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2008年9月18日 (木)

川戦:流亡編⑦吉良さんちの家庭の事情Ⅱ

 川の戦国史は『尾三連合』という仮定に基づいて、史実解釈をしております。即ち、永正年間に斯波(織田)、西条吉良家が連合を組んで、遠江奪還戦を仕組んだと。それに松平家も加担したという仮説です。

(東条)持清―+―持広―+―吉次(西尾氏)
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         +―義広 +=義安
           (荒川)

(西条)義信―○―義堯―+――義郷
                |
                +――義安(東条吉良・統合吉良二代)―……―吉良義央
                |
                +――義昭(統合吉良初代)

 ここの所、実は西条吉良義信と足利義材は今川に通じているという解釈が一般的なんですね。1508年(永正五年)に今川氏親は確かに足利義材(義植)から遠江守護職をもらっています。それは斯波家から遠江守護職を奪ったことと同義です。ゆえに今川家は足利義材派と比定されます。そして、記録の上から西条吉良義信と足利義材は懇意にしていたことは確かです。敵対関係を図にするとこんな感じになります。

 足利義材、西条吉良義信・義堯、今川氏親
        ×
 東条吉良持広、斯波義達、大河内貞綱

 しかし、だからと言って足利義材や西条吉良義信が親今川であったかといえば、そうとも言い切れない。仮に西条吉良が親今川であった場合、永正年間に遠江国引馬(浜松)奪回戦を仕掛けた大河内一族の主筋は東条吉良家となります。今川氏親は斯波義達と一緒にこれを完膚なきまでに粉砕し、遠江国に永正十五年と大永四年に検地を実施し、旧領主色を一掃しています。そんなことをする今川と遠江に領地を持っていた東条吉良氏とが親密になれるとは思えないのです。むしろ遠江の領主は西条吉良と考えた方が実像に近づくのではないか。そんな風に思っております。

 守山崩れがあった当時、1535年(天文四年)の東条吉良家当主は持広でした。天文井田野合戦の結果、伊勢に落ちた松平仙千代は、翌年三月に遠江国掛塚に向かいます。そこは東条吉良家の旧領であり、流亡する松平仙千代を東条吉良持広は保護を与えたといいます。でも、敵対して敵に分捕られた土地に保護を求めてやってきた仙千代を送り込むというのは流石にちょっと考えにくい。確かにその土地のことは詳しいでしょうが、敵対していたのですから、今川の警戒を受けるはずです。松平仙千代という西三河の政治的に大きなファクターを与えるものであればなおさらでしょう。
 その後も吉良持広は松平広忠を牟呂(むろ・茂呂、室ともいう)という三河国内の自らの勢力範囲に匿った上で、駿河に送り込んでおります。遠江で敵対していたのに、ここで今川家と連携がとれているのは矛盾しています。そこを説明するために、今川家が後になって足利義材――義維派から義晴派に鞍替えしたとか、織田家が足利義晴派から足利義材派に転じたという解釈が必要になるのですね。

 ゆえに私は永正年間の遠江戦での吉良家の主体が西条家であり、今川家と敵対していたと考ます。敵の敵は味方といいます。東条吉良家が今川家とのパイプを持ち、旧領に松平家の者を匿ったとしても、今川氏は大目にみるでしょうし、協力もできると思います。松平清康は東条吉良系の城であった小島城
を1529年(享禄二年)に攻めました。しかし、松平家が信定に乗っ取られ、流亡の仙千代が懐に入り込んだなら、東条吉良持広は奇貨としてこれを置くでしょう。

 足利義材(故人)、西条吉良義信(⇒義堯)、斯波義達(⇒織田達勝)、
 大河内貞綱(故人)、松平信定
        ×
 東条吉良持広、今川氏親(⇒今川義元)、松平仙千代

 但し、松平仙千代を庇った代償を東条吉良氏は払わねばならなくなりました。仙千代を匿った牟呂の地ですが、ここは富永氏の居館のある場所です。この時点の富永氏はどうやら東条吉良の方についていたようです。富永氏は松平信忠の妹、仙千代にとっては大叔母が輿入れしており松平家とも近しい立場にあります。但し、信忠の妹ということは信忠の弟である信定にとっても妹にあたりますので、これだけで仙千代の味方をするという理由としては弱い。
 三河物語によると、今川の加勢を得てとありますので、ここに来る前に立ち寄った吉田あたりでの工作が功を奏し、野田菅沼定則を味方につけたのではないかと考えております。彼は松平清康の宇利攻めの結果、宇利城を得ておりますので、松平家には恩義があります。その遺児が今川家の支援を受けて復帰運動をしていると聞けば、今川氏の報復を防ぎたいと考えていた彼としては願ったりの展開だったのではないかと思われます。
 しかし、東条吉良家の松平仙千代保護は松平信定をはじめとする尾三連合にとっては、看過できないものであったようで、兵が差し向けられました。この攻撃に仙千代は耐えられず、吉田に落ち延びます。その後、今川義元と会見するなどして復帰運動を拡大し、岡崎の家臣を寝返らせて復帰をはたします。東条吉良持広は仙千代の岡崎復帰後も生き残り、1539年(天文八年)に亡くなります。これは菩提寺に位牌が残っているのでほぼ間違いはなかろうところだと思われます。ですが、松平記や家忠日記増補追加などの史料においては、仙千代の流亡忠になくなっていることになっているのですね。仙千代と阿部定吉が牟呂退去後に今川義元と会見するのですが、彼らを保護する理由としてあげているのが、持広の遺言ということになっています。彼には長子がいるにもかかわらず、西条吉良家の義安を養子に迎え入れることを強いられます。そして実子を織田家に人質に差し出すこととなりました。
 どうやら吉良持広は仙千代を匿ったことにより、西条吉良家や桜井松平信定の攻撃目標とされてしまったようなのです。

1536年(天文 五年)西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
             持広、仙千代を保護する。
1537年(天文 六年)松平広忠、岡崎城復帰。
             西条吉良義郷、今川方に破れ、戦死。義昭が家督を相続。
1539年(天文 八年)東条吉良持広、死去。義安が家督を相続。吉次、織田家の人質になる。

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