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2008年9月25日 (木)

川戦:流亡編⑧戦国時代の今川氏

 今回は今まで断片的に触れてきた今川家についてのおさらいから、今川義元が流亡中の松平仙千代と出会う所までを一気通貫で迫ってまいりたいと思います。

 今川家はもともと足利家の支族であり駿河国の守護をしておりました。一時遠江国守護も兼務していたこともあったのですが、その遠江国守護の座は斯波家に取られてしまいました。斯波家は細川・畠山と並んで足利幕府の管領を出す名家です。今川家とて、吉良家に次いで足利将軍家に近い血統を持つ名族です。今川一族は斯波に奪われた遠江奪還に意欲を燃やすことになります。それでも将軍家の力が強い間はおいそれと手は出せませんでした。山名や大内、鎌倉公方家など幕府と対立して滅ぼされる有力者は後をたちませんでしたから。
 それでも義忠の代になって大きなチャンスが訪れます。1467年(応仁元年)に起こった応仁・文明の乱です。細川勝元と山名宗全はともに今川義忠に秋波を送りましたが、義忠は東軍に与することにします。というのは遠江国守護の斯波義廉が山名の西軍陣営にいたからです。
 しかし、この今川義忠は大変不器用な男だったようです。西軍方に与した美濃国の斉藤妙椿が東軍方の三河国の細川成之を攻めたため、これを援けに三河国に出兵するのですが、そこでともに助けに来た尾張守護の斯波義良、三河の西条吉良義真らの組下で東軍方についていた遠江国の巨海氏・狩野氏と対立してこれを滅ぼしてしまいます。その結果、東軍方の尾張斯波と三河細川氏・西条吉良氏を敵に回してしまうことになります。さらには、遠江国人との戦いのさなかに今川義忠は流れ矢に当たってあえなく死んでしまいます。私が考える尾三連合の祖形はここにあらわれております。

 今川義忠の突然の死によって今川家は内紛を起こします。義忠の嫡男龍王丸がまだ若年だったため、義忠の従兄弟の小鹿範満が家督を預かったのですが、龍王丸が成人しても家督を返しませんでした。このゴタゴタを鎮めたのが、伊勢新九郎。号して宗瑞、後に北条早雲と呼ばれる男です。彼は今川義忠の妻の弟です。昔は素浪人と紹介されていたそうですが、政所執事を務めた伊勢家の一族にして幕臣であったことがわかっております。
 これは放っておくとどこに行ってしまうのか知れないのを見かねた細川政元が伊勢貞親に頼んで伊勢宗瑞を派遣したのが真相のようです。龍王丸は元服して氏親と名乗り、伊勢宗瑞は彼に仕えることになりました。今川氏親の庇護を得た伊勢宗瑞は軍師としての手腕を西に東に発揮します。
 六代将軍足利義教の頃、永享の乱で幕府は鎌倉の関東公方を滅ぼしましたが、その残党が滅ぼされた関東公方の遺児を下総国古河に建てて復興しました。これを古河公方といいます。これに対抗して八代将軍足利義政が自らの弟の政知を新たに関東公方として建てました。しかし、落下傘で落ちてきたような地元と縁の薄い将軍の弟は関東の諸侯に歓迎されません。もともと鎌倉に入る予定だったのが、それができなくなったため、伊豆国堀越に居を構えました。これを堀越公方と言います。
 結果として堀越公方は一代限りの短命に終わりましたが、足利政知の長男は十一代将軍足利義澄となりそれなりに報いられました。しかし、堀越公方家は内紛が起きます。跡継ぎ予定だった足利潤童子がその弟の茶々丸に殺害されてしまったのです。
 細川政元はこれを赦さず、今川氏親にこれの追討を命じます。氏親は伊勢宗瑞を差し向け、足利茶々丸を討ち取り、伊豆に根拠地をもつようになります。この後、氏親は伊勢宗瑞に三河を攻めさせます。その過程において1508年(永正五年)に流れ公方足利義材(義植)の上洛復帰のどさくさに紛れて斯波義達から遠江守護の座を分捕ることに成功します。さらに西上する伊勢宗瑞をを迎え撃ったのが松平長親でした。その戦いの直後、伊勢宗瑞は西上を止めます。そして、その後は東にターゲットを向けるようになりました。それから間もなく宗瑞は死に、彼の息子が後北条家を名乗って今川家の部将から独立を図ります。そして瞬く間に関八州を勢力下におさめるのです。
 ただし、それは東方からの脅威は全部北条家が引き受けてくれることを意味していました。だから、西方からの攻撃を凌ぐことができたのです。西方からの攻撃と言うのは斯波義達と大河内貞綱率いる尾張からの遠江奪還運動でした。今川氏親はこれを完膚なきまでに叩き潰して、斯波義達を坊主にして尾張に送り返します。それとともに斯波家は没落の道をたどることになりました。
 今川氏親の晩年は中風に罹り、身体が不自由だったといいます。それを援けたのが妻の大方殿(氏親の死後出家して寿桂尼)でした。
 1526年(大永六年)今川氏親が没します。享年五十三といいますが、後を継いだ氏輝はわずか十四歳です。してみると三十九歳の時の子が嫡子ということになり、随分遅く生まれた子ということになります。義元はこの時七歳。氏親が中風にかかったのは死の十年前ということだそうですから、義元は病床の氏親が作った子ということになります。
 それはともかく、寿桂尼はこの幼君氏輝の補佐をし、自ら今川家当主の名代として印判状を発給しています。事実上の女戦国大名といっていいでしょう。夫である氏親の死の直前に作られた分国法今川仮名目録の制定にもたずさわったそうです。彼女は中御門家出身の公家の娘で今川家に京風文化をもたらしています。時代劇に出てくる桶狭間の今川義元が白粉・眉墨・お歯黒べったりなアレな格好なのも彼女の影響といえるかもしれません。彼女の元には山科言継、鷲尾隆康などの公卿や連歌師宗長、宗牧ら京文化の担い手達が集まり、彼らの残した日記の類はこの時期の東海地方の歴史を探る上での重要史料となっております。
 氏輝も成人し、今川家当主としての器量も磨き、甲斐国の武田信虎と戦うなど戦国大名としての実績を積もうとしたところで急死します。弟で同じ今川館に起居していた彦五郎も同じ日に死ぬというオマケ付きです。時に1537年(天文五年)、松平清康が守山で陣没した翌年にあたります。氏輝の生涯はほぼ松平清康の生きた時代に被り、そのいきなりな死まで似通うという所はとても興味深いのですが、残念ながら川の戦国史のコンセプトの中ではその謎を追う暇はありません。
 今川氏親には六人の男子がおりました。氏輝と彦五郎は急死、末弟の氏豊は尾張国那古屋におります。これは氏豊が那古屋に行く以前に那古屋には那古屋今川家という一族がおり、氏豊はそこに養子として入ったらしいです。よって、この時点で氏豊は家督継承権を失っております。残った三子の内、第四子の象耳泉奘はこの時どうやら畿内にいたらしい。律宗を修め、後に唐招提寺の住持になるという高僧の道を歩みました。これも選択に一つとしては有りなのでしょう。残ったのが第三子の玄広恵探(げんこうえたん)と第五子の栴岳承芳(せんがくしょうほう)の二人です。このうち、栴岳承芳が寿桂尼の息子であり、寿桂尼は足利義晴と交渉して栴岳承芳の還俗名に足利将軍家の『義』の字を貰い受けます。すなわち、栴岳承芳は以後、今川義元と名乗ることとなります。これは事実上今川家家督は今川義元が継ぐことを足利将軍も認めたということを意味します。
 対する玄広恵探は今川家の重臣福嶋(くしま)氏の庇護を受けておりました。福嶋氏は寿桂尼の独断先行を不服とし、玄広恵探が栴岳承芳よりも年長であるという言い分にたって、玄広恵探を擁立します。寿桂尼は福嶋越前守の邸宅に赴き、これを説得しようとしますが、失敗。玄広恵探派は久能山で挙兵しました。これを花倉の乱といいます。これは玄広恵探が花倉を根拠地としてたため、花倉殿と呼ばれたことに由来します。
 これを叩き潰したのは今川義元派の岡部親綱と太原崇孚(たいげんすうふ)でした。太原崇孚はこれより後、今川義元の軍師として大活躍することとなります。考えてみれば今川家は幼年の当主が危機的状況に直面するケースがままありますが、そのたびごとに有能な人材が現れてこれを支えます。氏親は伊勢宗瑞、氏輝は寿桂尼、義元は太原崇孚といった具合です。氏真は寿桂尼がこれを支えようとしましたが、上手くいきませんでした。結果として家を喪うハメになったのは桶狭間における今川家の人的損耗がいかに大きかったかを物語っているようです。

 氏輝までの今川氏は伊勢宗瑞が興した後北条家と懇意にしており、関東公方の断末魔に伴うの騒乱は北条家が引き受けることによって、今川家は北方、西方にだけ目をむければ足りました。西方も今川家の勢力圏は遠州までというところで落ち着き、北方で勢力を急拡大している武田信虎に戦力を集中できたのです。この花倉の乱の過程で寿桂尼、太原崇孚らの義元派のブレーンは武田信虎と和睦をし、武田信虎の娘を今川義元の妻としました。これが原因で、後北条家と今川家は手切れとなり、駿河・相模両国国境の河東地域での戦いに繋がります。これを河東の乱と言います。

 東条吉良持広の援助で牟呂まで戻った松平仙千代が、松平信定の攻撃に絶えかねて吉田まで退き、今川義元に助力を乞うたのは、今川義元が花倉の乱をおさめ、武田信虎の娘との婚儀を控えた頃でした。

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