« 川戦:英雄編⑨実円Ⅰ | トップページ | 川戦:英雄編⑪守山出兵 »

2008年7月25日 (金)

川戦:英雄編⑩実円Ⅱ

 その本願寺教団の中枢にいた実円の人生は順風満帆といいたい所ですが、1515年(永正十二年)に播磨国英賀に建てた本徳寺が危機に陥ります。1530年(享禄三年)細川高国とタッグを組んだ浦上村宗が挙兵したのです。彼は備中三石城主でしたが、既に西播磨に勢力を伸ばしておりました。細川高国は1527年(大永七年)に京を追われて以来、伊賀・伊勢・越前・出雲・備中と諸国を転々としました。そして諸侯に上洛を促したのですが、永正の折の大内義興の失敗事例が尾を引いているのか、満足できる成果を得ることが出来ませんでした。それが、1530年(享禄三年)にようやく、備前の浦上村宗に出会うことが出来たのです。

 1527年(大永七年)に細川高国が京を脱出して以来、本願寺は阿波から泉州堺に上陸した足利義維、細川晴元に接近します。そして、家宰の下間頼秀を越中国に派遣し、超勝寺らとともに越中国にある細川高国系の荘園の長を本願寺系のそれに挿げ替えてゆきました。これは細川高国派を必要以上に刺激する行為でした。そのため、加賀国の三ヶ寺である若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺がこれを止めようとして、争論となったほどです。
 そういう状況下で西播磨まで進出していた浦上村宗が細川高国方について東征をはじめたわけです。
本願寺中枢にあって、三河本宗寺、播磨本徳寺の住持であった実円にとっては由々しき事態であったことは想像に難くありません。彼には美濃・尾張・三河三ヶ国の門徒を動員する権限をあたえられていました。とはいえ、英賀救援という形では相当私戦の色が濃くなります。本願寺は表向きには門徒に一揆の禁止を命じています。連淳はそこの部分捌けていて、相当プラグマティックに原則を変えてしまいますが、実円はその立場を自分から崩すことを望まなかったのだと思われます。
 播磨の蜂起に対して、堺幕府は京の柳本賢治を派遣することにしました。それに兵を送ることで呼応したのだと私は考えます。織田達勝についても、没落する斯波家の再興を図るために細川高国との戦いに参戦して、堺幕府に恩を売ることはメリットのないことではありません。但し、湖西の朽木には足利義晴がいて、湖南には細川高国を支持する六角定頼がいます。彼らの目を避けて京に三千の軍勢を送るために、本願寺のネットワークが活用されたのではないでしょうか。
 ルートとしては尾張から北上して美濃に入り、江北から船で一気に願証寺のある大津に入れば、比較的目立たない形で入京することが可能です。京に入ってからは柳本賢治と合流し、柳本軍として播磨に向かったとすれば、織田軍としての記録が無くても不自然ではないでしょう。

 突飛な想像だとは自分でも思いますが、勢力図や後の動きを分析するに全くありえない話でもないのではない、というのが今の自分の考えです。但し、根拠が乏しいことは言うまでもありません。
 本願寺と織田達勝の関係については、『天文日記』と題された本願寺十世法主証如の日記1536年(天文五年)の正月七日と三月十一日の条に尾張国海部郡の浄土真宗本願寺系の有力寺社である興善寺の統制への協力を織田達勝が本願寺に依頼し、本願寺はこれに応えたという記録があるといいます。ですから、本願寺と織田達勝の関係は同時代史料上でも見出せます。

 柳本賢治はその翌月に播磨で陣没します。自害とも暗殺ともいわれております。その翌月までに東播磨の主要な城が落とされ、英賀もまた高国方の手に落ちたようです。
 実隆公記の1531年(享禄四年)五月十二日至十六日裏に記された連歌師周桂書状写しにその事が記されています。『去月十九日播州阿賀へ着きました。細川高国も在所されておられます』

 私の考えでは『織田達勝の上洛』は織田家にとってはミソをつけた形になったものの、実円にとっては大きな成果でした。織田家を味方に引き入れ、美濃・尾張・三河の兵を京に送り込む算段がついたのですから。

 結果として派兵は失敗に終わり、勝ちに乗じて細川高国、浦上村宗の連合軍は摂津に侵入。1531年(享禄四年)三月七日に高国派の一軍が一時的に入京するところに繋がります。
 その状況下で今度は顧名の五子が相争うことになります。1531年(享禄四年)閏五月九日、加賀三ヶ寺の制止にもかかわらず、越中国を攻めた超勝寺、本覚寺門徒達に対して顧名の五子のうち、連悟、蓮慶、顕誓ら加賀三ヶ寺は両寺の討伐を決めます。超勝寺、本覚寺は細川晴元と本願寺の意を受けて、細川高国の息のかかった荘園の荘官人事に介入しましたが、このことが周囲の諸侯、能登畠山、越後長尾、越前朝倉の諸勢力を無用に刺激することを嫌った三ヶ寺の判断でした。
 細川晴元は細川高国、浦上村宗の連合軍に対し、切り札である三好元長を投入します。彼らは摂津中嶋で戦いましたが、ここで高国、浦上連合に裏切りが発生し、大惨敗を喫しました。その結果細川高国、浦上村宗の両名は戦死するにいたります。細川高国が死んだのは1531年(享禄四年)六月八日のことでした。
 それを受けたのか、見越していたのかはわかりませんが、ここで本願寺法主の名において超勝寺、本覚寺の救援と加賀三ヶ寺の討伐を連淳が命じました。大小一揆です。
 実円は連淳側に加担し、法主の執事であった下間頼秀、頼盛兄弟とともに畿内そして三河兵を動員しました。時に1531年(享禄四年)六月末のことです。

 この三河兵動員は松平方の史料にその形跡を見出すことはできません。さりながら、この時点で松平清康は尾張国境から東三河までを制圧した戦国大名になりつつありました。その彼が知らない所で、兵が動員され国外へと派遣されたということはまずありえないことだと考えられます。ましてや、松平家には石川、本多、酒井、阿部他、多くの門徒武士を抱えていたのですから、そこに影響が出てこないということはありえないでしょう。
 この直後、矢作川上流の三宅氏、鈴木氏との抗争が始まります。この戦いは清康勢の尾張西進へと繋がって行き、最終的には清康自身の悲劇的な死へと繋がって行きます。本願寺教団の歴史と、松平家の歴史を照らし合わせれば、この軍事行動に別な意味があらわれるのではないか。そんな風に考えております。

|

« 川戦:英雄編⑨実円Ⅰ | トップページ | 川戦:英雄編⑪守山出兵 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/41969779

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:英雄編⑩実円Ⅱ:

« 川戦:英雄編⑨実円Ⅰ | トップページ | 川戦:英雄編⑪守山出兵 »