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2008年7月29日 (火)

川戦:英雄編⑪守山出兵

 三河物語が語る、守山崩れにおける松平清康の行動は、不可解極まりありません。まず何ゆえ守山に進出できたのか。一応守山には松平信定の屋敷があることとなっています。松平信定は守山城主織田信広の婿なので、そのとりなしがあれば、尾張に兵を入れることは可能かもしれない。でも、桜井松平信定は仮病を使って散陣拒否をしております。それに伴い、大給松平源次郎(親乗?)、緒川の水野(忠政)、守山城主の織田信広が敵に回る可能性を家臣たちが示唆しています。松平清康はそれを一笑に付しますが、三河一国を従え騎虎の勢にある松平清康が、何ゆえそんな虎口に臨むのか、首を傾げるところです。果たして何があったのかを邪推してみるのが、本稿の趣旨です。

 三河物語によれば、三河国を統一した松平清康が次に計画したのは、美濃国遠征でした。甲斐の武田信虎が同盟を持ちかけ、美濃三人衆(安藤・稲葉・氏家の三家)が案内するといい、守山城主(織田信広か?)も賛同したという、本当だろうかと思わず疑いたくなるような企画にのって松平清康は守山まで行くというストーリー立てになっています。
 他の史料に出てくる記録を追ってゆくと面白いことが見えてきます。まず、1531年(享禄 四年)十一月 清康、伊保の三宅加賀守を広瀬城に追います。これに反撃すべく、翌1533年(天文 二年)三月に三宅氏は足助の鈴木氏と連合を組み岩津までやってきますが、これを清康は撃破します。すると、今度は十二月に品野勢が井田野に攻めてきます。歴史書では、品野ではなく信濃国だと書かれているのですが、三河物語の信虎のくだりと同じく、今ひとつ三河国との繋がりが見えてこない記述なんですね。但し、品野ととらえた場合、そこは桜井松平信定の領地でもあり、松平家の内訌というセンが現れてきます。三河物語においても、松平信定は清康の守山進出に仮病を使って付き合っていないことになっておりますので、何らかの不和があったことは想像できます。そして、その報復なのか、翌1535年(天文四年)清康は猿投神社を焼きます。そして、十二月に守山に進駐するに至ります。

 私が着目するのは、伊保、猿投、品野、守山のラインです。ここに前稿で紹介した実円の動きを重ね合わせると、少々違ったものが見えてきます。すなわち、これらの合戦は前稿で述べた実円の動きに呼応したものではなかったかということです。
 伊保、猿投、品野、守山は実円が動員した三河兵の進軍ルートであったのではないかと私は考えております。守山から北上し、美濃――飛騨――加賀へと至ったという考えです。そう考えるのは、清康の尾張国への進出があまりにも容易に過ぎると思えるからです。
 当時、尾張国は斯波氏から織田氏への支配権移行が進んでいる時期であり、今川氏豊が那古屋に城を構えたり、桜井松平信定が守山に館を構えたりしていた時期でもありました。しかしながら、この後織田信秀が三河国を圧迫するようになるのです。その精強さを考えると、あまりにも簡単に進出できています。この進出を支えた何かがあったのだと考えて不自然ではないでしょう。三河物語が言う、美濃三人衆の誘いや守山城主の賛同は美濃攻めではなく、そのずっと向こうの加賀出兵を支援するという意味合いだったのかもしれません。本願寺教団はすでに飛騨国に対し、白川郷の内ヶ島氏の支援をとりつけております。それと同じく、松平清康は山科本願寺の大一揆を支援していたのではないでしょうか。彼が本願寺教団から要請されていた役割は三河国から尾張国にかけての進軍ルートの確保だった、というのが私の推測です。

 1531年(享禄三年)年の清康による伊保への攻勢はその一環でした。しかしその後、1535年(天文四年)に猿投神社を焼くまで受身になっております。実はこの間に本願寺教団に大きな動きがありました。
 1531年(享禄 四年)の大小一揆は下間兄弟と実円が率いる大一揆の勝利に終わりました。しかし、その直後、畿内で天文の錯乱が起こります。細川晴元家臣団の内訌に介入した本願寺門徒衆は暴走を始め、大和国に乱入し、興福寺などに狼藉を働いたことから、細川晴元を敵にまわすことになったのです。山科本願寺、顕証寺、洛中洛外の本願寺系諸寺は破却され、法主の証如は石山御坊へ、連淳は長島願証寺に逃げますが、細川晴元は攻勢を緩めませんでした。近江亡命中の足利義晴と和解すると、義晴に本願寺討伐令を出させるのです。信長との抗争を除くと、本願寺教団最大の危機だったと思われます。
 本願寺教団はこの時、連淳が脱落しており、実円、下間頼秀、頼盛、二人の父親の下間頼玄らの手で支えられておりました。
 三宅氏、鈴木氏、品野勢が攻めてきたのはそんな時期だったわけです。彼らの行動は幕府――細川晴元と足利義晴の連携体制――の意向に沿うものだと捉えることができるでしょう。これに対して門徒衆を多く抱える松平清康はあくまでも進軍ルートの確保に努めました。しかし、1535年(天文四年)十一月、石山に遷りそこを本願寺とした証如は細川晴元の軍門に降ります。連淳が下間兄弟の首を差し出すことを引き換えに青蓮院門跡を動かして講和を成立させました。
 松平清康率いる三河勢が守山に出陣するのはその翌月です。本願寺と幕府との戦争は終わり、三河から出陣した兵達が帰還するはずです。彼らはおそらくは下間兄弟の手勢として、大小一揆終結後、石山本願寺防衛戦に狩り出されていたはずです。守山出兵は彼らの帰還を待つとともに、確保した三河から守山までの橋頭堡を保全しようという目論見があったのではないかと思われます。
 しかし、清康の手元にはその正当性を補償する担保はありません。本願寺教団は敗北を認め、幕府に帰順しました。しかし、ここで守山をはじめとする尾張ルートを失うことは当然、東三河の情勢にも影響を及ぼすことでしょう。そこを考えて松平清康は引けなかったのではないかと考えます。さりながら、桜井松平信定、大給松平源次郎(親乗?)、緒川の水野(忠政)、守山の織田信広らがいつまでも支援を続けるか――すでに信定は中立の立場に軸足を動かしています――ははなはだ疑問であり、守山に在陣し続けること自体が危険であるという認識が一人清康を除いて、家臣達の共通認識にまでなっていたといえるのではないかと思います。

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