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2008年8月15日 (金)

川戦:流亡編②織田信秀の叛旗

 1532年(天文元年)六月、石山御坊に入った証如率いる本願寺勢が奈良に侵入。興福寺に狼藉を働いたことによって本願寺教団は全ての周辺諸勢力を敵に回しました。
 その同じ年に尾張国では下四郡を支配する守護代織田大和守達勝に対し、勝幡の織田弾正忠信秀が叛旗を翻しました。1530年(享禄三年)に織田達勝が謎の上洛をし、それに対する反発と解説されています。
 私は織田達勝の上洛に、細川高国に占領された播磨国英賀の救援を策した本願寺(実質的には三河国土呂本宗寺実円)の支援があった可能性を考えております。
 1531年(享禄四年)に本願寺教団が分裂し、加賀国三ヶ寺を中心としたいわゆる小一揆に対し、山科の本願寺は派兵をします。この時、実円は三河兵も動員して小一揆討伐軍として加賀国まで送り届けているわけです。その途上には尾張国があり、織田大和守達勝の支配地がありました。三河国の松平清康にも言える事ですが、織田達勝が何の見返りもなく、本願寺兵の自領通過を認めるとは思えないのです。
 この頃の山科本願寺は実質的に蓮淳が采配を振るっており、1527年(大永七年)の管領細川高国の都落ちを期に泉州堺に上陸した細川晴元に急接近しております。1530年(享禄三年)五月の織田達勝の上洛時点で京を占領していたのは摂津国人柳本賢治で、彼も細川晴元に与しておりました。そしてその翌月、柳本賢治は細川高国と浦上村宗の連合軍と戦うために播磨へ出陣し、陣没しております。そして細川高国派は勝ちに乗じて一時京を占領するほどにまで勢力を伸張させます。実円が織田達勝に英賀救援を依頼したとすれば、その企図は完全に失敗に終わっているわけです。但し、細川高国は1531年(享禄四年)六月に細川晴元の家臣三好元長に敗れ、浦上村宗ともども討ち取られましたから、致命的な痛手とはならなかったものと推察します。
 ところがこの翌年、山科本願寺の証如が石山御坊に入り、細川晴元の依頼により、細川高国派の残党の畠山義尭と、晴元にとって狡兎死した後の走狗であり、法華宗徒でもあった三好元長を門徒衆が討ち取ります。それだけではなく、彼らは暴徒化し堺幕府の足利義維を逃亡せしめ、奈良を襲うなどして暴走するに至ります。
 細川高国を討ち平らげた三好元長を本願寺を使って倒すほどに、細川晴元は酷薄です。細川晴元は本願寺の討伐を命令しました。大津の顕証寺、山科の本願寺は幕府軍と法華衆の手で焼かれ、蓮淳は伊勢長島願証寺に、証如は石山御坊に逃れます。本願寺勢力は公共の敵の烙印を押されてしまったわけです。

 1532年(天文元年)に織田弾正忠信秀が主家であり、尾張国守護代である織田大和守達勝に叛旗を翻したのもその文脈でみることができると思います。但し、その構図は明確ではありません。機を見るに敏な織田信秀が中央の動向をいち早く察知して、本願寺に与同する織田達勝に戦いを挑んだのか、本願寺討伐の幕命を受けた織田達勝が路線変更を図ろうとしたのに対して織田信秀が反発したのか、いずれのケースも想定することが出来るでしょう。

 織田氏は桓武平氏を祖とするといわれているものの、主家である織田達勝は藤原氏を名乗っております。つまり、その出自の詳細はわかっていないのですね。織田弾正忠家は信秀の祖父の良信以前は良質の史料でさかのぼることはできません。弾正忠家は良信、信定、信秀、信長と代を重ねるわけですが、良信は尾張国海西郡津島に住しておりました。津島は木曽川を挟んで対岸が伊勢国長島だったりします。永正年間、織田良信(もしくは信定)は津島から陸に入った海東郡勝幡に拠点を移しますが、津島にはそのまま影響力をもっていたようです。この勝幡築城と同時期に長島には連淳が願証寺を建てています。それ以後、織田弾正忠家は力をつけてゆきます。織田弾正忠家の勢力拡大は木曽川対岸の伊勢国長島願証寺の寺内町の発展と機を一にしているようにもみえます。

 織田信秀と織田達勝が争った1532年(天文元年)、伊勢国長島には連淳が戻っておりました。幕府と法華衆に山科本願寺を焼かれ、命からがら水砦寺院である願証寺に入った連淳がすべきことは安全の確保です。信秀と達勝の争いが、織田家が勝ち馬である幕府について本願寺勢力を一掃するか、本願寺擁護をするのかを決める戦いなのだとすれば、連淳としては織田家の内訌を静めて反本願寺勢力の来寇を防ぐべく動くでしょう。その結果なのかは判りませんが、両者はその年のうちに平手政秀の仲介で和睦します。
 1534年(天文三年)にある下間頼玄(彼は非連淳派で後に天文一揆敗戦の責任を取らされて暗殺される)の書状や、1536年(天文五年)の証如の日記にある一昨年(1534年・天文三年)に書かれている尾張からの援軍要請を見るに、また1536年(天文五年)に、織田達勝から本願寺に善興寺との争いの仲裁を求められた経緯を考えるに、この織田家の内訌は本願寺との関係を壊さないところで終わったと見ることができるかもしれません。

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