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2008年8月21日 (木)

川戦:流亡編③六名阿部一家

 三河国額田郡小針村(現在の愛知県岡崎市小針町)に江戸期に大名となった阿部氏の館があったといわれています。ここに阿部氏十一家の同属集団が村を治めておりました。小針に城を建てた阿部忠正の家は幕末の老中阿部正弘にまで繋がっております。明応年間には碧海郡上野(現在の愛知県豊田市上郷)に住する阿部満五郎が井田野で松平親忠と戦っているように、近隣に分家をもったようです。

 今回取り上げるのは、その阿部氏の一族のうち、矢作川対岸の六名村(むつなむら。岡崎市六名町)に移った一家についてです。その者の名前は阿部道音。道音は法号であり、実名は不詳です。彼は松平信忠に仕えたと寛永重修諸家譜はいいます。彼の息子は大蔵定吉と名乗り、松平清康と松平広忠に重く用いられました。

 阿部道音―+――定吉――+――弥七郎
        |         |
        |         +――清秀(井上清宗養子)
        |
        +――定次――+――次重
                  |
                  +==忠政(大久保忠次次男)
                  |   ∥
                  |   +――重真――…
                  |   ∥
                  +――女(忠政室)

 上記は阿部道音一家の略系図です。ここでは彼らの宗旨について考察します。阿部道音とその子定吉、定次、そして定次の子の次重は六名村の南にあった和田村の妙国寺に葬られています。妙国寺は日蓮宗を宗旨としており、和田村を根拠地とする大久保一族が大檀那となっておりました。故に六名の阿部家の宗旨もまた日蓮宗であると考えるのは自然なことです。
 但し、この六名の阿部家は定吉と定次の子の代で実質的に一度絶家しております。定次の養子となって六名阿部の名跡を継いだのは大久保氏出身の忠政でした。阿部家を継いだ忠政は実家である大久保の支族として行動しております。そして、大久保家は日蓮宗を宗旨とする一族です。これらの事情を加味しながら、阿部氏の事情を考えるなら、少し違った方向性が見えてくるのではないか。その方向性を明らかにしてゆくのが本稿の趣旨です。

 阿部大蔵定吉の長男、弥七郎は『誤解』から主君松平清康を斬り殺し、植村新六郎に斬られました。定吉は息子の不始末を詫び、責任を取って自害しようとしますがこれを周囲から押しとどめられます。それから十日もたたずして三河に『織田信秀』が攻め込みます。天文の井田野合戦です。松平軍は力戦して織田軍を退けたことになっていますが、戦後に松平仙千代(広忠)が居城の岡崎から放逐されています。安城家に替わって松平一門を総督することになったのは仙千代の大叔父にあたる桜井松平信定でした。ここで言う織田信秀や織田軍は実質的には桜井松平を中心とした勢力だったと思われます。
 これに前後した時期に阿部道音が亡くなっているのですね。寿命や病を得ていた可能性もなくはないのですが、タイミングが良すぎます。天文の井田野合戦の混乱の中で戦傷死したのかもしれません。

 阿部大蔵定吉は主君の嫡男、仙千代=広忠を守って帰城の便宜を図った功により、許されましたが、主殺しの父親の悪評を拭えず、結局1549年(天文十八年)に死んだ折、定吉の血脈は絶えました。ちなみに同じ年に松平広忠は亡くなっております。定吉には弥七郎の他に、もう一人息子がおりましたが、この息子は別家に養子に行っており阿部の姓を名乗ってはおりません。
 阿部定吉には定次という弟がおりました。仙千代=広忠の岡崎脱出行と帰城に至る経緯を阿部夢物語という書物にまとめたのは彼であると伝えられております。彼には次重という嫡男がおりましたが、安祥の城をめぐる織田家との戦いの最中、1547年(天文十六年)に戦死します。彼には子息がおらず、やむなく阿部定次は六名の隣村である和田村の大久保家から養子を迎え、自らの娘を娶らせました。この大久保家の養子が阿部忠政です。但し、阿部氏を名乗ってはいるものの、年譜を見る限り彼の行動は大久保の支族としての行動に徹しております。1582年(天正十年)に養父である阿部定次が没した折、阿部家の祖父、伯父が眠る和田妙国寺に葬りますが、自らは大久保一族の墓所である長福寺に葬られます。
 つまり、六名阿部の血脈は1582年(天正十年)の阿部定次の死によって事実上絶えたということですね。寛政重修諸家譜では、阿部定次について広忠の岡崎復帰までの記録は結構詳細にかかれているのですが、それ以後の記録は度々戦功を表したと記されてはいるものの具体的な記述は全くと言っていいほどありません。同じ時代を生きた養子の忠政についての記述の細かさに比べると不自然極まりないほど不詳です。

 一方、小針に館を構えた阿部忠正の墓が岡崎市の願照寺にあるのですが、ここは本願寺系の寺院なのですね。してみると、阿部忠正自身、少し広げて小針の阿部氏は門徒であったと見てよいでしょう。
 後に小針の阿部氏は江戸時代に大名家になったりしていますが、その宗旨は松平家と同じ浄土宗です。1563年(永禄六年)、松平家康は三河一向一揆を鎮圧します。この戦いにおいて、家康は自分の味方についた家臣や、戦後に帰服した家臣達の宗旨を浄土真宗本願寺教団から浄土宗に改宗させました。小針の阿部氏もこの時に改宗したようです。
 1549年(天文十八年)に野寺本証寺の住持を誰にするかで争論があったそうです。その折、本証寺の大檀那である石川清兼(忠成)が本証寺門徒を集めてあい松という僧を住持として推す旨を記した連判状を作りました。その連判状の署名の中にも阿部氏(どこの系列かは調べが進んでいないのでわかりません)の名前があるそうです。
 以上のことを総合し、六名の阿部家の本来の宗旨は実は本願寺系の浄土真宗だった、というセンもありうるのではないかと考えています。

1529年(享禄 二年)            大久保(阿部)忠政、誕生。
1535年(天文 四年)十二月二十四日  阿部道音、没
1547年(天文十六年)           定次の長子次重安祥城攻防戦で戦死。
                        定次、大久保忠政(18)を養子にする。
1549年(天文十八年)十二月二十八日 阿部定吉、没
1582年(天正十 年)            阿部定次、没
1607年(慶長十二年)           阿部忠政、没。享年78。

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