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2008年6月10日 (火)

川戦:押籠編⑨押籠の実行犯

 最近、宮城谷昌光氏の『風は山河より』という小説を読み始めました。本稿でも触れる予定の松平清康康による東三河征服から家康の代の長篠合戦までの期間を東三河の国人領主菅沼氏の視点から描いた小説です。

 そこに、松平信忠の押籠めシーンがあったのですが、ここの実に興味深いエピソードが紹介されておりました。主君押籠めの実行犯が誰なのかが書いてあるのですね。一門の意を受けた信忠の腹心。石川忠輔だというのです。石川忠輔は松平親忠に仕えた親康の子であり、寛政重修諸家譜には、小川の伯父康長と計って、野寺本証寺その他の地侍を安祥家の御麾下となしたとあります。安祥松平氏の功臣といってよい人物です。その彼が主君信忠に城外に美人がいると、告げてその言葉に誘われて外に出た所を捕まって大浜称名寺に監禁されたというストーリー仕立てです。

 出典は徳川実紀だと書いてあったので、調べてみましたが、見当たりませんでした。徳川実紀という本は、林述斎の指揮の元、成島司直をはじめとする幕府の史家達が1809年(文化六年)に起稿、1849年(嘉永二年)に十二代代徳川家慶に献じられた歴史書です。初代家康(東照宮)から十代家治(浚明院殿)までの治世を、家康の代なら東照宮御実紀、二代秀忠なら台徳院御実紀という具合に編年体で記述てあり、幕府の公式記録と言うべきものです。基本的に各将軍の治世を記録したものですから、徳川家康以前の記録は本来の採録すべき範囲外なのですが、血統を糺す意味合いもあって、清和天皇から家康に至る経歴が東照宮御実紀の冒頭に書かれております。
 ここでの記述は三河物語にあるのと同じく、誰が信忠を隠居に追いやったのかは明確に書かれていないものです。徳川実紀は大分の書物であり、人物索引の副読本で引いてみたのですが、やはりなさそうです。徳川実紀の編纂に加わった成島司直には「改正三河後風土記」というその時代を扱った著作もあるのですが、やはりその記録はありません。ここまで探して見つからなかったので、同じ宮城谷昌光氏が書いた『古城の風景』というエッセイを読んでみたところ、信忠押し込めの同じ話が載っておりました。そこには『三河後風土記正説大全』にあると書いてあり、確認いたしました。

 似たような書名が色々出てきましたので、若干整理します。
 徳川家康に平岩親吉という家臣がおりました。彼は主君の一代記と主家の由来を記した書物を書いたという伝が残っております。その書名を『三河後風土記』といいます。
 ところがこれは偽書であるらしい。少なくとも、幕末の頃に幕臣として史書編纂に携わった成島司直はそう主張しております。彼が考証を行った結果、『三河後風土記』の編者は江戸初期に偽系図を広めていた沢田源内という人物ではないか、と指摘ました。そればかりか、この『三河後風土記』に対して『三河物語』や『武徳編年集成』などの記述を元に、校訂を加えて『改正三河後風土記』なんて本を作ってしまいました。成島司直が『徳川実紀』の編纂に取り掛かる以前の話です。やっぱりというかなんというか、『改正三河後風土記』に書いてないことが『徳川実紀』に書いてあるとは思えなかったのです。
『三河後風土記正説大全』は伝平岩親吉=沢田源内?系統の本を改撰した書物です。成立は享保年間で、神田白龍子という兵学者・軍談家が加筆したものらしい。
 まぁ、徳川実紀にせよ、三河後風土記にせよ、三河後風土記正説大全にせよ、改正三河後風土記にせよ、史料価値としてはそんなに高いものではありません。それらの書物がネタ元にしている史料が重要になってきます。本稿で三河物語を重視しているのはそれらの書物のネタ元もしくは、ネタ元に一致する記述のある、江戸初期の史料であるからです。

 とはいえ、『石川忠輔による押籠』のエピソードはこの時代の一門と家臣の関係を示唆するものの一つであるような気がします。
 清康相続後の別のエピソードですが、三河物語にも家臣と一門の関係を示すエピソードが記されております。安祥松平家とその家臣たちで能の興行をしたときの事です。松平一門で、松平清康野叔父の桜井信定のために用意された席に家臣の一人が居座り、どけ・どかぬの押し問答がありました。家臣は最初は席を譲るつもりだったのですが、公衆の場で面罵されたことに憤りそのまま居座ったのですね。これを聞きつけた清康はその家臣を呼びつけたのですが、清康は一門にくってかかったこの家臣を罰しませんでした。それどころか、家臣の家の過去の功績を褒め称え、あまつさえ領地の加増すらしたのです。例によって具体性のないあいまいな書き方をしている部分で当の家臣が一体誰であるのか、三河物語は明らかにしておりません。しかしながら、三河物語の書き方は明らかに家臣の方に非があるような書き方をしつつなおも、清康が家臣を庇った度量の広さを褒めております。
 これを能の席取りの話ではなく、土地争いの仮託であるととらえれば興味深いものがあります。桜井の土地は明応の井田野合戦で、矢作川西岸の国人・土豪達との争いに勝利した松平親忠が子の親房を入れたことが始まりです。桜井の土地は本願寺教団の三河三ヶ寺の一つ本証寺に程近く、石川・内藤等の門徒達の勢力圏です。明応の井田野合戦で敵対した姫の領主、内藤重清を討った関係でしょう。門徒達にとっては進駐した形になります。桜井の新領主、親房には子がいなかったようで、その土地は長親の子の信定が継ぐことになりましたが、進駐した形には変りありません。そんな中、起こった土地争いというのはありそうな話です。語り手の大久保忠教にとって、信定は主筋に当たる人物であり、清康の治世を理想化しているきらいがありますから、これを能の興行に置き換えるということはありそうな話だと思います。
 これが土地の争いだとするならば、清康がこの家臣を責めず、譜代の奉公を褒め称えるという行動には、もともとの家臣達の物であった土地を奪った松平家の負い目を認めたと取れます。加増はその補償のために代替地を用意してやったのかもしれません。いずれにせよ、このエピソードは清康の時代にあっては、一門といえども家臣を無視できない程の勢力となったことを示しています。

 そのターニング・ポイントが『石川忠輔による押籠』にあったのかも知れません。信忠の隠居に主導的に動いたのは松平一門衆でした。しかし、一門衆は一枚岩ではありません。安祥家とそれ以外に分裂しつつありました。石川忠輔がその一門の意向で押籠に動いたとするならば、その首謀者が誰であるのかを考えなければならないかと思います。次項でそれを整理してみます。

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