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2008年9月11日 (木)

川戦:流亡編⑥流亡のはじまり

 松平仙千代の岡崎出奔の時期ですが、興味深いことに史料によって年代や仙千代の年齢に異同があります。その内容は以下の通り。

((阿部夢物語))
1535年(天文 四年)十二月  五日 松平清康、「御腹を召」す。
                       松平仙千代、伊勢へ船で向かう。
                       松平仙千代、阿部定吉と申しあわせ、遠州への下向を決める。
1536年(天文 五年)   三月 十七日 阿部定次、遠州掛塚で仙千代と合流。
                       その年の夏、仙千代は掛塚・鍛冶に逗留。
               八月  五日 遠州を出立。
               九月  十日 今橋(吉田)、世喜、形原を経て牟呂に到着。
             閏 十月  七日 牟呂を自焼き今橋(吉田)へ退く。
                        阿部定吉、駿河へ赴く。
1537年(天文 六年)  六月  一日 岡崎城においてクーデター勃発。
                 二十五日 松平仙千代、駿河から岡崎へ帰還。

 阿部夢物語は阿部定吉の弟、阿部定次の著作とされていますが、甥の弥七郎が切り殺した部分を「御腹を召す」と記している所が興味深いです。仙千代の年齢が書かれていないのですが、1535年(天文四年)から1537年(天文六年)の出来事としています。
 これについては、「信光明寺文書」の天文六年十月二十三日付判物写しで松平千松丸(仙千代)が岡崎帰還に功のあった八国甚六郎、大窪新八郎、成瀬又太郎、大原左近右衛門、林藤助に対し十五貫文の加増を約した文書が遺っている所をみると、流亡の期間はこの間でほぼ間違いのないところだろうと思われます。但し、仙千代の年齢は記されておりませんが、松平仙千代(広忠)の生年は1526年(大永六年)とされておりますので、数え年齢で十歳から十ニ歳までのことと解釈できます。本稿では同時代史料と目されるこの判物を根拠に阿部夢物語の記述を採用します。

((三河物語))
 ところが、三河物語においては仙千代の伊勢行きを十三歳の頃としています。守山崩れの時点で既に仙千代は十三歳としておいるのですね。もし、この記述が正しいとすれば、松平仙千代は1523年(大永三年)産まれということになります。この年父親である松平清康は十三歳であり、祖父信忠が押籠めを食らって家督を継ぎ、岡崎松平親貞と戦いをはじめた頃に当たります。清康の最初の結婚は一番早くてこの翌年、1524年(大永四年)に信貞の娘との婚姻でした。仙千代の母は清康が信貞の娘を離縁したあと、天文五年に嫁いでおります。なのでこの時点で清康は未婚ですので、これは勘違いであったろうと思われます。
 とは言え、三河物語の記述に従うと、十四歳まで伊勢に逗留後、十五歳の春に駿河に渡ります。その年の秋に駿河の加勢を得て牟呂に入ります。そして、その翌々年の十七歳の春に岡崎への帰還を果たすことになっております。
 阿部夢物語との異同は、清康の死後すぐに元服していること、十四歳まで伊勢にいたこと、今川氏の加勢を得ていたことでしょうか。仙千代の生年と及び上記年表に当てはめますと、1535年(天文四年)から1539年(天文八年)のことになります。

1535年(天文 四年)広忠十三歳 松平清康に先立たれ、元服。伊勢に落ちる。
1536年(天文 五年)広忠十四歳 伊勢に逗留
1537年(天文 六年)広忠十五歳 春に駿河に下る。
                秋、三河国牟呂に移る。
1539年(天文 八年)広忠十七歳 春、岡崎帰還。

((松平記))
 松平記は阿部夢物語と三河物語の双方の記述を取り入れているせいか、三河物語以上に記述に矛盾が生じております。
 守山崩れは1535年(天文 四年)で、この時仙千代(広忠)は十歳の筈なのですが、1537年(天文 六年)広忠十七歳の六月二十五日に岡崎帰還しております。事件の発生期間は1535年(天文四年)-1537年(天文六年)の三年の出来事ですが、その間に仙千代(広忠)は七つも歳をとっているのですね。また、今川義元と松平仙千代の会見の時点において東条吉良持広が既に死んでいることになっているのですね。とは言え、江戸初期の重要史料の一つであることにはかわりありませんが、この記録の混乱の原因は何なのか、見当もつかない状況です。

((武徳大成記))
 武徳大成記も江戸前期、1686年(貞享三年)に作られた歴史書です。編纂者は阿部正武で、小針村の阿部忠正の子孫です。なので阿部定次の阿部夢物語に準拠して、1535-1537年の三年の出来事で、広忠が数え年齢で十歳から十ニ歳までの出来事と記しています。阿部夢物語が六名阿部家視点で書かれているのに対し、吉良家や今川家、桜井松平家と大久保家の動向も記してトータルな視点で書かれています。

 松平仙千代の岡崎帰還を十七歳と三河物語に書かれた影響は、松平記だけではなく、御年譜附尾等の史料にも影響を与え、松平記の矛盾を広忠の年齢で埋めようとして、1538年(天文七年)から1541年(天文十年)の出来事になったりしております。三河物語が言う十三歳から十七歳を素直に適用したものなのでしょう。清康の婚姻時期と仙千代の年齢との矛盾はこれで解消しますが、天文の井田野合戦から三年かけて桜井松平信定はなにをしていたのかと突っ込みをいれたくなる説です。

 以上の事実を踏まえた上で、本稿では松平仙千代の流亡の期間を1535年(天文四年)から1537年(天文六年)、仙千代が数え年齢で十歳から十ニ歳までの出来事であったと致します。

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