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2008年8月28日 (木)

川戦:流亡編④リセット

 1535年(天文四年)十二月、松平清康は兵を守山に集めました。既に本願寺と幕府との戦いは本願寺の完全敗北で決着し、織田氏と三河門徒達との共通の利害を基盤にして構築された岡崎から守山に至る軍用路は何の意味も持たなくなりました。尾張の諸勢力、織田家、水野家はこの激変を静観しており、守山の三河兵の集結に参加するでも挑むでもない態度をとっています。松平清康もまた、岡崎で状況の変化をみまもるべきだったのかもしれません。しかし、それは松平清康にとって今まで積み上げてきたものを放棄することを意味します。この弱冠二十四歳の青年武将には一時退却という戦略的思考は働かなかったようです。なにしろ家督をついでからこちら、彼はいままで勝ちっぱなしの人生を歩み続けていたのですから。それは後年、武田信玄に突っかかって言った三方ヶ原の徳川家康の姿にかぶるものかもしれません。また、清康は岡崎から守山に至るルートの向こうに天下を見据えており、それを公言していたのかもしれません。三河物語が清康を『三十まで生きていたら天下を取れただろう』と評したのはそうした背景があったと考えればとても興味深いものがあります。
 清康の家臣たちは清康よりも情勢が見えていたものと思われます。本願寺が敗れた今、桜井松平信定、大給松平源次郎(親乗?)、緒川の水野(忠政)、守山の織田信広らがいつまで松平清康の支援を続けるか――すでに信定は中立の立場に軸足を動かしています――は、はなはだ疑問であり、守山に在陣し続けること自体が危険であるという認識が一人清康を除いて、家臣達の共通認識にまでなっていた。それゆえ、三河物語において家臣たちが散々主君に守山在陣の危険性を訴えかけたのでしょう。

 松平清康はこの直後、阿部弥七郎に斬り殺されます。それは不幸な事故であったと説明されています。曰く、守山に参陣しない桜井松平信定は清康の留守中に岡崎を襲う腹づもりがあり、その陰謀に阿部大蔵定吉が加担しているという噂が守山の松平軍に流れました。その噂は阿部弥七郎はもちろん、阿部定吉当人にも心当たりのないものでしたが、松平家臣たちは疑心暗鬼に陥っており、阿部定吉に対して殺意を露わにするものもいたと言います。阿部定吉は弥七郎を諭して『根も葉もない噂で自分が誅罰された場合でも、主君を恨まず、自分達の潔白を表明して自害せよ』と命じました。
 その翌朝未明、松平清康の陣中で馬が脱走して暴れます。馬小屋の管理が不十分だったのでしょう。陣中の門を閉ざして、馬を逃がさぬよう清康は命じます。これを阿部弥七郎は清康が阿部定吉の誅殺を命じたものだと誤解しました。弥七郎は父の命も忘れ、仇を取るべく清康のもとに現れて村正の刀で主君を斬ります。そして弥七郎も異変を察知して駆けつけた植村新六郎氏明の手によってその場で斬られました。

 正直言ってかなり苦しいストーリー立てだと思います。被害者も加害者もともに死んでおり、どういう状況だったのかは不明です。ただ、後に阿部定吉は松平広忠の重臣として活躍しておりますから、その重臣の息子が故意に主君殺しをしたということには出来ない。その為に作られた物語ではないかとおもわれるのです。
 この年の六月、石山本願寺に復帰した蓮淳は三河の本証寺と勝鬘寺に書状を送っています。この時の蓮淳は対幕府戦における石山本願寺の敗北を認め、講和条件を探っている最中でした。その文脈において本証寺と勝鬘寺に、伊勢長島願証寺の指導のもとに、蓮如の遺文に基づいた布教活動に専念すべし、と求めていたのです。
 蓮如の遺文は王法を先にすべし。即ち幕府に従い戦うなということです。講和条件の模索中に下手に戦果を挙げて幕府を刺激しては元も子もなくなる恐れがありました。蓮淳は実円に替わって伊勢・美濃・尾張の教区も統括することになっていたので、その命令は尾張にも出ていたと思われます。よって、織田は動かなかった。三河の門徒家臣たちも、戦に消極的になり、松平信定の不穏な動きを口実に守山撤兵を申し入れます。
 主人を諌める家臣の言葉に対して松平清康がとった態度は強毅なものでした。家臣たちにとってその有様は先代の松平信忠に重なって見えたのではないでしょうか。この時松平清康は二十四歳。大人の分別も備え、家臣に頼らずとも自分で判断のできる年齢です。しかし、この主人の判断は本願寺の要請に真っ向から反するものでした。家臣たちにとっては非常事態です。岡崎城には十歳になる嫡男の仙千代がいます。この事態を打開するために、主君を抑えて家臣達が主導権を握る必要があります。かつて松平家臣団が先代の松平信忠に対して押籠めを行わなければならない。しかも戦陣の中では松平信忠に対して行ったような比較的に温和な方法はとれませんでした。その結果が守山崩れだったのではないか。現時点ではその様に思っております。

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2008年8月21日 (木)

川戦:流亡編③六名阿部一家

 三河国額田郡小針村(現在の愛知県岡崎市小針町)に江戸期に大名となった阿部氏の館があったといわれています。ここに阿部氏十一家の同属集団が村を治めておりました。小針に城を建てた阿部忠正の家は幕末の老中阿部正弘にまで繋がっております。明応年間には碧海郡上野(現在の愛知県豊田市上郷)に住する阿部満五郎が井田野で松平親忠と戦っているように、近隣に分家をもったようです。

 今回取り上げるのは、その阿部氏の一族のうち、矢作川対岸の六名村(むつなむら。岡崎市六名町)に移った一家についてです。その者の名前は阿部道音。道音は法号であり、実名は不詳です。彼は松平信忠に仕えたと寛永重修諸家譜はいいます。彼の息子は大蔵定吉と名乗り、松平清康と松平広忠に重く用いられました。

 阿部道音―+――定吉――+――弥七郎
        |         |
        |         +――清秀(井上清宗養子)
        |
        +――定次――+――次重
                  |
                  +==忠政(大久保忠次次男)
                  |   ∥
                  |   +――重真――…
                  |   ∥
                  +――女(忠政室)

 上記は阿部道音一家の略系図です。ここでは彼らの宗旨について考察します。阿部道音とその子定吉、定次、そして定次の子の次重は六名村の南にあった和田村の妙国寺に葬られています。妙国寺は日蓮宗を宗旨としており、和田村を根拠地とする大久保一族が大檀那となっておりました。故に六名の阿部家の宗旨もまた日蓮宗であると考えるのは自然なことです。
 但し、この六名の阿部家は定吉と定次の子の代で実質的に一度絶家しております。定次の養子となって六名阿部の名跡を継いだのは大久保氏出身の忠政でした。阿部家を継いだ忠政は実家である大久保の支族として行動しております。そして、大久保家は日蓮宗を宗旨とする一族です。これらの事情を加味しながら、阿部氏の事情を考えるなら、少し違った方向性が見えてくるのではないか。その方向性を明らかにしてゆくのが本稿の趣旨です。

 阿部大蔵定吉の長男、弥七郎は『誤解』から主君松平清康を斬り殺し、植村新六郎に斬られました。定吉は息子の不始末を詫び、責任を取って自害しようとしますがこれを周囲から押しとどめられます。それから十日もたたずして三河に『織田信秀』が攻め込みます。天文の井田野合戦です。松平軍は力戦して織田軍を退けたことになっていますが、戦後に松平仙千代(広忠)が居城の岡崎から放逐されています。安城家に替わって松平一門を総督することになったのは仙千代の大叔父にあたる桜井松平信定でした。ここで言う織田信秀や織田軍は実質的には桜井松平を中心とした勢力だったと思われます。
 これに前後した時期に阿部道音が亡くなっているのですね。寿命や病を得ていた可能性もなくはないのですが、タイミングが良すぎます。天文の井田野合戦の混乱の中で戦傷死したのかもしれません。

 阿部大蔵定吉は主君の嫡男、仙千代=広忠を守って帰城の便宜を図った功により、許されましたが、主殺しの父親の悪評を拭えず、結局1549年(天文十八年)に死んだ折、定吉の血脈は絶えました。ちなみに同じ年に松平広忠は亡くなっております。定吉には弥七郎の他に、もう一人息子がおりましたが、この息子は別家に養子に行っており阿部の姓を名乗ってはおりません。
 阿部定吉には定次という弟がおりました。仙千代=広忠の岡崎脱出行と帰城に至る経緯を阿部夢物語という書物にまとめたのは彼であると伝えられております。彼には次重という嫡男がおりましたが、安祥の城をめぐる織田家との戦いの最中、1547年(天文十六年)に戦死します。彼には子息がおらず、やむなく阿部定次は六名の隣村である和田村の大久保家から養子を迎え、自らの娘を娶らせました。この大久保家の養子が阿部忠政です。但し、阿部氏を名乗ってはいるものの、年譜を見る限り彼の行動は大久保の支族としての行動に徹しております。1582年(天正十年)に養父である阿部定次が没した折、阿部家の祖父、伯父が眠る和田妙国寺に葬りますが、自らは大久保一族の墓所である長福寺に葬られます。
 つまり、六名阿部の血脈は1582年(天正十年)の阿部定次の死によって事実上絶えたということですね。寛政重修諸家譜では、阿部定次について広忠の岡崎復帰までの記録は結構詳細にかかれているのですが、それ以後の記録は度々戦功を表したと記されてはいるものの具体的な記述は全くと言っていいほどありません。同じ時代を生きた養子の忠政についての記述の細かさに比べると不自然極まりないほど不詳です。

 一方、小針に館を構えた阿部忠正の墓が岡崎市の願照寺にあるのですが、ここは本願寺系の寺院なのですね。してみると、阿部忠正自身、少し広げて小針の阿部氏は門徒であったと見てよいでしょう。
 後に小針の阿部氏は江戸時代に大名家になったりしていますが、その宗旨は松平家と同じ浄土宗です。1563年(永禄六年)、松平家康は三河一向一揆を鎮圧します。この戦いにおいて、家康は自分の味方についた家臣や、戦後に帰服した家臣達の宗旨を浄土真宗本願寺教団から浄土宗に改宗させました。小針の阿部氏もこの時に改宗したようです。
 1549年(天文十八年)に野寺本証寺の住持を誰にするかで争論があったそうです。その折、本証寺の大檀那である石川清兼(忠成)が本証寺門徒を集めてあい松という僧を住持として推す旨を記した連判状を作りました。その連判状の署名の中にも阿部氏(どこの系列かは調べが進んでいないのでわかりません)の名前があるそうです。
 以上のことを総合し、六名の阿部家の本来の宗旨は実は本願寺系の浄土真宗だった、というセンもありうるのではないかと考えています。

1529年(享禄 二年)            大久保(阿部)忠政、誕生。
1535年(天文 四年)十二月二十四日  阿部道音、没
1547年(天文十六年)           定次の長子次重安祥城攻防戦で戦死。
                        定次、大久保忠政(18)を養子にする。
1549年(天文十八年)十二月二十八日 阿部定吉、没
1582年(天正十 年)            阿部定次、没
1607年(慶長十二年)           阿部忠政、没。享年78。

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2008年8月15日 (金)

川戦:流亡編②織田信秀の叛旗

 1532年(天文元年)六月、石山御坊に入った証如率いる本願寺勢が奈良に侵入。興福寺に狼藉を働いたことによって本願寺教団は全ての周辺諸勢力を敵に回しました。
 その同じ年に尾張国では下四郡を支配する守護代織田大和守達勝に対し、勝幡の織田弾正忠信秀が叛旗を翻しました。1530年(享禄三年)に織田達勝が謎の上洛をし、それに対する反発と解説されています。
 私は織田達勝の上洛に、細川高国に占領された播磨国英賀の救援を策した本願寺(実質的には三河国土呂本宗寺実円)の支援があった可能性を考えております。
 1531年(享禄四年)に本願寺教団が分裂し、加賀国三ヶ寺を中心としたいわゆる小一揆に対し、山科の本願寺は派兵をします。この時、実円は三河兵も動員して小一揆討伐軍として加賀国まで送り届けているわけです。その途上には尾張国があり、織田大和守達勝の支配地がありました。三河国の松平清康にも言える事ですが、織田達勝が何の見返りもなく、本願寺兵の自領通過を認めるとは思えないのです。
 この頃の山科本願寺は実質的に蓮淳が采配を振るっており、1527年(大永七年)の管領細川高国の都落ちを期に泉州堺に上陸した細川晴元に急接近しております。1530年(享禄三年)五月の織田達勝の上洛時点で京を占領していたのは摂津国人柳本賢治で、彼も細川晴元に与しておりました。そしてその翌月、柳本賢治は細川高国と浦上村宗の連合軍と戦うために播磨へ出陣し、陣没しております。そして細川高国派は勝ちに乗じて一時京を占領するほどにまで勢力を伸張させます。実円が織田達勝に英賀救援を依頼したとすれば、その企図は完全に失敗に終わっているわけです。但し、細川高国は1531年(享禄四年)六月に細川晴元の家臣三好元長に敗れ、浦上村宗ともども討ち取られましたから、致命的な痛手とはならなかったものと推察します。
 ところがこの翌年、山科本願寺の証如が石山御坊に入り、細川晴元の依頼により、細川高国派の残党の畠山義尭と、晴元にとって狡兎死した後の走狗であり、法華宗徒でもあった三好元長を門徒衆が討ち取ります。それだけではなく、彼らは暴徒化し堺幕府の足利義維を逃亡せしめ、奈良を襲うなどして暴走するに至ります。
 細川高国を討ち平らげた三好元長を本願寺を使って倒すほどに、細川晴元は酷薄です。細川晴元は本願寺の討伐を命令しました。大津の顕証寺、山科の本願寺は幕府軍と法華衆の手で焼かれ、蓮淳は伊勢長島願証寺に、証如は石山御坊に逃れます。本願寺勢力は公共の敵の烙印を押されてしまったわけです。

 1532年(天文元年)に織田弾正忠信秀が主家であり、尾張国守護代である織田大和守達勝に叛旗を翻したのもその文脈でみることができると思います。但し、その構図は明確ではありません。機を見るに敏な織田信秀が中央の動向をいち早く察知して、本願寺に与同する織田達勝に戦いを挑んだのか、本願寺討伐の幕命を受けた織田達勝が路線変更を図ろうとしたのに対して織田信秀が反発したのか、いずれのケースも想定することが出来るでしょう。

 織田氏は桓武平氏を祖とするといわれているものの、主家である織田達勝は藤原氏を名乗っております。つまり、その出自の詳細はわかっていないのですね。織田弾正忠家は信秀の祖父の良信以前は良質の史料でさかのぼることはできません。弾正忠家は良信、信定、信秀、信長と代を重ねるわけですが、良信は尾張国海西郡津島に住しておりました。津島は木曽川を挟んで対岸が伊勢国長島だったりします。永正年間、織田良信(もしくは信定)は津島から陸に入った海東郡勝幡に拠点を移しますが、津島にはそのまま影響力をもっていたようです。この勝幡築城と同時期に長島には連淳が願証寺を建てています。それ以後、織田弾正忠家は力をつけてゆきます。織田弾正忠家の勢力拡大は木曽川対岸の伊勢国長島願証寺の寺内町の発展と機を一にしているようにもみえます。

 織田信秀と織田達勝が争った1532年(天文元年)、伊勢国長島には連淳が戻っておりました。幕府と法華衆に山科本願寺を焼かれ、命からがら水砦寺院である願証寺に入った連淳がすべきことは安全の確保です。信秀と達勝の争いが、織田家が勝ち馬である幕府について本願寺勢力を一掃するか、本願寺擁護をするのかを決める戦いなのだとすれば、連淳としては織田家の内訌を静めて反本願寺勢力の来寇を防ぐべく動くでしょう。その結果なのかは判りませんが、両者はその年のうちに平手政秀の仲介で和睦します。
 1534年(天文三年)にある下間頼玄(彼は非連淳派で後に天文一揆敗戦の責任を取らされて暗殺される)の書状や、1536年(天文五年)の証如の日記にある一昨年(1534年・天文三年)に書かれている尾張からの援軍要請を見るに、また1536年(天文五年)に、織田達勝から本願寺に善興寺との争いの仲裁を求められた経緯を考えるに、この織田家の内訌は本願寺との関係を壊さないところで終わったと見ることができるかもしれません。

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2008年8月12日 (火)

川戦:流亡編①プロローグ

 本稿では、前稿でも扱った守山崩れと、それに伴って松平清康の遺児仙千代が大叔父信定によって岡崎城を追われ、流亡の末に復帰した事件を取り扱います。
 また、本編では前稿でぶちあげました『守山崩れが天文一向一揆の余波である』説をさらに敷衍し、日蓮宗寺院に葬られている松平家の重臣二人を一向宗門徒として扱っております。根拠は薄いもののある程度の状況証拠があるのですね。
 ここに書いた人々の子孫の方もおられるとは思いますが、根も葉もない誹謗にならないよう、事実は事実、推測は推測と慎重に書き分けてゆくつもりです。根拠を明示し、今後の検討課題も出しながら論を進めてまいりたいと思います。
 松平家の重臣二人というのは阿部定吉と大久保忠俊です。阿部定吉は息子の弥七郎が主人である松平清康を殺害した責任を痛切に感じ、岡崎を追放された仙千代を連れて流亡の旅にでます。吉良氏や今川氏を頼ってついに復帰を果たし、その後も松平広忠(仙千代)の家老として輔弼の任を務めた人物です。
 もう一人の大久保忠俊は仙千代追放後も仙千代復帰を願い、三度の七枚起請で誓わされたことを破ってまで岡崎城乗っ取りを敢行し、松平広忠(仙千代)の岡崎復帰を実現してのけました。この二人がいなければ松平広忠は松平家の家督を継げなかっただろうと思われるほどの功臣です。
 彼らを挟んで、それをとりまく織田氏、今川氏、吉良氏の動向。そして、同時並行的に進んだ天文一向一揆の状況を交えて書き進めてまいります。

1532年(天文 元年) 六月     一向一揆、奈良侵入。興福寺等を破却。
           この年    織田信秀、織田達勝に叛旗を翻す。その年のうちに和睦。
1535年(天文 四年)十二月   五日 守山崩れ。
                   十二日 天文の井田野合戦
                  二十四日 阿部道音、没
                  二十八日 松平広忠、岡崎脱出。『伊勢』へ落ち延びる。
1536年(天文 五年) 三月  十七日 今川氏輝、彦五郎没。
                        松平広忠、遠江国掛塚に到着。帰還工作開始。
                  二十日 下間頼秀、近江国野村光明寺で暗殺される。
              五月   三日 この日までに栴岳承芳、元服して今川義元と名乗る。
              六月   十日 花倉の乱終息。玄広恵探、のち自刃。
              八月       本願寺と足利義晴が和睦
              九月   十日 松平広忠、三河国室まで進出。
                       吉良持広、仙千代を保護する。
            閏十月   七日 松平広忠、室を撤退して、吉田に後退。
            十一月       本願寺と六角氏が和睦
            この年       西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
1537年(天文 六年) 一月       西条吉良義郷、没。義昭が家督を相続。
              六月   二日 武田信虎の娘、今川義元に嫁ぐ。
                 二十五日 松平広忠、岡崎城復帰。

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2008年8月 1日 (金)

川戦:英雄編⑫本願寺の敗戦処理

 1534年(天文三年)、一揆勢は日本中を敵に回して戦い続けておりました。本願寺教団は蓮淳によって強大な戦闘集団に作りかえられていたとはいえ、敵は日本中におり、きりのない戦いを強いられておりました。そして、根拠地であった山科本願寺は既になく、法主を輔弼すべき立場にある蓮淳も長島願証寺に逼塞している状況です。
 そんな状況下で、法主証如の家宰を務めた下間頼秀の父、頼玄(蓮応)が飛騨国白川郷の照蓮寺に増援依頼の手紙を書いております。あて先は照蓮寺ではありますが、実際は内ヶ島一族の動員を見込んでいたのでしょう。内容を意訳すると以下の感じになります。

下間蓮応(頼玄)書状
お手紙差し上げます。最近、我々の近場にまで敵が現れて、方々に放火しております。石山本願寺は守備堅固とはいえ、用心が必要なので、美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆に上洛あるべしと、証如様が仰せになっておられます。もちろん、あなたの所もです。大変だとは思うのだが、上洛をお待ち申し上げる。拙者も二月からここに伺候しております。お待ちしております。絶対ですよ。
四月四日 蓮応(花押)
照蓮寺御坊様

 飛騨衆と本願寺との関係がうかがえる興味深い史料ですが、本稿で着目するのは『美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆』というくくり方ですね。東海地方はこの単位でくくられております。この方面を統括したのは三河国本宗寺の実円だったと見ていてよいでしょう。
 ところが、この書状が書かれた天文三年にもう一つの動きがありました。本願寺十世法主の証如の日記(天文五年二月十三日条)に以下のようにあります。

 美濃・尾張の坊主衆に加えて伊勢衆の三ヶ国の衆に対し(石山警護の番衆を上洛させるように)、一昨年(去々年)にも使者を送ったことがある。

 天文五年の一昨年というと、1534年(天文三年)になります。頼玄の書状では美濃・尾張・三河の三ヶ国の組み合わせが、美濃・尾張・伊勢の三ヶ国に組み変わっているのですね。これは何を意味しているのか。天文一揆の動向を追うと1535年(天文 四年)三月二十五日に下間頼盛が石山本願寺を退去しております。これに伴い、下間頼玄も側近衆としての立場を喪失したものと思われます。
 これに替わって四月九日に伊勢国長島願証寺に避難していた連淳・実淳親子が、石山本願寺に入山します。証如の日記は連淳復帰に向けて提示した条件であり、実際の組み替えは連淳が復帰する天文四年に入ってからだと考えてよさそうです。蓮淳は本願寺の方針を転換させ、和睦を勧めます。青蓮院門跡をたてて細川晴元方と講和をはかり、下間家嫡流にまかせていた奏者筆頭を頼玄からその弟頼慶にすげ替え、頼玄の子の頼秀と頼盛に責任を負わせて石山から退去させた上で破門しました。そして、蓮淳は三河三ヶ寺の本證寺と勝鬘寺にも書状を送り、伊勢国長島願証寺の指導のもとに、蓮如の遺文に基づいた布教活動(王法に従うこと)に専念するよう求めています。

 本来であれば、三河三ヶ寺の上には一門寺院である本宗寺があり、三ヶ寺は本宗寺の指揮下にあるはずなのですが、連淳は伊勢国長島願証寺の直接指揮下に入るように求めているわけですね。先の下間頼玄の書状が伊勢国を除外して、美濃・尾張・三河の単位で援軍要請していたことと考え合わせれば、天文一揆下において実円は下間頼玄と行動をともにしており、連淳が復帰した本願寺教団において実円の失脚とまでは行かないまでも、権威の失墜があったことがうかがえます。
 松平清康が尾張国守山に出陣したのはその時でした。三河物語の書き方で、清康が遠征すればそこは必ず戦場になっていたのですが、守山出陣だけはなぜか不穏な空気だけが流れていて、敵の実態が見えてこないのですね。織田信秀や信広を攻めたのだという史書もあります。現に、守山崩れの後、『織田勢』は井田野まで攻め寄せております。しかしながら、三河物語が語る尾張国守山の情勢は不気味なほどの静寂を保っております。松平清康と本願寺教団が実円を通して協調関係にあったと仮定するならば、この松平清康の行動は下間頼秀ら交戦派の抵抗であるかのように、和睦派には映ったことでしょう。

 三河物語に描かれる松平清康は愛情も深いが、同時に癇癖のある人物としても描かれています。周囲の制止をものともせず、依怙地に守山に在陣し続ける姿は家臣団にとって災厄を呼ぶものでしかなかったのではないかと思われます。かつて酒井忠尚もしくは石川忠輔が松平信忠を押籠めたのと同じ事を誰かが行わなければなりませんでした。そして、それを行ったのが阿部大蔵定吉の息子、弥七郎でした。
 1535年(天文 四年)十二月五日、松平清康は尾張国守山に出陣して陣没します。その詳細の考察は次稿に譲ります。
 本稿においては、松平清康の征服戦争の背景にあったものが、尾三連合と本願寺教団にあったという仮説を示し、その大きな流れの中においては(仮に天文一揆が幕府を屈服せしめるなどのことが起こりえれば等のイフ)繰り返される勝利の先に天下も見えたのかもしれないと、考察して締めくくります。


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