« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月25日 (木)

川戦:流亡編⑧戦国時代の今川氏

 今回は今まで断片的に触れてきた今川家についてのおさらいから、今川義元が流亡中の松平仙千代と出会う所までを一気通貫で迫ってまいりたいと思います。

 今川家はもともと足利家の支族であり駿河国の守護をしておりました。一時遠江国守護も兼務していたこともあったのですが、その遠江国守護の座は斯波家に取られてしまいました。斯波家は細川・畠山と並んで足利幕府の管領を出す名家です。今川家とて、吉良家に次いで足利将軍家に近い血統を持つ名族です。今川一族は斯波に奪われた遠江奪還に意欲を燃やすことになります。それでも将軍家の力が強い間はおいそれと手は出せませんでした。山名や大内、鎌倉公方家など幕府と対立して滅ぼされる有力者は後をたちませんでしたから。
 それでも義忠の代になって大きなチャンスが訪れます。1467年(応仁元年)に起こった応仁・文明の乱です。細川勝元と山名宗全はともに今川義忠に秋波を送りましたが、義忠は東軍に与することにします。というのは遠江国守護の斯波義廉が山名の西軍陣営にいたからです。
 しかし、この今川義忠は大変不器用な男だったようです。西軍方に与した美濃国の斉藤妙椿が東軍方の三河国の細川成之を攻めたため、これを援けに三河国に出兵するのですが、そこでともに助けに来た尾張守護の斯波義良、三河の西条吉良義真らの組下で東軍方についていた遠江国の巨海氏・狩野氏と対立してこれを滅ぼしてしまいます。その結果、東軍方の尾張斯波と三河細川氏・西条吉良氏を敵に回してしまうことになります。さらには、遠江国人との戦いのさなかに今川義忠は流れ矢に当たってあえなく死んでしまいます。私が考える尾三連合の祖形はここにあらわれております。

 今川義忠の突然の死によって今川家は内紛を起こします。義忠の嫡男龍王丸がまだ若年だったため、義忠の従兄弟の小鹿範満が家督を預かったのですが、龍王丸が成人しても家督を返しませんでした。このゴタゴタを鎮めたのが、伊勢新九郎。号して宗瑞、後に北条早雲と呼ばれる男です。彼は今川義忠の妻の弟です。昔は素浪人と紹介されていたそうですが、政所執事を務めた伊勢家の一族にして幕臣であったことがわかっております。
 これは放っておくとどこに行ってしまうのか知れないのを見かねた細川政元が伊勢貞親に頼んで伊勢宗瑞を派遣したのが真相のようです。龍王丸は元服して氏親と名乗り、伊勢宗瑞は彼に仕えることになりました。今川氏親の庇護を得た伊勢宗瑞は軍師としての手腕を西に東に発揮します。
 六代将軍足利義教の頃、永享の乱で幕府は鎌倉の関東公方を滅ぼしましたが、その残党が滅ぼされた関東公方の遺児を下総国古河に建てて復興しました。これを古河公方といいます。これに対抗して八代将軍足利義政が自らの弟の政知を新たに関東公方として建てました。しかし、落下傘で落ちてきたような地元と縁の薄い将軍の弟は関東の諸侯に歓迎されません。もともと鎌倉に入る予定だったのが、それができなくなったため、伊豆国堀越に居を構えました。これを堀越公方と言います。
 結果として堀越公方は一代限りの短命に終わりましたが、足利政知の長男は十一代将軍足利義澄となりそれなりに報いられました。しかし、堀越公方家は内紛が起きます。跡継ぎ予定だった足利潤童子がその弟の茶々丸に殺害されてしまったのです。
 細川政元はこれを赦さず、今川氏親にこれの追討を命じます。氏親は伊勢宗瑞を差し向け、足利茶々丸を討ち取り、伊豆に根拠地をもつようになります。この後、氏親は伊勢宗瑞に三河を攻めさせます。その過程において1508年(永正五年)に流れ公方足利義材(義植)の上洛復帰のどさくさに紛れて斯波義達から遠江守護の座を分捕ることに成功します。さらに西上する伊勢宗瑞をを迎え撃ったのが松平長親でした。その戦いの直後、伊勢宗瑞は西上を止めます。そして、その後は東にターゲットを向けるようになりました。それから間もなく宗瑞は死に、彼の息子が後北条家を名乗って今川家の部将から独立を図ります。そして瞬く間に関八州を勢力下におさめるのです。
 ただし、それは東方からの脅威は全部北条家が引き受けてくれることを意味していました。だから、西方からの攻撃を凌ぐことができたのです。西方からの攻撃と言うのは斯波義達と大河内貞綱率いる尾張からの遠江奪還運動でした。今川氏親はこれを完膚なきまでに叩き潰して、斯波義達を坊主にして尾張に送り返します。それとともに斯波家は没落の道をたどることになりました。
 今川氏親の晩年は中風に罹り、身体が不自由だったといいます。それを援けたのが妻の大方殿(氏親の死後出家して寿桂尼)でした。
 1526年(大永六年)今川氏親が没します。享年五十三といいますが、後を継いだ氏輝はわずか十四歳です。してみると三十九歳の時の子が嫡子ということになり、随分遅く生まれた子ということになります。義元はこの時七歳。氏親が中風にかかったのは死の十年前ということだそうですから、義元は病床の氏親が作った子ということになります。
 それはともかく、寿桂尼はこの幼君氏輝の補佐をし、自ら今川家当主の名代として印判状を発給しています。事実上の女戦国大名といっていいでしょう。夫である氏親の死の直前に作られた分国法今川仮名目録の制定にもたずさわったそうです。彼女は中御門家出身の公家の娘で今川家に京風文化をもたらしています。時代劇に出てくる桶狭間の今川義元が白粉・眉墨・お歯黒べったりなアレな格好なのも彼女の影響といえるかもしれません。彼女の元には山科言継、鷲尾隆康などの公卿や連歌師宗長、宗牧ら京文化の担い手達が集まり、彼らの残した日記の類はこの時期の東海地方の歴史を探る上での重要史料となっております。
 氏輝も成人し、今川家当主としての器量も磨き、甲斐国の武田信虎と戦うなど戦国大名としての実績を積もうとしたところで急死します。弟で同じ今川館に起居していた彦五郎も同じ日に死ぬというオマケ付きです。時に1537年(天文五年)、松平清康が守山で陣没した翌年にあたります。氏輝の生涯はほぼ松平清康の生きた時代に被り、そのいきなりな死まで似通うという所はとても興味深いのですが、残念ながら川の戦国史のコンセプトの中ではその謎を追う暇はありません。
 今川氏親には六人の男子がおりました。氏輝と彦五郎は急死、末弟の氏豊は尾張国那古屋におります。これは氏豊が那古屋に行く以前に那古屋には那古屋今川家という一族がおり、氏豊はそこに養子として入ったらしいです。よって、この時点で氏豊は家督継承権を失っております。残った三子の内、第四子の象耳泉奘はこの時どうやら畿内にいたらしい。律宗を修め、後に唐招提寺の住持になるという高僧の道を歩みました。これも選択に一つとしては有りなのでしょう。残ったのが第三子の玄広恵探(げんこうえたん)と第五子の栴岳承芳(せんがくしょうほう)の二人です。このうち、栴岳承芳が寿桂尼の息子であり、寿桂尼は足利義晴と交渉して栴岳承芳の還俗名に足利将軍家の『義』の字を貰い受けます。すなわち、栴岳承芳は以後、今川義元と名乗ることとなります。これは事実上今川家家督は今川義元が継ぐことを足利将軍も認めたということを意味します。
 対する玄広恵探は今川家の重臣福嶋(くしま)氏の庇護を受けておりました。福嶋氏は寿桂尼の独断先行を不服とし、玄広恵探が栴岳承芳よりも年長であるという言い分にたって、玄広恵探を擁立します。寿桂尼は福嶋越前守の邸宅に赴き、これを説得しようとしますが、失敗。玄広恵探派は久能山で挙兵しました。これを花倉の乱といいます。これは玄広恵探が花倉を根拠地としてたため、花倉殿と呼ばれたことに由来します。
 これを叩き潰したのは今川義元派の岡部親綱と太原崇孚(たいげんすうふ)でした。太原崇孚はこれより後、今川義元の軍師として大活躍することとなります。考えてみれば今川家は幼年の当主が危機的状況に直面するケースがままありますが、そのたびごとに有能な人材が現れてこれを支えます。氏親は伊勢宗瑞、氏輝は寿桂尼、義元は太原崇孚といった具合です。氏真は寿桂尼がこれを支えようとしましたが、上手くいきませんでした。結果として家を喪うハメになったのは桶狭間における今川家の人的損耗がいかに大きかったかを物語っているようです。

 氏輝までの今川氏は伊勢宗瑞が興した後北条家と懇意にしており、関東公方の断末魔に伴うの騒乱は北条家が引き受けることによって、今川家は北方、西方にだけ目をむければ足りました。西方も今川家の勢力圏は遠州までというところで落ち着き、北方で勢力を急拡大している武田信虎に戦力を集中できたのです。この花倉の乱の過程で寿桂尼、太原崇孚らの義元派のブレーンは武田信虎と和睦をし、武田信虎の娘を今川義元の妻としました。これが原因で、後北条家と今川家は手切れとなり、駿河・相模両国国境の河東地域での戦いに繋がります。これを河東の乱と言います。

 東条吉良持広の援助で牟呂まで戻った松平仙千代が、松平信定の攻撃に絶えかねて吉田まで退き、今川義元に助力を乞うたのは、今川義元が花倉の乱をおさめ、武田信虎の娘との婚儀を控えた頃でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月18日 (木)

川戦:流亡編⑦吉良さんちの家庭の事情Ⅱ

 川の戦国史は『尾三連合』という仮定に基づいて、史実解釈をしております。即ち、永正年間に斯波(織田)、西条吉良家が連合を組んで、遠江奪還戦を仕組んだと。それに松平家も加担したという仮説です。

(東条)持清―+―持広―+―吉次(西尾氏)
         |     |
         +―義広 +=義安
           (荒川)

(西条)義信―○―義堯―+――義郷
                |
                +――義安(東条吉良・統合吉良二代)―……―吉良義央
                |
                +――義昭(統合吉良初代)

 ここの所、実は西条吉良義信と足利義材は今川に通じているという解釈が一般的なんですね。1508年(永正五年)に今川氏親は確かに足利義材(義植)から遠江守護職をもらっています。それは斯波家から遠江守護職を奪ったことと同義です。ゆえに今川家は足利義材派と比定されます。そして、記録の上から西条吉良義信と足利義材は懇意にしていたことは確かです。敵対関係を図にするとこんな感じになります。

 足利義材、西条吉良義信・義堯、今川氏親
        ×
 東条吉良持広、斯波義達、大河内貞綱

 しかし、だからと言って足利義材や西条吉良義信が親今川であったかといえば、そうとも言い切れない。仮に西条吉良が親今川であった場合、永正年間に遠江国引馬(浜松)奪回戦を仕掛けた大河内一族の主筋は東条吉良家となります。今川氏親は斯波義達と一緒にこれを完膚なきまでに粉砕し、遠江国に永正十五年と大永四年に検地を実施し、旧領主色を一掃しています。そんなことをする今川と遠江に領地を持っていた東条吉良氏とが親密になれるとは思えないのです。むしろ遠江の領主は西条吉良と考えた方が実像に近づくのではないか。そんな風に思っております。

 守山崩れがあった当時、1535年(天文四年)の東条吉良家当主は持広でした。天文井田野合戦の結果、伊勢に落ちた松平仙千代は、翌年三月に遠江国掛塚に向かいます。そこは東条吉良家の旧領であり、流亡する松平仙千代を東条吉良持広は保護を与えたといいます。でも、敵対して敵に分捕られた土地に保護を求めてやってきた仙千代を送り込むというのは流石にちょっと考えにくい。確かにその土地のことは詳しいでしょうが、敵対していたのですから、今川の警戒を受けるはずです。松平仙千代という西三河の政治的に大きなファクターを与えるものであればなおさらでしょう。
 その後も吉良持広は松平広忠を牟呂(むろ・茂呂、室ともいう)という三河国内の自らの勢力範囲に匿った上で、駿河に送り込んでおります。遠江で敵対していたのに、ここで今川家と連携がとれているのは矛盾しています。そこを説明するために、今川家が後になって足利義材――義維派から義晴派に鞍替えしたとか、織田家が足利義晴派から足利義材派に転じたという解釈が必要になるのですね。

 ゆえに私は永正年間の遠江戦での吉良家の主体が西条家であり、今川家と敵対していたと考ます。敵の敵は味方といいます。東条吉良家が今川家とのパイプを持ち、旧領に松平家の者を匿ったとしても、今川氏は大目にみるでしょうし、協力もできると思います。松平清康は東条吉良系の城であった小島城
を1529年(享禄二年)に攻めました。しかし、松平家が信定に乗っ取られ、流亡の仙千代が懐に入り込んだなら、東条吉良持広は奇貨としてこれを置くでしょう。

 足利義材(故人)、西条吉良義信(⇒義堯)、斯波義達(⇒織田達勝)、
 大河内貞綱(故人)、松平信定
        ×
 東条吉良持広、今川氏親(⇒今川義元)、松平仙千代

 但し、松平仙千代を庇った代償を東条吉良氏は払わねばならなくなりました。仙千代を匿った牟呂の地ですが、ここは富永氏の居館のある場所です。この時点の富永氏はどうやら東条吉良の方についていたようです。富永氏は松平信忠の妹、仙千代にとっては大叔母が輿入れしており松平家とも近しい立場にあります。但し、信忠の妹ということは信忠の弟である信定にとっても妹にあたりますので、これだけで仙千代の味方をするという理由としては弱い。
 三河物語によると、今川の加勢を得てとありますので、ここに来る前に立ち寄った吉田あたりでの工作が功を奏し、野田菅沼定則を味方につけたのではないかと考えております。彼は松平清康の宇利攻めの結果、宇利城を得ておりますので、松平家には恩義があります。その遺児が今川家の支援を受けて復帰運動をしていると聞けば、今川氏の報復を防ぎたいと考えていた彼としては願ったりの展開だったのではないかと思われます。
 しかし、東条吉良家の松平仙千代保護は松平信定をはじめとする尾三連合にとっては、看過できないものであったようで、兵が差し向けられました。この攻撃に仙千代は耐えられず、吉田に落ち延びます。その後、今川義元と会見するなどして復帰運動を拡大し、岡崎の家臣を寝返らせて復帰をはたします。東条吉良持広は仙千代の岡崎復帰後も生き残り、1539年(天文八年)に亡くなります。これは菩提寺に位牌が残っているのでほぼ間違いはなかろうところだと思われます。ですが、松平記や家忠日記増補追加などの史料においては、仙千代の流亡忠になくなっていることになっているのですね。仙千代と阿部定吉が牟呂退去後に今川義元と会見するのですが、彼らを保護する理由としてあげているのが、持広の遺言ということになっています。彼には長子がいるにもかかわらず、西条吉良家の義安を養子に迎え入れることを強いられます。そして実子を織田家に人質に差し出すこととなりました。
 どうやら吉良持広は仙千代を匿ったことにより、西条吉良家や桜井松平信定の攻撃目標とされてしまったようなのです。

1536年(天文 五年)西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
             持広、仙千代を保護する。
1537年(天文 六年)松平広忠、岡崎城復帰。
             西条吉良義郷、今川方に破れ、戦死。義昭が家督を相続。
1539年(天文 八年)東条吉良持広、死去。義安が家督を相続。吉次、織田家の人質になる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月11日 (木)

川戦:流亡編⑥流亡のはじまり

 松平仙千代の岡崎出奔の時期ですが、興味深いことに史料によって年代や仙千代の年齢に異同があります。その内容は以下の通り。

((阿部夢物語))
1535年(天文 四年)十二月  五日 松平清康、「御腹を召」す。
                       松平仙千代、伊勢へ船で向かう。
                       松平仙千代、阿部定吉と申しあわせ、遠州への下向を決める。
1536年(天文 五年)   三月 十七日 阿部定次、遠州掛塚で仙千代と合流。
                       その年の夏、仙千代は掛塚・鍛冶に逗留。
               八月  五日 遠州を出立。
               九月  十日 今橋(吉田)、世喜、形原を経て牟呂に到着。
             閏 十月  七日 牟呂を自焼き今橋(吉田)へ退く。
                        阿部定吉、駿河へ赴く。
1537年(天文 六年)  六月  一日 岡崎城においてクーデター勃発。
                 二十五日 松平仙千代、駿河から岡崎へ帰還。

 阿部夢物語は阿部定吉の弟、阿部定次の著作とされていますが、甥の弥七郎が切り殺した部分を「御腹を召す」と記している所が興味深いです。仙千代の年齢が書かれていないのですが、1535年(天文四年)から1537年(天文六年)の出来事としています。
 これについては、「信光明寺文書」の天文六年十月二十三日付判物写しで松平千松丸(仙千代)が岡崎帰還に功のあった八国甚六郎、大窪新八郎、成瀬又太郎、大原左近右衛門、林藤助に対し十五貫文の加増を約した文書が遺っている所をみると、流亡の期間はこの間でほぼ間違いのないところだろうと思われます。但し、仙千代の年齢は記されておりませんが、松平仙千代(広忠)の生年は1526年(大永六年)とされておりますので、数え年齢で十歳から十ニ歳までのことと解釈できます。本稿では同時代史料と目されるこの判物を根拠に阿部夢物語の記述を採用します。

((三河物語))
 ところが、三河物語においては仙千代の伊勢行きを十三歳の頃としています。守山崩れの時点で既に仙千代は十三歳としておいるのですね。もし、この記述が正しいとすれば、松平仙千代は1523年(大永三年)産まれということになります。この年父親である松平清康は十三歳であり、祖父信忠が押籠めを食らって家督を継ぎ、岡崎松平親貞と戦いをはじめた頃に当たります。清康の最初の結婚は一番早くてこの翌年、1524年(大永四年)に信貞の娘との婚姻でした。仙千代の母は清康が信貞の娘を離縁したあと、天文五年に嫁いでおります。なのでこの時点で清康は未婚ですので、これは勘違いであったろうと思われます。
 とは言え、三河物語の記述に従うと、十四歳まで伊勢に逗留後、十五歳の春に駿河に渡ります。その年の秋に駿河の加勢を得て牟呂に入ります。そして、その翌々年の十七歳の春に岡崎への帰還を果たすことになっております。
 阿部夢物語との異同は、清康の死後すぐに元服していること、十四歳まで伊勢にいたこと、今川氏の加勢を得ていたことでしょうか。仙千代の生年と及び上記年表に当てはめますと、1535年(天文四年)から1539年(天文八年)のことになります。

1535年(天文 四年)広忠十三歳 松平清康に先立たれ、元服。伊勢に落ちる。
1536年(天文 五年)広忠十四歳 伊勢に逗留
1537年(天文 六年)広忠十五歳 春に駿河に下る。
                秋、三河国牟呂に移る。
1539年(天文 八年)広忠十七歳 春、岡崎帰還。

((松平記))
 松平記は阿部夢物語と三河物語の双方の記述を取り入れているせいか、三河物語以上に記述に矛盾が生じております。
 守山崩れは1535年(天文 四年)で、この時仙千代(広忠)は十歳の筈なのですが、1537年(天文 六年)広忠十七歳の六月二十五日に岡崎帰還しております。事件の発生期間は1535年(天文四年)-1537年(天文六年)の三年の出来事ですが、その間に仙千代(広忠)は七つも歳をとっているのですね。また、今川義元と松平仙千代の会見の時点において東条吉良持広が既に死んでいることになっているのですね。とは言え、江戸初期の重要史料の一つであることにはかわりありませんが、この記録の混乱の原因は何なのか、見当もつかない状況です。

((武徳大成記))
 武徳大成記も江戸前期、1686年(貞享三年)に作られた歴史書です。編纂者は阿部正武で、小針村の阿部忠正の子孫です。なので阿部定次の阿部夢物語に準拠して、1535-1537年の三年の出来事で、広忠が数え年齢で十歳から十ニ歳までの出来事と記しています。阿部夢物語が六名阿部家視点で書かれているのに対し、吉良家や今川家、桜井松平家と大久保家の動向も記してトータルな視点で書かれています。

 松平仙千代の岡崎帰還を十七歳と三河物語に書かれた影響は、松平記だけではなく、御年譜附尾等の史料にも影響を与え、松平記の矛盾を広忠の年齢で埋めようとして、1538年(天文七年)から1541年(天文十年)の出来事になったりしております。三河物語が言う十三歳から十七歳を素直に適用したものなのでしょう。清康の婚姻時期と仙千代の年齢との矛盾はこれで解消しますが、天文の井田野合戦から三年かけて桜井松平信定はなにをしていたのかと突っ込みをいれたくなる説です。

 以上の事実を踏まえた上で、本稿では松平仙千代の流亡の期間を1535年(天文四年)から1537年(天文六年)、仙千代が数え年齢で十歳から十ニ歳までの出来事であったと致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 4日 (木)

川戦:流亡編⑤天文の井田野合戦

 私は守山崩れを不幸な事故などではなく、松平家臣団達による緊急避難行動だったと解釈しております。阿部弥七郎を織田氏や桜井松平氏が差し向けた刺客という見解を否定するものでは有りませんが、家臣団にとって不名誉な主人殺しの可能性も同程度ありうるという感触です。

 十二月五日未明に松平清康が暗殺された直後、三河兵は即座に撤兵したものの、それから十日立たぬうちに『織田信秀』が岡崎まで到達しておりますから、尾張勢の守山攻撃の準備は着々と整えられていたということでしょう。主君の死という途方も無い代償を払うことにより、松平軍は尾張国から岡崎まで戻れましたが、追撃は容赦ありませんでした。撤兵であれば易々と尾張兵を三河に入れないよう、殿軍を残しながら退却します。そいういう手当ても施せないほどに慌てていたということもあるのでしょう。
 三河物語はじめ諸書が尾張勢を率いたのは織田信秀と書いています。この時の織田信秀は守護代の奉行人でしかなく、尾張国西方の津島と勝幡を領しているに過ぎません。那古屋や古渡や末森を領するのはもう数年少し先の話です。この時の織田信秀は守護代織田達勝の奉行人としての派兵であり、目的は三河の占領などではなく、味方として使える勢力を温存しておきたいという意図だったと見えます。
 織田信秀を岡崎まで安全に案内したのは桜井松平信定でしょう。松平信定は織田信秀の妹婿であり、本来信忠が隠居をした後は彼が安祥松平家を継ぐ手はずが整えられていました。一門衆や長親はほぼその意向だったでしょう。それを覆したのが安祥の家臣たちと兄信忠の意思でした。
 そして今、岡崎で松平の家臣たちが清康の遺児を推したてようとしています。仮に清康の死が不幸な事故であったとしても、岡崎の家臣達は清康の死に責任を持つはずです。それが岡崎にこもって幼君擁立に走ろうとすることは、桜井松平信定はじめ、松平の一門衆には岡崎の家臣団の保身としか映らないでしょう。よほどのお人好しでもなければこの暴挙は看過できるものではなく、守山と品野に領地をもつ松平信定が織田の軍勢を通したのは当然といえます。逆に清康の死が信定の唆しによるものであったなら、それは言わずもがなでしょう。ここで兵を出さない方が愚か者です。

 織田家にとっても、尾三連合の枠組みの中でパートナーとして松平清康はともかく、十歳の少年では信用を寄せられません。当然誰かの傀儡ということになるでしょうが、その基盤は極めて脆弱なものになるでしょう。であればすでに姻戚関係を結んでいる桜井松平信定が相続するのが望ましい。
 松平家家臣団の背後にいるはずの石山本願寺にしてみても、政権基盤の弱い幼君を立てるよりも、今は一刻も早い平和を必要としています。そのためには石山本願寺と敵対せず、なおかつ安定した勢力が三河の地を治めた方が望ましかったでしょう。
 つまり、岡崎にいる幼君を支持しているのは岡崎松平の家臣団だけでした。攻め手の方もうかうかしていれば、広瀬の三宅氏や足助の鈴木氏が南下してくるのはさけられないでしょう。電撃戦を必要としました。その目標は岡崎城ではありません。大樹寺です。
 大樹寺には松平清康の祖父長親がいました。すでに信忠は他界しており、清康も亡き今事実上の惣領は彼でした。隠居して長く、すでに自ら兵団を率いない長親に否応はありません。

 時に1535年(天文四年)十二月十二日。岡崎北方の井田野の地で織田軍と松平軍が激突しました。天文の井田野合戦です。尾張兵が大樹寺を抑えた時点で岡崎城下の戦いがどう転ぼうとも、織田弾正忠信秀と桜井松平内膳信定の勝利は揺るぎません。三河物語によると兵力は八千対八百。十対一の兵力差です。岡崎側は決死の覚悟で戦い、兵数が半分になるまで戦い抜きましたが、尾張側は適当に流して戦ったと思われます。この負ける要素の無い戦いで死ぬ方が損なのですから、和議を結ぶ気にさせる程度の損害を与えられれば良かった。尾張側にとっては信定の岡崎城入場の手はずがつけばチェック・メイトです。

 桜井松平内膳が岡崎に入った後、十二月二十四日に阿部定吉の父親である阿部道音が死にます。寛政重修諸家譜にはその死因は書いておりませんが、井田野合戦の戦傷死か、主君である松平清康の死に対する責任の取り方として、死を選んだのか、選ばされたのかいずれかだったと考えられます。偶然や老衰にしてはタイミングが良すぎますから。その四日後松平仙千代は岡崎城を出、『伊勢』に向かうことになります。阿部定吉は十歳の主君の供として付き従ったとされますが、これに前後して弟の定次も岡崎城をでていることや、阿部道音の死を考えると、ともに岡崎城を出たのではなく先に脱出したと考えたほうが良いのではないかと思われます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »