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2008年8月 1日 (金)

川戦:英雄編⑫本願寺の敗戦処理

 1534年(天文三年)、一揆勢は日本中を敵に回して戦い続けておりました。本願寺教団は蓮淳によって強大な戦闘集団に作りかえられていたとはいえ、敵は日本中におり、きりのない戦いを強いられておりました。そして、根拠地であった山科本願寺は既になく、法主を輔弼すべき立場にある蓮淳も長島願証寺に逼塞している状況です。
 そんな状況下で、法主証如の家宰を務めた下間頼秀の父、頼玄(蓮応)が飛騨国白川郷の照蓮寺に増援依頼の手紙を書いております。あて先は照蓮寺ではありますが、実際は内ヶ島一族の動員を見込んでいたのでしょう。内容を意訳すると以下の感じになります。

下間蓮応(頼玄)書状
お手紙差し上げます。最近、我々の近場にまで敵が現れて、方々に放火しております。石山本願寺は守備堅固とはいえ、用心が必要なので、美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆に上洛あるべしと、証如様が仰せになっておられます。もちろん、あなたの所もです。大変だとは思うのだが、上洛をお待ち申し上げる。拙者も二月からここに伺候しております。お待ちしております。絶対ですよ。
四月四日 蓮応(花押)
照蓮寺御坊様

 飛騨衆と本願寺との関係がうかがえる興味深い史料ですが、本稿で着目するのは『美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆』というくくり方ですね。東海地方はこの単位でくくられております。この方面を統括したのは三河国本宗寺の実円だったと見ていてよいでしょう。
 ところが、この書状が書かれた天文三年にもう一つの動きがありました。本願寺十世法主の証如の日記(天文五年二月十三日条)に以下のようにあります。

 美濃・尾張の坊主衆に加えて伊勢衆の三ヶ国の衆に対し(石山警護の番衆を上洛させるように)、一昨年(去々年)にも使者を送ったことがある。

 天文五年の一昨年というと、1534年(天文三年)になります。頼玄の書状では美濃・尾張・三河の三ヶ国の組み合わせが、美濃・尾張・伊勢の三ヶ国に組み変わっているのですね。これは何を意味しているのか。天文一揆の動向を追うと1535年(天文 四年)三月二十五日に下間頼盛が石山本願寺を退去しております。これに伴い、下間頼玄も側近衆としての立場を喪失したものと思われます。
 これに替わって四月九日に伊勢国長島願証寺に避難していた蓮淳・実淳親子が、石山本願寺に入山します。証如の日記は蓮淳復帰に向けて提示した条件であり、実際の組み替えは蓮淳が復帰する天文四年に入ってからだと考えてよさそうです。蓮淳は本願寺の方針を転換させ、和睦を勧めます。青蓮院門跡をたてて細川晴元方と講和をはかり、下間家嫡流にまかせていた奏者筆頭を頼玄からその弟頼慶にすげ替え、頼玄の子の頼秀と頼盛に責任を負わせて石山から退去させた上で破門しました。そして、蓮淳は三河三ヶ寺の本證寺と勝鬘寺にも書状を送り、伊勢国長島願証寺の指導のもとに、蓮如の遺文に基づいた布教活動(王法に従うこと)に専念するよう求めています。

 本来であれば、三河三ヶ寺の上には一門寺院である本宗寺があり、三ヶ寺は本宗寺の指揮下にあるはずなのですが、蓮淳は伊勢国長島願証寺の直接指揮下に入るように求めているわけですね。先の下間頼玄の書状が伊勢国を除外して、美濃・尾張・三河の単位で援軍要請していたことと考え合わせれば、天文一揆下において実円は下間頼玄と行動をともにしており、蓮淳が復帰した本願寺教団において実円の失脚とまでは行かないまでも、権威の失墜があったことがうかがえます。
 松平清康が尾張国守山に出陣したのはその時でした。三河物語の書き方で、清康が遠征すればそこは必ず戦場になっていたのですが、守山出陣だけはなぜか不穏な空気だけが流れていて、敵の実態が見えてこないのですね。織田信秀や信広を攻めたのだという史書もあります。現に、守山崩れの後、『織田勢』は井田野まで攻め寄せております。しかしながら、三河物語が語る尾張国守山の情勢は不気味なほどの静寂を保っております。松平清康と本願寺教団が実円を通して協調関係にあったと仮定するならば、この松平清康の行動は下間頼秀ら交戦派の抵抗であるかのように、和睦派には映ったことでしょう。

 三河物語に描かれる松平清康は愛情も深いが、同時に癇癖のある人物としても描かれています。周囲の制止をものともせず、依怙地に守山に在陣し続ける姿は家臣団にとって災厄を呼ぶものでしかなかったのではないかと思われます。かつて酒井忠尚もしくは石川忠輔が松平信忠を押籠めたのと同じ事を誰かが行わなければなりませんでした。そして、それを行ったのが阿部大蔵定吉の息子、弥七郎でした。
 1535年(天文 四年)十二月五日、松平清康は尾張国守山に出陣して陣没します。その詳細の考察は次稿に譲ります。
 本稿においては、松平清康の征服戦争の背景にあったものが、尾三連合と本願寺教団にあったという仮説を示し、その大きな流れの中においては(仮に天文一揆が幕府を屈服せしめるなどのことが起こりえれば等のイフ)繰り返される勝利の先に天下も見えたのかもしれないと、考察して締めくくります。

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