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2008年7月 8日 (火)

川戦:英雄編⑤東征Ⅰ

 永正年間においては、今川家にコテンパンにのされて見る影も無かった『尾三連合』でしたが、その後、若干明るい兆しが見えてきます。1526年(大永六年)八月に今川氏親が没しました。これは、織田家と松平家の姻戚関係が強化され、西条吉良家当主が三河に帰ってきた『尾三連合』にとっては好機到来に違いありません。
 彼らが目標としたのは、三河と遠江の国境にある宇利城でした。この城は熊谷氏が守っておりました。平家物語で平敦盛を泣く泣く斬った熊谷直実の子孫といいます。
 その宇利の西方に吉田川が流れており、その川辺に野田という在所があります。ここを吉良氏の家老筋の富永氏が治めておりました。

 話は遡って1506年(永正三年)。野田富永家の最後の嫡流、富永千若丸が夭折したことにより、野田の富永家は吉田川上流の田峰を根拠地とする菅沼家に乗っ取られます。
 丁度この年、今川氏親は三河国に侵入し、吉田川下流の今橋に依る牧野古白を滅ぼしていました。野田富永家を乗っ取った菅沼家は後に斯波家と大河内貞綱が遠江奪還戦を仕掛けた時に、今川方として戦っております。野田菅沼家の家伝では、富永家が望んで菅沼家から養子を迎えたとあるそうなのですが、この流れから考えれば、今川家の三河侵入を好機として、田峰の菅沼家が野田富永家を乗っ取ったと考えるのが自然です。
 野田の富永家嫡統は滅びたものの、傍流の富永正安が牟呂(室)に城を築き、東条吉良持広の保護を受けております。そして松平長親の娘を息子忠安の嫁に迎えました。松平長親はその一方で大河内貞綱の一族の者を息子信忠の嫁にしております。永正年間の段階で、ようやく松平家は吉良家と誼を通じるようになったわけですね。

 そこに転機が訪れました。西条吉良義堯の三河帰還です。私は松平清康による小島城攻めを西条吉良義堯の下知による東条吉良家攻撃の一環であるとみております。先ほども述べたように、松平清康の母は大河内一族の出であり、叔母は富永正安に嫁いでいました。牟呂の富永氏にしても、野田を奪った今川家は憎いし、反今川闘争を繰り広げた西条吉良に敵対している東条吉良家には、同情できない気分だったのではないかと思われます。
 松平清康の攻撃は小島城という局地戦に留まりましたが、日に陰に西条吉良家による東条吉良家への圧迫はあったと思われます。その結果西条吉良と東条吉良は和睦をしました。東条吉良持広には嫡子がいるのに、わざわざ西条吉良から養子を迎えるという事実上の屈服です。以上の事は前稿でもふれております。
 その結果吉良一門、家臣衆が西条吉良義尭を中心に反今川で結束したのです。もともと家老筋であり、東条吉良持広に重臣としての待遇を得た牟呂の富永正安はその企てに加担したのではないかと私は思っています。
 野田の富永嫡流は菅沼氏に乗っ取られたと書きましたが、それは養子を迎えるという穏便な手段によってます。富永氏に仕えていた家臣団の少なくとも一派は温存されていたでしょう。富永正安はその家臣達に働きかけて、野田菅沼定則を吉良方にひきいれたと思われます。既に三河遠江を席巻した今川氏親はいません。西条吉良家は野田の菅沼定則が宇利を攻める後詰めを派遣することによって、菅沼定則を従わせることができたのでしょう。三河物語の宇利城攻めのくだりには、菅沼家は登場しておりません。しかし、野田の地を押さえることなくして、宇利に到達出来ませんし、宇利城陥落の後に、宇利の城は菅沼定貴に与えられたといいます。この戦いは吉良氏や松平氏の都合によるというよりも、菅沼家の勢力拡大に西条吉良家が手を貸し、松平清康が派遣されたということなのでしょう。

 後詰めとは、小豪族同士の争いに自分達の主人の加勢を頼むことです。有名な合戦事例を述べますと、本能寺の変の直前、毛利氏の高松城を囲んだ羽柴秀吉は織田信長に後詰を仰ぎました。織田信長が明智光秀に討たれたのは安土から高松城へ征西の旅にでる途上のことです。
 長篠合戦も長篠に進出してきた武田勝頼に相対した徳川家康が織田信長に後詰を要請したものでした。羽柴秀吉は織田信長の家臣ですし、徳川家康は長篠合戦までは辛うじて織田信長の同盟者としての立場を保持していましたが(その為に姉川合戦や金ヶ崎遠征に従軍など努力も惜しみませんでした)、この合戦以後徳川家は織田家に臣従することになります。

 宇利城攻めの場合、合戦の当事者は菅沼定則と熊谷氏になり、菅沼定則の後詰を行ったのが松平清康となります。しかし、間に富永氏が介在しているとはいえ、菅沼定則が松平清康に臣従したとは考えにくいです。菅沼定則は富永正安の主人である吉良氏に臣従し、松平清康はその代官という位置づけとして迎えられたのではないかと思います。その背後には桜井松平信定がおり、彼をバックアップする勢力として新興の尾張の織田一族がおります。菅沼定則は宇利の陣屋で邂逅した二十歳の松平清康の背後にそういうものを見ていたのだと思います。

 また、菅沼定則のそいういう視線を松平清康は感じ取っていたのかもしれません。彼は感じ取っていなくても信忠を押籠めて清康をかついだ重臣――酒井忠尚、石川忠輔、大久保忠茂、阿部定吉――あたりの誰かがキャッチしていたものと思われます。それは松平清康の限界であり、次代に続く苦難のプロローグだったのではないかと思われます。

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