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2008年8月12日 (火)

川戦:流亡編①プロローグ

 本稿では、前稿でも扱った守山崩れと、それに伴って松平清康の遺児仙千代が大叔父信定によって岡崎城を追われ、流亡の末に復帰した事件を取り扱います。
 また、本編では前稿でぶちあげました『守山崩れが天文一向一揆の余波である』説をさらに敷衍し、日蓮宗寺院に葬られている松平家の重臣二人を一向宗門徒として扱っております。根拠は薄いもののある程度の状況証拠があるのですね。
 ここに書いた人々の子孫の方もおられるとは思いますが、根も葉もない誹謗にならないよう、事実は事実、推測は推測と慎重に書き分けてゆくつもりです。根拠を明示し、今後の検討課題も出しながら論を進めてまいりたいと思います。
 松平家の重臣二人というのは阿部定吉と大久保忠俊です。阿部定吉は息子の弥七郎が主人である松平清康を殺害した責任を痛切に感じ、岡崎を追放された仙千代を連れて流亡の旅にでます。吉良氏や今川氏を頼ってついに復帰を果たし、その後も松平広忠(仙千代)の家老として輔弼の任を務めた人物です。
 もう一人の大久保忠俊は仙千代追放後も仙千代復帰を願い、三度の七枚起請で誓わされたことを破ってまで岡崎城乗っ取りを敢行し、松平広忠(仙千代)の岡崎復帰を実現してのけました。この二人がいなければ松平広忠は松平家の家督を継げなかっただろうと思われるほどの功臣です。
 彼らを挟んで、それをとりまく織田氏、今川氏、吉良氏の動向。そして、同時並行的に進んだ天文一向一揆の状況を交えて書き進めてまいります。

1532年(天文 元年) 六月     一向一揆、奈良侵入。興福寺等を破却。
           この年    織田信秀、織田達勝に叛旗を翻す。その年のうちに和睦。
1535年(天文 四年)十二月   五日 守山崩れ。
                   十二日 天文の井田野合戦
                  二十四日 阿部道音、没
                  二十八日 松平広忠、岡崎脱出。『伊勢』へ落ち延びる。
1536年(天文 五年) 三月  十七日 今川氏輝、彦五郎没。
                        松平広忠、遠江国掛塚に到着。帰還工作開始。
                  二十日 下間頼秀、近江国野村光明寺で暗殺される。
              五月   三日 この日までに栴岳承芳、元服して今川義元と名乗る。
              六月   十日 花倉の乱終息。玄広恵探、のち自刃。
              八月       本願寺と足利義晴が和睦
              九月   十日 松平広忠、三河国室まで進出。
                       吉良持広、仙千代を保護する。
            閏十月   七日 松平広忠、室を撤退して、吉田に後退。
            十一月       本願寺と六角氏が和睦
            この年       西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
1537年(天文 六年) 一月       西条吉良義郷、没。義昭が家督を相続。
              六月   二日 武田信虎の娘、今川義元に嫁ぐ。
                 二十五日 松平広忠、岡崎城復帰。

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