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2008年7月15日 (火)

川戦:英雄編⑦征西

 清康東征の前の話になります。
 1529年(享禄二年)もしくは、1530年(享禄三年)あたりに松平清康は尾張に出兵したという話があるのですね。尾張と三河が連携していたと考える私の見方とは矛盾する動きです。尾三連合説を唱える私にとっては『都合の悪い』史実であります。そこを認めた上で、本稿では考察をすすめます。
 まずは、この清康の征西に触れている諸書の記録内容をまとめてみました。

貞享聞書
 日時: 1529年(享禄二年)7月17日
 場所: 尾張国春日井郡品野
 尾張側:斯波兵衛佐尚誠、織田弾正信定、桜木上野介、
 三河側:大河内左衛門佐
本多家譜
 日時: 1529年(享禄二年)10月
 場所: 三河国(尾張国の誤りか?)岩崎、(場所不明)野呂
 尾張側:荒川頼宗と坂井季忠(いずれも織田備後守信秀の部下と紹介)
 三河側:本多忠豊
桜井家譜
 日時: 1529年(享禄二年)
 場所: 尾張国春日井郡科野(品野)
 尾張側:織田信秀の部下の桜木上野介
 三河側:桜井松平信定、清定
 日時: 1530年(享禄三年)5月8~9日
 場所: 岩崎、野呂
 尾張側:織田信秀の部下の荒川頼宗。坂井季忠
 三河側:桜井松平信定、清定

 その他、三河物語、官本三河記、阿部家譜、家忠日記増補、寛永諸家譜図伝、武徳大成記が触れています。でも、記述にはいくつか突っ込みどころがあるのですね。
 貞享聞書にある斯波兵衛佐尚誠ですが、当該する人物が不明です。兵衛佐=武衛と名乗れるのは斯波家惣領ですが、当代は義統以外にいないはずです。本多家譜の織田備後守信秀の備後守ですが、信秀が備後守を名乗るのは早くても1545年(天文十四年)以降です。それ以前は弾正忠を名乗っておりました。まぁ、これは家譜史料ですから生涯で得た一番高い官位で記したのかもしれません。ただ、この時期に織田信秀は十九歳から二十歳ですが、父信定は存命です。桜木上野介、荒川頼宗、坂井季忠の三名の主人がどちらだったのでしょう。
 織田信秀の家督相続時期が1527年(大永七年)説と1532年(天文元年)説の二つあるのですが、1532年(天文元年)説をとった場合、桜木上野介、荒川頼宗、坂井季忠が織田信秀の部下というのは怪しくなります。いずれにせよ、1529~1530年(享禄二~三年)の時点で信秀が織田弾正忠家の家督を継いでいたとしても、惣領は信定のものでした。記録としては貞享聞書の書き方が妥当なようにも思えます。ただ、この織田家の対戦相手が信定だとしても疑問はなお残ります。

 野呂は場所不明なんですが、岩崎は愛知郡、品野は春日井郡にあります。ここで首を捻るのは春日井郡は尾張国の上四郡にあたるということです。尾張の守護代織田家は二流あって、伊勢守家は上四郡、大和守家は下四郡を担当することになっておりました。尾張国の両守護代家は仲が悪く互いに争っていたといいます。織田弾正忠信定は尾張守護斯波義統の部下である、守護代織田大和守達勝配下の清洲三奉行の一人で尾張国西方の海東郡勝端を根拠地にしていました。判り易く系統図にするとこんな感じです。

 尾張国守護斯波義統―+―尾張国上四郡守護代織田伊勢守(愛知郡、春日井郡などを支配)
                |
                +―尾張国下四郡守護代織田大和守達勝―+―織田因幡守家
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                                           +―織田藤左衛門家
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                                           +―織田弾正忠家(信定)

 織田信秀が那古屋城を奪って根拠地を移すのは1538年(天文七年)のことです。織田弾正忠信定は果たして、主家を飛び越えて伊勢守家のテリトリーである春日井郡の品野城に自らの部下を置くことができるかどうか。疑問です。
 また、桜井家譜には桜井松平信定が自分で品野、岩崎、野呂を攻めたということになっていますが、その信定本人が斯波義統(実質的には織田達勝)から1526年(大永六年)までに尾張国守山の館を、そして織田信定からは嫁をもらっています。但し、この時期の弾正忠家の織田信定・信秀父子は大和守家の織田達勝の奉行人であり、西尾張の勝幡に根拠地を持つ小領主に過ぎません。尾張国の東側に自らの部下を置けるほどの力があったかどうかは疑問です。
 三河物語のこの件の記述は極めて簡潔です。曰く、『(松平清康が)御年二十歳の頃に尾張国にも手を出すようになり、岩崎・品野という郷を攻め従わせなさった。品野の地は松平内膳(信定)殿にくだされた』。尾張に出兵したことは書いていますが、織田信定や信秀、斯波氏の名前は出てきません。

 以上のことを総合して考察するならば、愛知郡の岩崎を含め、何らかの戦いはあったかもしれませんが、織田伊勢守家と織田大和守家の戦いに借り出されたと解釈するのが最も自然であるように私には思われます。松平家はこの後の広忠の代になると今川氏に従い、尾張の織田家とは手切れをすることになります。その結果最大の敵として織田信秀を相手にすることになるのですね。その抗争には桜井松平信定も巻き込まれることになります。その関係上、後世の幕臣史家達には清康が信秀と戦って勝利をおさめたという形にしたかったのではないか、そんな風に私には思えるのです。

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