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2008年7月10日 (木)

川戦:英雄編⑥東征Ⅱ

 宇利城の攻防における松平軍の陣容の詳細はよくわかりません。三河物語には清康直属軍の他に、桜井松平信定、福釜松平親盛ら一門衆が兵を率いたと書かれております。その数八千。十五、六の隊に分けて進軍しましたと言います。
 大手攻めはその松平信定と松平親盛に任され、清康は搦め手の高地に陣取ったといいます。その高みから、搦め手に陽動の鬨の声や鉄砲(おそらくは、音だけの空砲だろうと推測されます)をあげて、守備側の注意を搦め手にひきつけた上で、大手攻めを下知しました。しかし、城方はそれに惑わされず、大手に兵を集めて迎撃します。敵の勢いに正面から当たることを避けた松平信定は一度兵を退きますが、松平親盛は逃げ遅れて敵に囲まれました。清康はこれを救けようとしたものの、間に合わず福釜松平親盛は討ち取られてしまいました。

 勝敗は兵家の常ですし、三河物語の簡潔な記述では、親盛戦死にどんな戦術的失敗があったのかも読み取れません。しかし、将ならばまずやらないことを清康はやらかしました。同じ大手攻めを担当した松平信定を自陣に呼びつけて、松平親盛を見殺しにした罪を詰ったのです。
 普通こんなことをすると兵の士気は一気に落ちて、下手をすると軍団が瓦解しかねません。しかし、あえてやったとすれば、そこには理由があるはず。逆に特段の理由も目的もなく難詰したとすれば、三河物語が取り上げることもないでしょう。このエピソードは見方によっては清康の狭量さを示すものなのですから。
 松平清康が信定を非難した目的は、桜井松平信定に対する優位を、外に向かってアピールするためだったのではないかと、私は考えています。年齢を割り引いても、閨閥の面で松平清康は尾張国や松平一門に姻戚関係を結んでいる松平信定に大きく後塵を拝しております。菅沼家の視線も清康よりは信定のほうに向くのも自然なことでしょう。それ故、敢えて桜井松平信定の非をあげつらって誰が松平家の惣領であるかを示さなければならなかったのでしょう。同時に戦死した福釜松平親盛を称揚し、戦功を表しました。これは賞罰権が誰にあるのかをアピールするためでしょう。その主目的は松平信定を貶めることではなく、援軍を頼んだ菅沼家や尾三連合に存在を誇示することにあったのですから。

 松平信定に対する難詰は、みっともなくてもやらなければならないことでした。対外的にはそれだけ清康の立場は弱かったと見ることができるかもしれません。信定はこれに大人の態度で対応したようです。少なくとも、自領に取って返して叛旗を掲げるようなことはしませんでした。
 おそらくは出来なかったのだとと思います。それは、彼が率いる家臣達もまた清康を支える重臣達と同じ基盤に依るからではないでしょうか。清康は家臣団の支持で推戴されたのですから、清康との対立を決定的なものにすれば、信定は家臣団の支持を失い、最悪信忠と同じように押籠められてしまう可能性もあったかもしれません。対外的に清康よりも重視されている理由を考えれば、安祥・岡崎松平家の後見人という立場を維持した方が信定にとっては得なのですね。

 三河物語には宇利城攻めの結果は記されていませんが、諸書によると宇利の城は結局陥落して、熊谷氏は城を退去し、菅沼定貴という野田菅沼氏の一族がこの地を治めることになったそうです。この戦いは東三河のパワーバランスを崩し、吉田川下流の牛久保・今橋による牧野氏との対立が決定的になりました。三河物語に依れば、松平氏と牧野氏どちらがこの三河を治めるかを戦いで決めようと挑戦状をたたきつけ、吉田川を舟橋で渡ると、不退転の決意を示すためにその舟橋を川に流したとあります。死戦を覚悟した背水の陣でした。
 この牧野伝蔵(田蔵)ら牧野四兄弟が率いる牧野軍を松平清康と信定は下地で会戦します。ここの合戦描写は三河物語も手厚く描いており、力戦が繰り広げられました。清康が大将であるにもかかわらず、最前線で士気を取るのを見かねた部下が後方に下がるように指示すると、血気にはやった若武者である清康はこれを斬ろうとするのを信定は部下の方を窘めます。『清康を最前線で指揮をとる邪魔をするな。死なせればよいではないか。大将を庇って兵が敗れれば、大将も死ぬ。兵が勝てば大将は生き残るのだ』そう言って、自らも兜を脱いで最前線で指揮をとりました。近代戦においては指揮官が最前線に立つなど言語道断なんですが、敵は自ら退路を断った死兵です。数を頼んで押し込んでも、死兵は強く、楚漢の韓信の事例をひくまでもなく寡兵が大軍を破る事例は結構あるのですね。これに当たるために大将がリスクを犯して最前線にでるというのは、必ずしも愚策ともいいきれません。
 三河物語は清康の器量を激賞しているのですが、その振る舞いは一門衆に冷たく、時に部下の諫言すら聞かずに猪突猛進する風すら感じます。晩年の守山崩れに際しても、その傾向は改まっていないようです。それに対してここで描かれている信定は一軍を率いるだけの器量をもった人物として描かれているのですね。無論、清康に死ねばいいなどと口走る所は、宇利の戦いで罵倒された遺恨が混じっているかもしれません。でも、その後自らがリスクを背負って最前線に立っているのです。これは単純に遺恨だけで誤った行動を取る短慮な人間の振る舞いではありません。少なくとも三河物語の著者である大久保忠教はそのような人物としては描いていないのです。
 この下地の戦いでの力戦の結果、松平軍は勝利し、牧野四兄弟はことごとく討ち取られました。そして南下して田原に軍をすすめます。田原の領主は戸田宗光。彼は数代前に松平信光とともに額田郡一揆を鎮圧した戸田宗光と同名ですが、子孫であり、先祖と同じ名前を持っていました。永正五年には戸田憲光は今川氏親が派遣した伊勢宗瑞に従って井田野で松平長親と戦いましたが、戦後伊勢宗瑞に今川と手を切れと提言しております。この言をどのようにとられたのかは不明ですが、伊勢宗瑞は合戦に勝利したにもかかわらず、三河を去りました。松平家と戸田家はそういう因縁にある家です。戸田宗光は戦わずに降伏します。作手の奥平氏、田峰・長篠・野田の菅沼氏、牛久保の牧野氏を始め、設楽、西郷、ニ連木、伊奈、西之郡の人々がこぞって戸田に集まって松平清康に降伏したそうです。彼らは伊勢宗瑞とともに松平長親と井田野で戦った人々です。彼らがこぞって降伏したのは、もちろん政治的な下準備もあったでしょう。背後に吉良氏の支援があったと思われます。入念な下準備が予め行われていたと思います。それにあわせて、この面子は永正の井田野合戦後に戸田憲光が提唱した体制でもあるのですね。戸田で行われた彼らへの接見には、そのようなシンボリックな意味あったように思われます。

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