利義材よりと考えて差し支えないだろうと思います。

 この体制は一見磐石に見えます。三河国内の敵対勢力に対しては吉良氏が支え、今川氏の国外勢力に対しては斯波氏がにらみを聞かせる。本願寺教団に対しては、大樹寺を一門の宗派と定め、松平親忠の子孫はこれに帰依することを要求しました。岩津家は事実上解体した中、安祥家が結束すれば、他の一門も従わざるを得ないでしょう。本願寺教団も朝倉・畠山氏が指示する室町殿足利義材・管領細川高国の監視下にあって身動きの取れない状況です。強権的に見えるかもしれませんが、信忠は称名寺に永正三河乱の戦死者供養のための踊念仏を企画するなどして、民心の安定を図ったりしました。

 しかし、この状況は長続きしません。まず、1517年(永正十四年)に大河内貞綱が、引馬で今川勢と戦い、敗死します。遠江国は完全に今川氏親の手に落ちました。今川氏親は斯波義達を捕らえ、因果を含めて尾張国に送り返します。その際に末子の氏豊を那古屋(現在の名古屋)に送り込みました。斯波氏にはそれを排除する余力もありません。
 三河の本願寺勢にとっては勢力挽回のチャンスですが、ここで大きな牽制球が投げられました。1518年(永正十五年)に実如が本願寺門徒に対して、三箇条の掟を定め、遵守を要求したのです。曰く、戦争するな、徒党を組むな、年貢を滞らせるな。一言で言うと王法に従えです。これは細川高国が牛耳る幕府の圧力をかわすため、教団強化の時間を稼ぐための命令でした。
 しかし、『尾三連合』にとってこの後自体はさらに悪化します。1521年(大永元年)足利義材が阿波に出奔しました。管領細川高国と対立したせいです。時の西条吉良家当主は義堯でしたが、以後、京都において吉良氏が活動することがなくなりました。つまり、将軍家とのパイプが途切れてしまったわけです。そして、その年、斯波家当主の斯波義達も亡くなっております。三河において松平家と吉良家を守ってくれる勢力が悉くなくなったわけですね。当然、安祥松平家に対する求心力も低下してゆきます。

 そこに降って湧いたのが信忠押し込めの動きでした。その後に清康が取った行動を考えれば、その擁立者の思惑も浮かび上がってくるように思います。即ち、それは外征。庇護者のなくなった三河国はこのままだと外部勢力の草刈場になることは必定でした。そこで一か八か三河国を一つにまとめ上げるというプランが練られたのだと思われます。その為の安祥家家督の移譲です。
 現存する史料から鑑みるに、信忠は三河物語でいわれているような武芸に劣り、家臣を労らず、慈悲の心が無いという欠点を全て持っているようには思えないのですね。踊念仏を企画したり、宗派を問わず諸寺に寄進を行ったりと民心を安んじるための努力を不断に続けているような人物です。ただ、その活動は武士団の棟梁というよりは、有徳人としての活動に近いように見受けられました。この人物には戦闘に参加したと言う記録がないのです。そこから戦の才に恵まれていなかったという評価はありうるのかもしれません。そして、清康が家督を継ぐや否や一族間で係争が勃発した所を見るに、信忠にはその係争の当事者となれない事情があったと言えるのかもしれません。

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