« 川戦:英雄編②松平継承戦争 | トップページ | 川戦:英雄編④吉良さんちの家庭の事情 »

2008年7月 1日 (火)

川戦:英雄編③選手交替

 松平継承戦争は松平清康が勝利しました。以後、清康は一門衆を引き連れて三河統一戦争を挑むわけですが、その軍勢の主力となったのは安祥家庶流の一門衆です。それは桜井松平内膳信定であり、福釜松平右京亮親盛ら叔父達ではありましたが、実際には彼らよりも幼主を囲む安祥本城の家臣団の方が力が強かっただろうことが想起されます。岩津松平家は永正三河乱から清康による岡崎(山中)城奪取の過程で史料に現れなくなっております。没落したのだとみて良いと思います。この後も松平家は内訌を繰り返しますが、そのプレイヤーは信光の子孫ではなく、安祥家の中で行われることになります。そして、彼らを支える安祥家の家臣団の多くは本願寺教団の門徒達でした。

 同様に、尾張国にも変化が現れます。1515年(永正十二年) 斯波義達、今川軍と遠江で戦い捕虜となり、剃髪の上尾張に帰還します。お目付け役として、那古屋に今川氏豊がつき清洲城で逼塞状態になります。尾張は守護である斯波氏が治める八郡からなる国ですが、統治の単位として四郡ずつ分けてそれぞれに守護代をおきました。守護代は斯波氏の家臣である織田家が勤めました。上四郡の守護代は岩倉に、下四郡の守護代は守護とともに清洲にそれぞれ根拠地を持ちました。しかし、今川家との戦争の敗北によって斯波氏は回復不能なダメージを負い、その実権はそれぞれの守護代に移ったわけです。時の下四郡の守護代を清洲織田達勝といいます。彼の父、達定は永正年間に斯波義達に対して反乱を起こしましたが失敗。死を賜り、達勝が後を継ぎます。この時期に守護代が守護に対して反乱を起こす理由として考えられるのは、やはり遠江回復戦であり、達定は戦争に慎重な立場ではなかったのかと思われます。その遠江回復戦に失敗した斯波義達に代わり、尾張国を上四郡守護代の岩倉織田家とともに治めることになった織田達勝は今川氏豊を受け入れ、遠江を完全放棄することで尾張国を自立させるように方針を切り替えたようです。
 それから六年後に斯波義達は死に、斯波義統が継ぎますが、完全な傀儡でした。同じ年、京都にいた将軍足利義材は管領細川高国を嫌って阿波に亡命し、同じく京都にいた西条吉良義堯も三河に帰ることによって、京都と尾張守護家をつなぐ糸は殆ど切れてしまいました。後は、流れ公方かその子孫に渡りをつけて安堵を貰うことを期待するしかありませんが、斯波義統には自力で尾張国をまとめ上げるだけの力はありません。そこで頭角を現したのが、守護代織田大和守達勝でした。彼の元には三奉行という一門衆がついており、守護代を補佐しておりました。その中で徐々に頭角を現してきていたのが弾正忠家です。弾正忠家は下四郡の内、海東郡の勝幡を根拠地としておりました。

 織田達勝は今川氏に破れて没落した斯波氏に代わって、尾三同盟の組み替えを行い、体制強化を図ったと思われます。その一巻として、松平家を引き込むことにします。そのターゲットとして選ばれたのが桜井松平信定でした。達勝は桜井松平信定に対し尾張国守山に領地を与えます。そして、弾正忠家の当主織田信定に命じ、彼の娘を桜井松平信定に娶らせます。この時、松平清康は十六歳ですから、今の松平家を思い通りに動かそうとするなら一門衆の補佐役が最適ということで選ばれたのでしょう。
 この桜井松平信定も自らの娘を織田弾正忠信定の息子、信光に嫁がせます。この信光は信秀の弟にあたります。さらに、桜井松平信定は自らの娘を大給松平親乗に嫁がせて一門衆を押さえ、もう一人の娘を水野忠政の息子水野信元に嫁がせております。尾三国境は桜井松平家を中心に姻戚で固められておりました。これに比べると、松平清康は若年ということもあるかもしれませんが、大きく見劣りします。
 清康の妻は三人いたとされます。一人目は岡崎から大草に逼塞を余儀なくされた松平信貞の娘。二人目は青木氏の娘。三人目は華陽院と呼ばれる大河内本綱の養女にして、水野忠政の元妻です。清康は家督継承と同時に松平信貞と戦争をしており、信貞が大草に退去したのが1524年(大永四年)になります。この松平信貞は1525年(大永五年)に没し、同じ年に信貞の娘は清康の元から離別しているようです。そして、華陽院は絶世の美女とという評価を後に受けるのですが、彼女と水野忠政の息子のうち、二人(水野忠分と水野忠重)が松平清康の没年以降の生まれとなっています。ちなみに、華陽院は徳川家康の母、於大も水野忠政との間に設けております。つまり、水野氏と松平清康との直接の姻戚関係はないと思ってよいわけです。残りの青木氏ですが、素性が不明なんですね。今川氏配下であるとか、佐々木氏の配下である等の考証はあるようなのですが、この青木一族そのものがここ以外に登場しないのでわからないといった状況です。彼女は1526年(大永六年)に没しており、以後清康は独身を通すわけです。ちなみに広忠の母親はこの青木氏の娘だそうです。さりながら、既に広忠という嫡子をもうけているとはいえ、姻族で同盟を固めている信定と比べれば、清康の基盤は極めて脆弱であると言わざるをえません。

 幼君を擁立して松平一門の干渉を排除した安祥松平家家臣団と、一門衆や周辺勢力を姻戚でとりこんで勢力を確保した桜井松平信定は対立関係にあったのかもしれません。三河物語でも能見物の桟敷席の取り合いで面目を潰されています。ただ、桜井の地は本願寺教団の勢力圏であり、有力門徒である石川氏、内藤氏と軒を並べている状況です。桜井にいる以上、松平信定もまた、結束して安祥家を支持する家臣団の顔色を伺わなければならない状況には変わりが無かったと思われます。

1510年(永正 七年) 織田信秀、海東郡勝幡城主・織田信定の長男として生まれる。
1513年(永正 十年) 尾張下四郡守護代の織田達定、主君の尾張守護斯波義達と争い、殺害される。
           尾張下四郡守護代家は織田達勝が継ぐ。
1515年(永正十二年) 斯波義達、今川軍と遠江で戦い捕虜となり、剃髪の上尾張に帰還。
1521年(大永 元年) 足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。
           斯波義達、死去。斯波義統が家督相続。
1526年(大永 六年) 桜井松平信定、この頃までに守山を領有
           八月 今川氏親没。氏輝が家督相続
1527年(大永 七年)  細川高国京を追われる。京は無主の地となる。
                     織田信秀、家督を譲られて織田弾正忠家当主となる。
1530年(享禄 三年) 織田達勝、守護の斯波氏の代理として兵を率い上洛。

|

« 川戦:英雄編②松平継承戦争 | トップページ | 川戦:英雄編④吉良さんちの家庭の事情 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/41689392

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:英雄編③選手交替:

« 川戦:英雄編②松平継承戦争 | トップページ | 川戦:英雄編④吉良さんちの家庭の事情 »