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2008年7月29日 (火)

川戦:英雄編⑪守山出兵

 三河物語が語る、守山崩れにおける松平清康の行動は、不可解極まりありません。まず何ゆえ守山に進出できたのか。一応守山には松平信定の屋敷があることとなっています。松平信定は守山城主織田信広の婿なので、そのとりなしがあれば、尾張に兵を入れることは可能かもしれない。でも、桜井松平信定は仮病を使って散陣拒否をしております。それに伴い、大給松平源次郎(親乗?)、緒川の水野(忠政)、守山城主の織田信広が敵に回る可能性を家臣たちが示唆しています。松平清康はそれを一笑に付しますが、三河一国を従え騎虎の勢にある松平清康が、何ゆえそんな虎口に臨むのか、首を傾げるところです。果たして何があったのかを邪推してみるのが、本稿の趣旨です。

 三河物語によれば、三河国を統一した松平清康が次に計画したのは、美濃国遠征でした。甲斐の武田信虎が同盟を持ちかけ、美濃三人衆(安藤・稲葉・氏家の三家)が案内するといい、守山城主(織田信広か?)も賛同したという、本当だろうかと思わず疑いたくなるような企画にのって松平清康は守山まで行くというストーリー立てになっています。
 他の史料に出てくる記録を追ってゆくと面白いことが見えてきます。まず、1531年(享禄 四年)十一月 清康、伊保の三宅加賀守を広瀬城に追います。これに反撃すべく、翌1533年(天文 二年)三月に三宅氏は足助の鈴木氏と連合を組み岩津までやってきますが、これを清康は撃破します。すると、今度は十二月に品野勢が井田野に攻めてきます。歴史書では、品野ではなく信濃国だと書かれているのですが、三河物語の信虎のくだりと同じく、今ひとつ三河国との繋がりが見えてこない記述なんですね。但し、品野ととらえた場合、そこは桜井松平信定の領地でもあり、松平家の内訌というセンが現れてきます。三河物語においても、松平信定は清康の守山進出に仮病を使って付き合っていないことになっておりますので、何らかの不和があったことは想像できます。そして、その報復なのか、翌1535年(天文四年)清康は猿投神社を焼きます。そして、十二月に守山に進駐するに至ります。

 私が着目するのは、伊保、猿投、品野、守山のラインです。ここに前稿で紹介した実円の動きを重ね合わせると、少々違ったものが見えてきます。すなわち、これらの合戦は前稿で述べた実円の動きに呼応したものではなかったかということです。
 伊保、猿投、品野、守山は実円が動員した三河兵の進軍ルートであったのではないかと私は考えております。守山から北上し、美濃――飛騨――加賀へと至ったという考えです。そう考えるのは、清康の尾張国への進出があまりにも容易に過ぎると思えるからです。
 当時、尾張国は斯波氏から織田氏への支配権移行が進んでいる時期であり、今川氏豊が那古屋に城を構えたり、桜井松平信定が守山に館を構えたりしていた時期でもありました。しかしながら、この後織田信秀が三河国を圧迫するようになるのです。その精強さを考えると、あまりにも簡単に進出できています。この進出を支えた何かがあったのだと考えて不自然ではないでしょう。三河物語が言う、美濃三人衆の誘いや守山城主の賛同は美濃攻めではなく、そのずっと向こうの加賀出兵を支援するという意味合いだったのかもしれません。本願寺教団はすでに飛騨国に対し、白川郷の内ヶ島氏の支援をとりつけております。それと同じく、松平清康は山科本願寺の大一揆を支援していたのではないでしょうか。彼が本願寺教団から要請されていた役割は三河国から尾張国にかけての進軍ルートの確保だった、というのが私の推測です。

 1531年(享禄三年)年の清康による伊保への攻勢はその一環でした。しかしその後、1535年(天文四年)に猿投神社を焼くまで受身になっております。実はこの間に本願寺教団に大きな動きがありました。
 1531年(享禄 四年)の大小一揆は下間兄弟と実円が率いる大一揆の勝利に終わりました。しかし、その直後、畿内で天文の錯乱が起こります。細川晴元家臣団の内訌に介入した本願寺門徒衆は暴走を始め、大和国に乱入し、興福寺などに狼藉を働いたことから、細川晴元を敵にまわすことになったのです。山科本願寺、顕証寺、洛中洛外の本願寺系諸寺は破却され、法主の証如は石山御坊へ、連淳は長島願証寺に逃げますが、細川晴元は攻勢を緩めませんでした。近江亡命中の足利義晴と和解すると、義晴に本願寺討伐令を出させるのです。信長との抗争を除くと、本願寺教団最大の危機だったと思われます。
 本願寺教団はこの時、連淳が脱落しており、実円、下間頼秀、頼盛、二人の父親の下間頼玄らの手で支えられておりました。
 三宅氏、鈴木氏、品野勢が攻めてきたのはそんな時期だったわけです。彼らの行動は幕府――細川晴元と足利義晴の連携体制――の意向に沿うものだと捉えることができるでしょう。これに対して門徒衆を多く抱える松平清康はあくまでも進軍ルートの確保に努めました。しかし、1535年(天文四年)十一月、石山に遷りそこを本願寺とした証如は細川晴元の軍門に降ります。連淳が下間兄弟の首を差し出すことを引き換えに青蓮院門跡を動かして講和を成立させました。
 松平清康率いる三河勢が守山に出陣するのはその翌月です。本願寺と幕府との戦争は終わり、三河から出陣した兵達が帰還するはずです。彼らはおそらくは下間兄弟の手勢として、大小一揆終結後、石山本願寺防衛戦に狩り出されていたはずです。守山出兵は彼らの帰還を待つとともに、確保した三河から守山までの橋頭堡を保全しようという目論見があったのではないかと思われます。
 しかし、清康の手元にはその正当性を補償する担保はありません。本願寺教団は敗北を認め、幕府に帰順しました。しかし、ここで守山をはじめとする尾張ルートを失うことは当然、東三河の情勢にも影響を及ぼすことでしょう。そこを考えて松平清康は引けなかったのではないかと考えます。さりながら、桜井松平信定、大給松平源次郎(親乗?)、緒川の水野(忠政)、守山の織田信広らがいつまでも支援を続けるか――すでに信定は中立の立場に軸足を動かしています――ははなはだ疑問であり、守山に在陣し続けること自体が危険であるという認識が一人清康を除いて、家臣達の共通認識にまでなっていたといえるのではないかと思います。

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2008年7月25日 (金)

川戦:英雄編⑩実円Ⅱ

 その本願寺教団の中枢にいた実円の人生は順風満帆といいたい所ですが、1515年(永正十二年)に播磨国英賀に建てた本徳寺が危機に陥ります。1530年(享禄三年)細川高国とタッグを組んだ浦上村宗が挙兵したのです。彼は備中三石城主でしたが、既に西播磨に勢力を伸ばしておりました。細川高国は1527年(大永七年)に京を追われて以来、伊賀・伊勢・越前・出雲・備中と諸国を転々としました。そして諸侯に上洛を促したのですが、永正の折の大内義興の失敗事例が尾を引いているのか、満足できる成果を得ることが出来ませんでした。それが、1530年(享禄三年)にようやく、備前の浦上村宗に出会うことが出来たのです。

 1527年(大永七年)に細川高国が京を脱出して以来、本願寺は阿波から泉州堺に上陸した足利義維、細川晴元に接近します。そして、家宰の下間頼秀を越中国に派遣し、超勝寺らとともに越中国にある細川高国系の荘園の長を本願寺系のそれに挿げ替えてゆきました。これは細川高国派を必要以上に刺激する行為でした。そのため、加賀国の三ヶ寺である若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺がこれを止めようとして、争論となったほどです。
 そういう状況下で西播磨まで進出していた浦上村宗が細川高国方について東征をはじめたわけです。
本願寺中枢にあって、三河本宗寺、播磨本徳寺の住持であった実円にとっては由々しき事態であったことは想像に難くありません。彼には美濃・尾張・三河三ヶ国の門徒を動員する権限をあたえられていました。とはいえ、英賀救援という形では相当私戦の色が濃くなります。本願寺は表向きには門徒に一揆の禁止を命じています。連淳はそこの部分捌けていて、相当プラグマティックに原則を変えてしまいますが、実円はその立場を自分から崩すことを望まなかったのだと思われます。
 播磨の蜂起に対して、堺幕府は京の柳本賢治を派遣することにしました。それに兵を送ることで呼応したのだと私は考えます。織田達勝についても、没落する斯波家の再興を図るために細川高国との戦いに参戦して、堺幕府に恩を売ることはメリットのないことではありません。但し、湖西の朽木には足利義晴がいて、湖南には細川高国を支持する六角定頼がいます。彼らの目を避けて京に三千の軍勢を送るために、本願寺のネットワークが活用されたのではないでしょうか。
 ルートとしては尾張から北上して美濃に入り、江北から船で一気に願証寺のある大津に入れば、比較的目立たない形で入京することが可能です。京に入ってからは柳本賢治と合流し、柳本軍として播磨に向かったとすれば、織田軍としての記録が無くても不自然ではないでしょう。

 突飛な想像だとは自分でも思いますが、勢力図や後の動きを分析するに全くありえない話でもないのではない、というのが今の自分の考えです。但し、根拠が乏しいことは言うまでもありません。
 本願寺と織田達勝の関係については、『天文日記』と題された本願寺十世法主証如の日記1536年(天文五年)の正月七日と三月十一日の条に尾張国海部郡の浄土真宗本願寺系の有力寺社である興善寺の統制への協力を織田達勝が本願寺に依頼し、本願寺はこれに応えたという記録があるといいます。ですから、本願寺と織田達勝の関係は同時代史料上でも見出せます。

 柳本賢治はその翌月に播磨で陣没します。自害とも暗殺ともいわれております。その翌月までに東播磨の主要な城が落とされ、英賀もまた高国方の手に落ちたようです。
 実隆公記の1531年(享禄四年)五月十二日至十六日裏に記された連歌師周桂書状写しにその事が記されています。『去月十九日播州阿賀へ着きました。細川高国も在所されておられます』

 私の考えでは『織田達勝の上洛』は織田家にとってはミソをつけた形になったものの、実円にとっては大きな成果でした。織田家を味方に引き入れ、美濃・尾張・三河の兵を京に送り込む算段がついたのですから。

 結果として派兵は失敗に終わり、勝ちに乗じて細川高国、浦上村宗の連合軍は摂津に侵入。1531年(享禄四年)三月七日に高国派の一軍が一時的に入京するところに繋がります。
 その状況下で今度は顧名の五子が相争うことになります。1531年(享禄四年)閏五月九日、加賀三ヶ寺の制止にもかかわらず、越中国を攻めた超勝寺、本覚寺門徒達に対して顧名の五子のうち、連悟、蓮慶、顕誓ら加賀三ヶ寺は両寺の討伐を決めます。超勝寺、本覚寺は細川晴元と本願寺の意を受けて、細川高国の息のかかった荘園の荘官人事に介入しましたが、このことが周囲の諸侯、能登畠山、越後長尾、越前朝倉の諸勢力を無用に刺激することを嫌った三ヶ寺の判断でした。
 細川晴元は細川高国、浦上村宗の連合軍に対し、切り札である三好元長を投入します。彼らは摂津中嶋で戦いましたが、ここで高国、浦上連合に裏切りが発生し、大惨敗を喫しました。その結果細川高国、浦上村宗の両名は戦死するにいたります。細川高国が死んだのは1531年(享禄四年)六月八日のことでした。
 それを受けたのか、見越していたのかはわかりませんが、ここで本願寺法主の名において超勝寺、本覚寺の救援と加賀三ヶ寺の討伐を連淳が命じました。大小一揆です。
 実円は連淳側に加担し、法主の執事であった下間頼秀、頼盛兄弟とともに畿内そして三河兵を動員しました。時に1531年(享禄四年)六月末のことです。

 この三河兵動員は松平方の史料にその形跡を見出すことはできません。さりながら、この時点で松平清康は尾張国境から東三河までを制圧した戦国大名になりつつありました。その彼が知らない所で、兵が動員され国外へと派遣されたということはまずありえないことだと考えられます。ましてや、松平家には石川、本多、酒井、阿部他、多くの門徒武士を抱えていたのですから、そこに影響が出てこないということはありえないでしょう。
 この直後、矢作川上流の三宅氏、鈴木氏との抗争が始まります。この戦いは清康勢の尾張西進へと繋がって行き、最終的には清康自身の悲劇的な死へと繋がって行きます。本願寺教団の歴史と、松平家の歴史を照らし合わせれば、この軍事行動に別な意味があらわれるのではないか。そんな風に考えております。

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2008年7月23日 (水)

川戦:英雄編⑨実円Ⅰ

 1530年(享禄三年)の松平清康の尾張征西、それに引き続く織田達勝の上洛についての考察をとりすすめております。そのキーパーソンとする人物が本稿で紹介する実円です。

 彼は本願寺第九世法主実如の息子で、土呂本宗寺の住持です。蓮如の孫に当たる人物なんですね。蓮如の家系図を見ると、一定の法則で名前がつけられていることが判ります。まず、法主(留守職)は○如とつきます。順如や円如は法主になってはいませんが、嫡男であり法主が入寂するまえに、亡くなったためこの法則に従います。そして、嫡男以外の息子には○如の○の字を与えております。蓮如の場合ですと蓮乗、蓮鋼、蓮誓などの『蓮』の字ですね。基本的に法主は終身ですが、蓮如は生前に寺務を実如に委ねています。その間に作った蓮如の後妻の息子たちに実如は『実』の字を与えています。実賢、実悟、実従ら蓮能の息子たちです。実如の嫡男は円如でした。円の字が次世代の偏諱になるはずだったのですが、円如は父実如より先に亡くなります。この円如の弟が実円です。彼は父実如の『実』と兄円如の『円』の両方の偏諱を受け継ぎ、本願寺教団の中心を担うべく期待された人物であったと言うことが出来ます。
 この実円はもともと三河国土呂本宗寺の住持でしたが、実如の子であるという連枝の血統を本願寺教団は欲しておりました。細川政元との連携が敗れ、細川高国のもとで本願寺九世法主実如が逼塞していた1515年(永正十二年)に実円は播磨国英賀(あが)に本徳寺を創建します。これは伊勢国長島願証寺と併せて双璧と言うべき水砦寺院でした。実円は三河国土呂本宗寺と播磨国英賀本徳寺の住持を兼ねました。

 さらにその十年後に実如が入寂します。その臨終の床の実如は近親者五名に遺言を残し、孫の証如を補佐するように言い残します。その五名とは、蓮如の子である近江国顕証寺(及び伊勢国願証寺)の蓮淳、加賀国本泉寺の蓮悟、実如の子である三河国本宗寺(及び播磨国本徳寺)の実円、蓮如の孫である加賀国松岡寺の蓮慶(蓮綱の嫡子)、加賀国光教寺の顕誓(蓮誉の嫡子)の五名で彼らの事を顧名の五子といいます。
 実如死後の体制は山科本願寺に最も近い所にいる連淳が証如の一番の側近として采配を振るいます。連淳は証如の大叔父であると同時に外祖父にもあたるので、実質的な教団中枢にいたと言っていいでしょう。蓮悟、蓮慶、顕誓は加賀国三ヶ寺の住持として加賀国の経営に専念しており、この中枢から少し離れた所に降りました。その間を埋めていたのが実円です。実円は顧名の五子として選ばれてから、証如の後見の一人として連淳を支えました。実円の後を継ぐことになる実証もまた、証如の偏諱を受け継ぎ、二代にわたる法主の諱を持つ名門の血統を誇りました。実証に期待するところは実円と同じ法主の補佐であり、これは連淳が息子の実慧を長島願証寺於いたのとは対象的に、実証も山科を中心に活動させたという所作なのではないかな、と私は思っております。

 信長公記がいいます。『家康公、いまだ壮年にも及ばざる以前に、三河国端に土呂・佐々木・大浜・鷲塚とて、海手へついて然るべき要害。富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入り置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半門家になるなり』
 国中の人々の過半が門徒でありながら、中心寺院の土呂には住持がおらず、本願寺が派遣する代坊主が采配を振るう形がこの時に出来たわけです。
 この期間、三河国の本願寺教団の勢力圏には松平の分家がおかれ、西三河の門徒達は松平党の傘下に入ってゆくわけです。但し、土呂本宗寺と三河三ヶ寺は領主も立ち入れない禁域となっていたことが三河物語にあります。(三河物語の記述は松平清康の子、広忠の代の話ですが、すでにこの頃もそうであったろうと思われます)
 後世に残る蓮如の逸話などを拾い集めてみると、蓮如は巧みな話術を持ち、どこにでも現れて人の心を掴んでゆく。そんな布教スタイルが見受けられます。しかし、実如以後、本願寺教団は法主とその一族の権威を高めてゆく方針に転化してゆきました。
 三河国門徒武士達は松平家の家臣団の一角をなしてゆくわけなのですが、彼らにとって主人である松平清康とは別にもう一人の主人がいたことになります。そして、蓮如の一族という権威は高まるだけ高められておりました。

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2008年7月17日 (木)

川戦:英雄編⑧織田達勝の上洛

 前稿において、松平清康は叔父松平信定とともに尾張攻めをした話を書きました。その理由として尾張国上下四郡の守護代の戦いに借り出されたという考察をしましたが、本稿ではさらに踏み込んでみたいと思います。ここから数回にわたって一つの仮説を構築します。それは通説とは異なり、歴史研究者の解釈からも少し離れたものです。

 三河物語曰く、『(松平清康が)御年二十歳の頃に尾張国にも手を出すようになり、岩崎・品野という郷を攻め従わせなさった。』。ここで言う御年二十歳とは1530年(享禄三年)のことになりますが、その時織田大和守達勝は尾張国におりませんでした。
 巌助往年記(ごんじょおうねんき)という真言宗醍醐寺の塔頭理性院の住僧である厳助の日記によると、1530年(享禄三年)の五月に織田達勝が三千の兵を率いて上洛したという記録があります。「尾州より織田大和守上洛、人衆三千計り、美麗也云々」が巌助往年記の記録の全文であり、この上洛の目的や、上洛までの経路、戦闘有無など詳しいことは全く不明です。斯波氏の代理とか、軍事目的ではないとか、言われていますが、それとても具体的な根拠のある話ではありません。

 この時都に幕府はありませんでした。1527年(大永七年)時の将軍、足利義晴と管領細川高国は細川晴元の部下である三好元長と摂津国人柳本賢治らと洛西の桂川において戦って敗れ、近江国朽木に落ち延びます。細川晴元は和泉国堺まで来ておりましたが上洛をせず、足利義維を擁して堺に幕府を開きました。その後京では三好元長と柳本賢治が主導権争いをします。織田達勝が上洛したのは、その抗争で柳本賢治が勝利し、三好元長は京を追われた時期でした。
 播磨国まで流れていた細川高国は、細川晴元陣営の内部分裂の様子をみて都を奪回しようと試みます。それを察知した柳本賢治は足利義晴と和睦し、細川高国の名分を失わせようと、足利義維と細川晴元に打診しますが、つっぱねられています。やむを得ず柳本賢治が細川高国がいる播磨へと出陣しようと準備をしている最中に、織田達勝が現れたのです。柳本賢治は織田達勝上洛の翌月の1530年(享禄三年)六月二十九日に播磨で陣没します。細川高国と組んで備前三石城を拠点とする浦上村宗との戦いの最中のことでした。

 織田達勝の上洛が、『斯波氏の代理』とか『軍事目的ではない』といわれるのは、①織田達勝本人に上洛する動機が希薄であること、②三千もの兵を率いて上洛していながら、合戦を行った記録が残っていない、③『美麗也』と表記されているこの三つの理由からであるように思われます。
 特に『斯波氏の代理』は堺幕府の足利義維の母は、斯波一族の出とされています。達勝に明確な動機はうかがえないことは確かなのですが、斯波義統を足利義維の味方としてみることは可能であるということからの推測ですね。織田達勝軍の動きは上洛、帰還ルートを含めて不明です。仮に柳本賢治の軍に加わって浦上村宗と戦って帰還したとしても矛盾は生じません。また、一人だけ帰還して、三千の兵は別の軍団に編成されたのだとしても、『史料上』の問題はないわけです。ただ一点、織田達勝はこの上洛の二年後の天文元年、尾張国で織田弾正忠家の信秀と抗争をしております。これは信秀が達勝の上洛に反発したためと説明されますが、その根拠もまた希薄であると言わざるをえません。

 よって、この上洛に関する考察については、かなり大胆に仮説を打ち出すことが可能なのですね。

 ただ織田達勝の三千の兵が上洛したことだけは、巌助往年記を信じる限りにおいて事実です。この時期の京の動向を調べる時の必携資料というべき、実隆公記という三条西実隆の日記があるのですが、この時期、1530年(享禄三年)五月の条はなぜか欠落しております。頼りになるのは巌助往年記の信憑性だけではありますが、本稿ではこの記事を信じることで取り進めます。

 本来、尾張からこれだけの軍勢が京に移動すれば、内外にそれなりのインパクトを与えるはずです。
 後年、足利義昭を擁した織田信長が兵を引き連れて上洛したときには、斎藤龍興を美濃国から追い出し、北近江の浅井長政と同盟を結び、南近江の六角承禎を撃破する必要がありました。
 それに引き比べると、織田達勝の上洛は三千もの兵が動いたにもかかわらず、隠密行動かと思われるほど謎に包まれています。これについて考えるなら①動機、②名分、③上洛ルートを補う必要があるでしょう。

 その前ふりとして、上洛の情報の発信地である醍醐寺の位置に着目してみます。醍醐寺は今の伏見区、東山の東南にあり、洛外に位置します。そして醍醐寺の真北には山科があります。そこには本願寺がありました。

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2008年7月15日 (火)

川戦:英雄編⑦征西

 清康東征の前の話になります。
 1529年(享禄二年)もしくは、1530年(享禄三年)あたりに松平清康は尾張に出兵したという話があるのですね。尾張と三河が連携していたと考える私の見方とは矛盾する動きです。尾三連合説を唱える私にとっては『都合の悪い』史実であります。そこを認めた上で、本稿では考察をすすめます。
 まずは、この清康の征西に触れている諸書の記録内容をまとめてみました。

貞享聞書
 日時: 1529年(享禄二年)7月17日
 場所: 尾張国春日井郡品野
 尾張側:斯波兵衛佐尚誠、織田弾正信定、桜木上野介、
 三河側:大河内左衛門佐
本多家譜
 日時: 1529年(享禄二年)10月
 場所: 三河国(尾張国の誤りか?)岩崎、(場所不明)野呂
 尾張側:荒川頼宗と坂井季忠(いずれも織田備後守信秀の部下と紹介)
 三河側:本多忠豊
桜井家譜
 日時: 1529年(享禄二年)
 場所: 尾張国春日井郡科野(品野)
 尾張側:織田信秀の部下の桜木上野介
 三河側:桜井松平信定、清定
 日時: 1530年(享禄三年)5月8~9日
 場所: 岩崎、野呂
 尾張側:織田信秀の部下の荒川頼宗。坂井季忠
 三河側:桜井松平信定、清定

 その他、三河物語、官本三河記、阿部家譜、家忠日記増補、寛永諸家譜図伝、武徳大成記が触れています。でも、記述にはいくつか突っ込みどころがあるのですね。
 貞享聞書にある斯波兵衛佐尚誠ですが、当該する人物が不明です。兵衛佐=武衛と名乗れるのは斯波家惣領ですが、当代は義統以外にいないはずです。本多家譜の織田備後守信秀の備後守ですが、信秀が備後守を名乗るのは早くても1545年(天文十四年)以降です。それ以前は弾正忠を名乗っておりました。まぁ、これは家譜史料ですから生涯で得た一番高い官位で記したのかもしれません。ただ、この時期に織田信秀は十九歳から二十歳ですが、父信定は存命です。桜木上野介、荒川頼宗、坂井季忠の三名の主人がどちらだったのでしょう。
 織田信秀の家督相続時期が1527年(大永七年)説と1532年(天文元年)説の二つあるのですが、1532年(天文元年)説をとった場合、桜木上野介、荒川頼宗、坂井季忠が織田信秀の部下というのは怪しくなります。いずれにせよ、1529~1530年(享禄二~三年)の時点で信秀が織田弾正忠家の家督を継いでいたとしても、惣領は信定のものでした。記録としては貞享聞書の書き方が妥当なようにも思えます。ただ、この織田家の対戦相手が信定だとしても疑問はなお残ります。

 野呂は場所不明なんですが、岩崎は愛知郡、品野は春日井郡にあります。ここで首を捻るのは春日井郡は尾張国の上四郡にあたるということです。尾張の守護代織田家は二流あって、伊勢守家は上四郡、大和守家は下四郡を担当することになっておりました。尾張国の両守護代家は仲が悪く互いに争っていたといいます。織田弾正忠信定は尾張守護斯波義統の部下である、守護代織田大和守達勝配下の清洲三奉行の一人で尾張国西方の海東郡勝端を根拠地にしていました。判り易く系統図にするとこんな感じです。

 尾張国守護斯波義統―+―尾張国上四郡守護代織田伊勢守(愛知郡、春日井郡などを支配)
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                +―尾張国下四郡守護代織田大和守達勝―+―織田因幡守家
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                                           +―織田藤左衛門家
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                                           +―織田弾正忠家(信定)

 織田信秀が那古屋城を奪って根拠地を移すのは1538年(天文七年)のことです。織田弾正忠信定は果たして、主家を飛び越えて伊勢守家のテリトリーである春日井郡の品野城に自らの部下を置くことができるかどうか。疑問です。
 また、桜井家譜には桜井松平信定が自分で品野、岩崎、野呂を攻めたということになっていますが、その信定本人が斯波義統(実質的には織田達勝)から1526年(大永六年)までに尾張国守山の館を、そして織田信定からは嫁をもらっています。但し、この時期の弾正忠家の織田信定・信秀父子は大和守家の織田達勝の奉行人であり、西尾張の勝幡に根拠地を持つ小領主に過ぎません。尾張国の東側に自らの部下を置けるほどの力があったかどうかは疑問です。
 三河物語のこの件の記述は極めて簡潔です。曰く、『(松平清康が)御年二十歳の頃に尾張国にも手を出すようになり、岩崎・品野という郷を攻め従わせなさった。品野の地は松平内膳(信定)殿にくだされた』。尾張に出兵したことは書いていますが、織田信定や信秀、斯波氏の名前は出てきません。

 以上のことを総合して考察するならば、愛知郡の岩崎を含め、何らかの戦いはあったかもしれませんが、織田伊勢守家と織田大和守家の戦いに借り出されたと解釈するのが最も自然であるように私には思われます。松平家はこの後の広忠の代になると今川氏に従い、尾張の織田家とは手切れをすることになります。その結果最大の敵として織田信秀を相手にすることになるのですね。その抗争には桜井松平信定も巻き込まれることになります。その関係上、後世の幕臣史家達には清康が信秀と戦って勝利をおさめたという形にしたかったのではないか、そんな風に私には思えるのです。

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2008年7月10日 (木)

川戦:英雄編⑥東征Ⅱ

 宇利城の攻防における松平軍の陣容の詳細はよくわかりません。三河物語には清康直属軍の他に、桜井松平信定、福釜松平親盛ら一門衆が兵を率いたと書かれております。その数八千。十五、六の隊に分けて進軍しましたと言います。
 大手攻めはその松平信定と松平親盛に任され、清康は搦め手の高地に陣取ったといいます。その高みから、搦め手に陽動の鬨の声や鉄砲(おそらくは、音だけの空砲だろうと推測されます)をあげて、守備側の注意を搦め手にひきつけた上で、大手攻めを下知しました。しかし、城方はそれに惑わされず、大手に兵を集めて迎撃します。敵の勢いに正面から当たることを避けた松平信定は一度兵を退きますが、松平親盛は逃げ遅れて敵に囲まれました。清康はこれを救けようとしたものの、間に合わず福釜松平親盛は討ち取られてしまいました。

 勝敗は兵家の常ですし、三河物語の簡潔な記述では、親盛戦死にどんな戦術的失敗があったのかも読み取れません。しかし、将ならばまずやらないことを清康はやらかしました。同じ大手攻めを担当した松平信定を自陣に呼びつけて、松平親盛を見殺しにした罪を詰ったのです。
 普通こんなことをすると兵の士気は一気に落ちて、下手をすると軍団が瓦解しかねません。しかし、あえてやったとすれば、そこには理由があるはず。逆に特段の理由も目的もなく難詰したとすれば、三河物語が取り上げることもないでしょう。このエピソードは見方によっては清康の狭量さを示すものなのですから。
 松平清康が信定を非難した目的は、桜井松平信定に対する優位を、外に向かってアピールするためだったのではないかと、私は考えています。年齢を割り引いても、閨閥の面で松平清康は尾張国や松平一門に姻戚関係を結んでいる松平信定に大きく後塵を拝しております。菅沼家の視線も清康よりは信定のほうに向くのも自然なことでしょう。それ故、敢えて桜井松平信定の非をあげつらって誰が松平家の惣領であるかを示さなければならなかったのでしょう。同時に戦死した福釜松平親盛を称揚し、戦功を表しました。これは賞罰権が誰にあるのかをアピールするためでしょう。その主目的は松平信定を貶めることではなく、援軍を頼んだ菅沼家や尾三連合に存在を誇示することにあったのですから。

 松平信定に対する難詰は、みっともなくてもやらなければならないことでした。対外的にはそれだけ清康の立場は弱かったと見ることができるかもしれません。信定はこれに大人の態度で対応したようです。少なくとも、自領に取って返して叛旗を掲げるようなことはしませんでした。
 おそらくは出来なかったのだとと思います。それは、彼が率いる家臣達もまた清康を支える重臣達と同じ基盤に依るからではないでしょうか。清康は家臣団の支持で推戴されたのですから、清康との対立を決定的なものにすれば、信定は家臣団の支持を失い、最悪信忠と同じように押籠められてしまう可能性もあったかもしれません。対外的に清康よりも重視されている理由を考えれば、安祥・岡崎松平家の後見人という立場を維持した方が信定にとっては得なのですね。

 三河物語には宇利城攻めの結果は記されていませんが、諸書によると宇利の城は結局陥落して、熊谷氏は城を退去し、菅沼定貴という野田菅沼氏の一族がこの地を治めることになったそうです。この戦いは東三河のパワーバランスを崩し、吉田川下流の牛久保・今橋による牧野氏との対立が決定的になりました。三河物語に依れば、松平氏と牧野氏どちらがこの三河を治めるかを戦いで決めようと挑戦状をたたきつけ、吉田川を舟橋で渡ると、不退転の決意を示すためにその舟橋を川に流したとあります。死戦を覚悟した背水の陣でした。
 この牧野伝蔵(田蔵)ら牧野四兄弟が率いる牧野軍を松平清康と信定は下地で会戦します。ここの合戦描写は三河物語も手厚く描いており、力戦が繰り広げられました。清康が大将であるにもかかわらず、最前線で士気を取るのを見かねた部下が後方に下がるように指示すると、血気にはやった若武者である清康はこれを斬ろうとするのを信定は部下の方を窘めます。『清康を最前線で指揮をとる邪魔をするな。死なせればよいではないか。大将を庇って兵が敗れれば、大将も死ぬ。兵が勝てば大将は生き残るのだ』そう言って、自らも兜を脱いで最前線で指揮をとりました。近代戦においては指揮官が最前線に立つなど言語道断なんですが、敵は自ら退路を断った死兵です。数を頼んで押し込んでも、死兵は強く、楚漢の韓信の事例をひくまでもなく寡兵が大軍を破る事例は結構あるのですね。これに当たるために大将がリスクを犯して最前線にでるというのは、必ずしも愚策ともいいきれません。
 三河物語は清康の器量を激賞しているのですが、その振る舞いは一門衆に冷たく、時に部下の諫言すら聞かずに猪突猛進する風すら感じます。晩年の守山崩れに際しても、その傾向は改まっていないようです。それに対してここで描かれている信定は一軍を率いるだけの器量をもった人物として描かれているのですね。無論、清康に死ねばいいなどと口走る所は、宇利の戦いで罵倒された遺恨が混じっているかもしれません。でも、その後自らがリスクを背負って最前線に立っているのです。これは単純に遺恨だけで誤った行動を取る短慮な人間の振る舞いではありません。少なくとも三河物語の著者である大久保忠教はそのような人物としては描いていないのです。
 この下地の戦いでの力戦の結果、松平軍は勝利し、牧野四兄弟はことごとく討ち取られました。そして南下して田原に軍をすすめます。田原の領主は戸田宗光。彼は数代前に松平信光とともに額田郡一揆を鎮圧した戸田宗光と同名ですが、子孫であり、先祖と同じ名前を持っていました。永正五年には戸田憲光は今川氏親が派遣した伊勢宗瑞に従って井田野で松平長親と戦いましたが、戦後伊勢宗瑞に今川と手を切れと提言しております。この言をどのようにとられたのかは不明ですが、伊勢宗瑞は合戦に勝利したにもかかわらず、三河を去りました。松平家と戸田家はそういう因縁にある家です。戸田宗光は戦わずに降伏します。作手の奥平氏、田峰・長篠・野田の菅沼氏、牛久保の牧野氏を始め、設楽、西郷、ニ連木、伊奈、西之郡の人々がこぞって戸田に集まって松平清康に降伏したそうです。彼らは伊勢宗瑞とともに松平長親と井田野で戦った人々です。彼らがこぞって降伏したのは、もちろん政治的な下準備もあったでしょう。背後に吉良氏の支援があったと思われます。入念な下準備が予め行われていたと思います。それにあわせて、この面子は永正の井田野合戦後に戸田憲光が提唱した体制でもあるのですね。戸田で行われた彼らへの接見には、そのようなシンボリックな意味あったように思われます。

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2008年7月 8日 (火)

川戦:英雄編⑤東征Ⅰ

 永正年間においては、今川家にコテンパンにのされて見る影も無かった『尾三連合』でしたが、その後、若干明るい兆しが見えてきます。1526年(大永六年)八月に今川氏親が没しました。これは、織田家と松平家の姻戚関係が強化され、西条吉良家当主が三河に帰ってきた『尾三連合』にとっては好機到来に違いありません。
 彼らが目標としたのは、三河と遠江の国境にある宇利城でした。この城は熊谷氏が守っておりました。平家物語で平敦盛を泣く泣く斬った熊谷直実の子孫といいます。
 その宇利の西方に吉田川が流れており、その川辺に野田という在所があります。ここを吉良氏の家老筋の富永氏が治めておりました。

 話は遡って1506年(永正三年)。野田富永家の最後の嫡流、富永千若丸が夭折したことにより、野田の富永家は吉田川上流の田峰を根拠地とする菅沼家に乗っ取られます。
 丁度この年、今川氏親は三河国に侵入し、吉田川下流の今橋に依る牧野古白を滅ぼしていました。野田富永家を乗っ取った菅沼家は後に斯波家と大河内貞綱が遠江奪還戦を仕掛けた時に、今川方として戦っております。野田菅沼家の家伝では、富永家が望んで菅沼家から養子を迎えたとあるそうなのですが、この流れから考えれば、今川家の三河侵入を好機として、田峰の菅沼家が野田富永家を乗っ取ったと考えるのが自然です。
 野田の富永家嫡統は滅びたものの、傍流の富永正安が牟呂(室)に城を築き、東条吉良持広の保護を受けております。そして松平長親の娘を息子忠安の嫁に迎えました。松平長親はその一方で大河内貞綱の一族の者を息子信忠の嫁にしております。永正年間の段階で、ようやく松平家は吉良家と誼を通じるようになったわけですね。

 そこに転機が訪れました。西条吉良義堯の三河帰還です。私は松平清康による小島城攻めを西条吉良義堯の下知による東条吉良家攻撃の一環であるとみております。先ほども述べたように、松平清康の母は大河内一族の出であり、叔母は富永正安に嫁いでいました。牟呂の富永氏にしても、野田を奪った今川家は憎いし、反今川闘争を繰り広げた西条吉良に敵対している東条吉良家には、同情できない気分だったのではないかと思われます。
 松平清康の攻撃は小島城という局地戦に留まりましたが、日に陰に西条吉良家による東条吉良家への圧迫はあったと思われます。その結果西条吉良と東条吉良は和睦をしました。東条吉良持広には嫡子がいるのに、わざわざ西条吉良から養子を迎えるという事実上の屈服です。以上の事は前稿でもふれております。
 その結果吉良一門、家臣衆が西条吉良義尭を中心に反今川で結束したのです。もともと家老筋であり、東条吉良持広に重臣としての待遇を得た牟呂の富永正安はその企てに加担したのではないかと私は思っています。
 野田の富永嫡流は菅沼氏に乗っ取られたと書きましたが、それは養子を迎えるという穏便な手段によってます。富永氏に仕えていた家臣団の少なくとも一派は温存されていたでしょう。富永正安はその家臣達に働きかけて、野田菅沼定則を吉良方にひきいれたと思われます。既に三河遠江を席巻した今川氏親はいません。西条吉良家は野田の菅沼定則が宇利を攻める後詰めを派遣することによって、菅沼定則を従わせることができたのでしょう。三河物語の宇利城攻めのくだりには、菅沼家は登場しておりません。しかし、野田の地を押さえることなくして、宇利に到達出来ませんし、宇利城陥落の後に、宇利の城は菅沼定貴に与えられたといいます。この戦いは吉良氏や松平氏の都合によるというよりも、菅沼家の勢力拡大に西条吉良家が手を貸し、松平清康が派遣されたということなのでしょう。

 後詰めとは、小豪族同士の争いに自分達の主人の加勢を頼むことです。有名な合戦事例を述べますと、本能寺の変の直前、毛利氏の高松城を囲んだ羽柴秀吉は織田信長に後詰を仰ぎました。織田信長が明智光秀に討たれたのは安土から高松城へ征西の旅にでる途上のことです。
 長篠合戦も長篠に進出してきた武田勝頼に相対した徳川家康が織田信長に後詰を要請したものでした。羽柴秀吉は織田信長の家臣ですし、徳川家康は長篠合戦までは辛うじて織田信長の同盟者としての立場を保持していましたが(その為に姉川合戦や金ヶ崎遠征に従軍など努力も惜しみませんでした)、この合戦以後徳川家は織田家に臣従することになります。

 宇利城攻めの場合、合戦の当事者は菅沼定則と熊谷氏になり、菅沼定則の後詰を行ったのが松平清康となります。しかし、間に富永氏が介在しているとはいえ、菅沼定則が松平清康に臣従したとは考えにくいです。菅沼定則は富永正安の主人である吉良氏に臣従し、松平清康はその代官という位置づけとして迎えられたのではないかと思います。その背後には桜井松平信定がおり、彼をバックアップする勢力として新興の尾張の織田一族がおります。菅沼定則は宇利の陣屋で邂逅した二十歳の松平清康の背後にそういうものを見ていたのだと思います。

 また、菅沼定則のそいういう視線を松平清康は感じ取っていたのかもしれません。彼は感じ取っていなくても信忠を押籠めて清康をかついだ重臣――酒井忠尚、石川忠輔、大久保忠茂、阿部定吉――あたりの誰かがキャッチしていたものと思われます。それは松平清康の限界であり、次代に続く苦難のプロローグだったのではないかと思われます。

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2008年7月 3日 (木)

川戦:英雄編④吉良さんちの家庭の事情

 今回は松平清康が1529年(享禄二年)に行ったとされる小島城攻めについて語りたいと思います。小島城は尾島城ともいい、矢作川が矢作古川との分岐点の矢作故川の東岸辺りにあります。ニ方向を矢作川と矢作古川に囲まれた土地で、矢作川の対岸には本証寺のある野寺が、矢作古川の対岸には東条吉良家の一族である、荒川義広の荒川城があります。小島城は東条吉良家に属する城砦でした。
 以下、その吉良家について説明させていただきます。

(東条)吉良義藤―――持清―+―持広―+―吉次(西尾氏)
                   |      |
                   +―義広 +=義安
                     (荒川)

(西条)吉良義真―――義信―――義元―――義堯―+――義郷
                                 |
                                 +――義安(東条吉良・統合吉良二代)
                                 |
                                 +――義昭(統合吉良初代)

 応仁の乱で吉良家は二家に分かれて戦っておりました。東軍についた西条吉良家と西軍についた東条吉良家です(ああややこしい)。永正年間の今川勢侵攻後に大河内貞綱らが遠江で奪還戦を繰り広げておりましたが、彼の主家は西条吉良家です。足利義信は足利義材(義植)と仲がよく、斯波義達と大河内貞綱の遠江奪還戦に京都からの介入が入らないようにサポートしていたと思われます。
西条義信は1516年(永正十三年)に孫の義堯に家督を譲ります。子の義元は早世したらしいです。しかし間もなく斯波と大河内は完全敗北し、さらに悪いことに足利義材も1521年(大永元年)に二度目の都落ちをします。
 京のパイプと遠江の吉良氏の地盤を失ったこともあり、京が本来の居住地であった西条吉良義堯は在国することに決めます。
 吉良義藤は東軍につき、吉良義真と戦いましたが、互いに止めを刺しあうことは無く、東条吉良家は持広の代に至ります。持広の代においては、東条吉良家は荒川家という別家を分出しておりました。初代当主の荒川義広は持広の弟です。
 西条吉良義堯は帰国後、在地領主として支配できる体制を指向しましたが、実力行使をする手駒が足りません。そこで松平清康に応援を要請します。もっとも、松平清康の小島攻めに吉良義堯の要請があったかどうかは、『尾三連合』と同じく、あくまで私の推測に過ぎません。

 それによって実現したのが1529年(享禄二年)の松平清康による小島城を攻めです。小島城は尾島城ともいい、東条吉良家分家である荒川義広配下の城でした。荒川義広はここに鷹部屋鉾之助というまるで講談にでも出てきそうな名前の城主を置いて、守らせておりましたが、その小島城を松平勢が攻めたわけです。
 小島は本証寺のある野寺を南に下って矢作川の対岸にあります。鷹部屋鉾之助は敗れて古矢作川を泳いで渡って対岸の荒川城に逃げましたが、結局鷹部屋鉾之助の主人、荒川義広は降伏し松平清康に従うことになったといいます。但し、吉良家と松平家との間は家格に雲泥の差があります。屈服をし、領地の支配権の幾分かの譲渡はしても臣従までしたとは思えず、松平家としてのメリットは薄かったのではないでしょうか。
 むしろ、小島と荒川は矢作古川の河口にあたり、河川運送業を営む人々にとっては重要な拠点だったと思われます。松平清康のバックにいる、家臣団にとってはそこを押さえることが重要であったと思われます。
 東条吉良家にとっては既得権益を侵されたわけで、弱体化に繋がってゆきます。そこを衝いて来たのは、松平家でも、その家臣団や河川運送業者でもありませんでした。西条吉良氏です。私自身はこの戦争を東条吉良家と西条吉良家の抗争の一つであり、西条吉良家の要請(少なくとも了承)のもとで、『尾三同盟』の一翼を担う松平勢が攻めたのだととらえております。

 少し先の話になりますが、松平清康が守山で不慮の死を遂げた時、東条吉良家と西条吉良家は和解をします。奇妙なことに東条吉良持広には長子がいます。弟の荒川義広もいました。にもかかわらず、西条吉良家の義安が東条吉良家の養子入りしたのです。そして、持広の長子は織田家へ人質に差し出されます。この人質が長じて西尾吉次(義次)と名乗り、織田信長に仕え、後に徳川家康に仕えることになりますが、これはまた別の話。これは西条吉良義堯による東条吉良家乗っ取りでありましょう。

 但し、この状況が長くは続かなかったこと、そしてこの戦いで東条吉良家と松平家にもチャンネルが開かれたことによって、松平家の危機が救われたというオマケがつきます。

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2008年7月 1日 (火)

川戦:英雄編③選手交替

 松平継承戦争は松平清康が勝利しました。以後、清康は一門衆を引き連れて三河統一戦争を挑むわけですが、その軍勢の主力となったのは安祥家庶流の一門衆です。それは桜井松平内膳信定であり、福釜松平右京亮親盛ら叔父達ではありましたが、実際には彼らよりも幼主を囲む安祥本城の家臣団の方が力が強かっただろうことが想起されます。岩津松平家は永正三河乱から清康による岡崎(山中)城奪取の過程で史料に現れなくなっております。没落したのだとみて良いと思います。この後も松平家は内訌を繰り返しますが、そのプレイヤーは信光の子孫ではなく、安祥家の中で行われることになります。そして、彼らを支える安祥家の家臣団の多くは本願寺教団の門徒達でした。

 同様に、尾張国にも変化が現れます。1515年(永正十二年) 斯波義達、今川軍と遠江で戦い捕虜となり、剃髪の上尾張に帰還します。お目付け役として、那古屋に今川氏豊がつき清洲城で逼塞状態になります。尾張は守護である斯波氏が治める八郡からなる国ですが、統治の単位として四郡ずつ分けてそれぞれに守護代をおきました。守護代は斯波氏の家臣である織田家が勤めました。上四郡の守護代は岩倉に、下四郡の守護代は守護とともに清洲にそれぞれ根拠地を持ちました。しかし、今川家との戦争の敗北によって斯波氏は回復不能なダメージを負い、その実権はそれぞれの守護代に移ったわけです。時の下四郡の守護代を清洲織田達勝といいます。彼の父、達定は永正年間に斯波義達に対して反乱を起こしましたが失敗。死を賜り、達勝が後を継ぎます。この時期に守護代が守護に対して反乱を起こす理由として考えられるのは、やはり遠江回復戦であり、達定は戦争に慎重な立場ではなかったのかと思われます。その遠江回復戦に失敗した斯波義達に代わり、尾張国を上四郡守護代の岩倉織田家とともに治めることになった織田達勝は今川氏豊を受け入れ、遠江を完全放棄することで尾張国を自立させるように方針を切り替えたようです。
 それから六年後に斯波義達は死に、斯波義統が継ぎますが、完全な傀儡でした。同じ年、京都にいた将軍足利義材は管領細川高国を嫌って阿波に亡命し、同じく京都にいた西条吉良義堯も三河に帰ることによって、京都と尾張守護家をつなぐ糸は殆ど切れてしまいました。後は、流れ公方かその子孫に渡りをつけて安堵を貰うことを期待するしかありませんが、斯波義統には自力で尾張国をまとめ上げるだけの力はありません。そこで頭角を現したのが、守護代織田大和守達勝でした。彼の元には三奉行という一門衆がついており、守護代を補佐しておりました。その中で徐々に頭角を現してきていたのが弾正忠家です。弾正忠家は下四郡の内、海東郡の勝幡を根拠地としておりました。

 織田達勝は今川氏に破れて没落した斯波氏に代わって、尾三同盟の組み替えを行い、体制強化を図ったと思われます。その一巻として、松平家を引き込むことにします。そのターゲットとして選ばれたのが桜井松平信定でした。達勝は桜井松平信定に対し尾張国守山に領地を与えます。そして、弾正忠家の当主織田信定に命じ、彼の娘を桜井松平信定に娶らせます。この時、松平清康は十六歳ですから、今の松平家を思い通りに動かそうとするなら一門衆の補佐役が最適ということで選ばれたのでしょう。
 この桜井松平信定も自らの娘を織田弾正忠信定の息子、信光に嫁がせます。この信光は信秀の弟にあたります。さらに、桜井松平信定は自らの娘を大給松平親乗に嫁がせて一門衆を押さえ、もう一人の娘を水野忠政の息子水野信元に嫁がせております。尾三国境は桜井松平家を中心に姻戚で固められておりました。これに比べると、松平清康は若年ということもあるかもしれませんが、大きく見劣りします。
 清康の妻は三人いたとされます。一人目は岡崎から大草に逼塞を余儀なくされた松平信貞の娘。二人目は青木氏の娘。三人目は華陽院と呼ばれる大河内本綱の養女にして、水野忠政の元妻です。清康は家督継承と同時に松平信貞と戦争をしており、信貞が大草に退去したのが1524年(大永四年)になります。この松平信貞は1525年(大永五年)に没し、同じ年に信貞の娘は清康の元から離別しているようです。そして、華陽院は絶世の美女とという評価を後に受けるのですが、彼女と水野忠政の息子のうち、二人(水野忠分と水野忠重)が松平清康の没年以降の生まれとなっています。ちなみに、華陽院は徳川家康の母、於大も水野忠政との間に設けております。つまり、水野氏と松平清康との直接の姻戚関係はないと思ってよいわけです。残りの青木氏ですが、素性が不明なんですね。今川氏配下であるとか、佐々木氏の配下である等の考証はあるようなのですが、この青木一族そのものがここ以外に登場しないのでわからないといった状況です。彼女は1526年(大永六年)に没しており、以後清康は独身を通すわけです。ちなみに広忠の母親はこの青木氏の娘だそうです。さりながら、既に広忠という嫡子をもうけているとはいえ、姻族で同盟を固めている信定と比べれば、清康の基盤は極めて脆弱であると言わざるをえません。

 幼君を擁立して松平一門の干渉を排除した安祥松平家家臣団と、一門衆や周辺勢力を姻戚でとりこんで勢力を確保した桜井松平信定は対立関係にあったのかもしれません。三河物語でも能見物の桟敷席の取り合いで面目を潰されています。ただ、桜井の地は本願寺教団の勢力圏であり、有力門徒である石川氏、内藤氏と軒を並べている状況です。桜井にいる以上、松平信定もまた、結束して安祥家を支持する家臣団の顔色を伺わなければならない状況には変わりが無かったと思われます。

1510年(永正 七年) 織田信秀、海東郡勝幡城主・織田信定の長男として生まれる。
1513年(永正 十年) 尾張下四郡守護代の織田達定、主君の尾張守護斯波義達と争い、殺害される。
           尾張下四郡守護代家は織田達勝が継ぐ。
1515年(永正十二年) 斯波義達、今川軍と遠江で戦い捕虜となり、剃髪の上尾張に帰還。
1521年(大永 元年) 足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。
           斯波義達、死去。斯波義統が家督相続。
1526年(大永 六年) 桜井松平信定、この頃までに守山を領有
           八月 今川氏親没。氏輝が家督相続
1527年(大永 七年)  細川高国京を追われる。京は無主の地となる。
                     織田信秀、家督を譲られて織田弾正忠家当主となる。
1530年(享禄 三年) 織田達勝、守護の斯波氏の代理として兵を率い上洛。

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