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2008年10月30日 (木)

川戦:流亡編⑫仙千代の帰還

 前稿にて、守山崩れから井田野合戦までの間、史書に大窪忠俊の活動の記録が見当たらないことを指摘しました。そこから導き出せる推察を申し述べます。
 仰々しい書き出しになりましたが、極めて常識的なセンです。――そこに大窪忠俊はいなかったということです。

 では、どこにいたのか。可能性の一つとして石山本願寺をあげたいと思います。前編でも触れたのですが、本願寺法主証如の家宰を務めた下間頼秀の父、頼玄(蓮応)が飛騨国白川郷の照蓮寺宛てに書いた1534年(天文三年)四月四日付の増援依頼の手紙の中に、下間頼玄が美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆に本願寺が危ないので援軍を求めたことが記録されているのですね。これに本宗寺は応じたと思われるのですが、その実体は不明です。これ以外にも、1531年(享禄四年)に大小一揆という本願寺教団の内紛が起こった時に三河から動員がされているのですが、松平側の史料にその記録はみあたりませんが、その当時三河国を統率していた松平清康がそれを知らなかったとは思えません。その空白を埋めるものとして大窪忠俊がいたのだと考えてみました。大窪藤五郎・新八郎忠俊が率いる大窪党は本願寺防衛の為に戦っておりましたが、戦局は本願寺勢に利がありませんでした。三河勢(大窪党らを含んでいると思われる)を呼び出した下間頼玄及び息子兄弟は間もなく失脚。替わって本願寺に入山した連淳が教団の実権を握ります。彼は青蓮院門跡を担ぎ出して講和工作をし、1535年(天文四年)十一月末 本願寺と細川晴元・木沢氏との和睦がなって本願寺は幕府の軍門に下ります。
 連淳は講和の実現の為に粛清を厭いませんでした。実は本願寺と幕府とは1533年(天文二年)に三好千熊丸(後の長慶)を仲介に一度和睦をしているのですが、末端の小競り合いを収めることができず、再び戦いが始まったという経緯があります。故に連淳は下間頼秀を暗殺するなどして容赦のない粛清を行いました。松平清康が守山で死んだのも丁度その頃です。

 三河物語が清康の死を痛切に悼み、阿部弥七郎のことを日本一の阿呆と罵っているところをみると、少なくとも大久保彦左衛門が参照した元史料にはそんな話はなかったと思われます。大窪忠俊は清康の死の報を受け、三河に戻りますが、そこにはすでに後継の仙千代はおらず、桜井松平信定が松平家を総督しておりました。
 松平信定からしてみれば、大窪忠俊は清康の家臣であって信定と直接の主従関係はありません。大窪忠俊のことを井田野合戦の折にその場にいなかった為に、この政権交代劇にも納得できないと見たのでしょう。でも、だからと言って大窪党に対してもう一度合戦を仕掛けるわけにはゆきません。松平家の安寧のためには大窪党を桜井家に引き寄せる必要がありました。それゆえの牟呂攻撃への先陣申し付けであり、七枚起請を三回も書かせたという感じでしょうか。今回の松平信定の家督総攬には自らの意思で家督を奪いにいったというよりも、尾三連合維持の為に織田家が緊急避難的に松平信定を担いだふしがありますので、その対応が後手にまわったというのはあるでしょう。

 以上は、忠俊に自らの苗字を与えた大窪藤五郎が越前から亡命してきた門徒だったらという仮定を前提とするものであり、屋上屋を重ねるものですのでご注意ください。
 史実として大窪忠俊は城番である合歓木松平信孝の留守中に岡崎城奪回作戦を発動させました。

 「三河後風土記正説大全」には湯治に行った松平信孝の留守に岡崎城を守っていたのが石川長右衛門康利・三郎四郎康定兄弟とかかれています。系譜は不明ですが、小川の石川氏の一族でしょう。松平信孝の家臣として付属していたものと思われます。彼らが侵入してきた大窪忠俊らと大立ち回りを演じて討たれたと「正説大全」にはありますが、実相は不明です。
 石川一族の惣領、石川清兼は松平仙千代(広忠)の岡崎復帰後にも重臣として仕え続けております。一門の者を討ち取られて問題がなくてすむとは思えません。

 ただ、その一方で石川一族が大檀那を勤めている本證寺に対し、石山本願寺は積極的に接触しています。それは時に阿弥陀絵像の下付だったり、本證寺住持の法主証如への謁見だったり恩を売るものもあり、長島願証寺の指示に従えとする命令もあったりします。要するに蓮淳の方針に三河三ヶ寺を従わせようとしたわけですね。そして、その方針は領主達に従って、徹底して戦争をするなと言うものだったと思っていていいでしょう。故に石川一族は簒奪者である松平信定に従っていたと考えられます。
 岡崎城が乗っ取られる事態は松平信定には予想はついていたものだと思います。なのに結局松平信定は屈服するかたちで、惣領権を帰還した仙千代に変換します。そこには松平長親の意向もあったでしょうが、結局のところ蓮淳から出ていた門徒の不戦方針が信定の反撃を封じたのだと思われます。

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2008年10月23日 (木)

川戦:流亡編⑫内応者たち

 隣国尾張の支援を受け、一門衆とも姻戚関係を結んだ桜井松平信定の課題は家臣団の統制でした。その統制を脅かす事件が起こります。松平仙千代が東条吉良持広の支援を受け、牟呂に立てこもったのです。これは西条吉良家当主義郷にとっても脅威でした。西条吉良家は松平清康を東三河に派遣して、東三河国人たちを尾三連合側につかせました。しかしその嫡子が今川の支援を受けて松平家への復帰運動をしているのです。彼が松平の家督を取り返せば、東三河国人達はオセロの駒をひっくり返したように親今川へと旗幟を翻すことになるでしょう。これを防ぐために西条吉良は東条吉良に攻撃を仕掛けたものと思われます。

 この一環として桜井松平信定は牟呂を攻めます。この時、大窪忠俊を先陣として矢を射掛けさせたというエピソードが三河物語に書かれています。信定としては、大窪忠俊の大窪党も信定方について、仙千代を敵とすることを対外的にアピールすることが目的だったと思われます。しかし大窪忠俊は信定を欺いて矢文で主従の縁を確かめ合ったと三河物語には記されております。大窪忠俊はもとより松平仙千代を岡崎に迎えるべく、その時期を計っていたといいます。
 もっとも、大窪忠俊が桜井松平信定を欺けたかどうかは疑問です。松平信定は宇利の戦いで強兵に当たることを避けて陣を下げたり、下地の戦いでは最前線で兜を脱いで直接部隊の指揮を取るような人物です。当然、大窪忠俊が本気で戦っていないことは察知したでしょう。

 そこで次に取った手段は起請文です。桜井松平信定は大窪忠俊に起請文を提出させて、自らへの忠誠を誓わせました。起請文というのは神の立会いの元で約束を取り交わすことで、現代の契約とは比べ物にならないくらい重いものでした。不履行を行った場合は神罰が下って地獄に落ちるといわれていたのですから。実際信長公記の首巻に織田信秀の弟の信光が起請文破りをして急死した事件が記されていたりします。現代の目で見ると、起請文の誓いを破ることと急死することは別と考えるべきですが、信長公記の作者が両者にあたかに因果関係があるように書いております。当時の人々は神罰はあると考えておりました。それでも松平信定は安心せず、伊賀八幡の七枚起請を三回、都合二十一枚の起請文を大窪忠俊にかかせました。

 それでも、大窪忠俊は志をまげません。三河物語では大窪忠俊は神罰よりも松平仙千代に対する忠誠の方に重きをおいて、神罰覚悟で破ったことにしております。ただし、中世発祥の新仏教の熱烈な信仰者であれば『松平家の氏神』よりも、自ら信じる本尊の方を怖れたのではないか、という気がします。大窪忠俊は同志を募ります。一族兄弟の者、林、成瀬、八国、大原ら松平家臣団を味方につけます。そして、その工作はついに岡崎城の城番をしている合歓木(ねぶのき)松平信孝を味方に引き入れることに成功しました。松平信孝は清康の弟で、桜井松平信定のおいにあたります。
 松平一門衆の一人ではありますが、桜井家が松平惣領になってしまうと、信忠系である彼は完全に主流から外れる事になります。叔父の桜井松平信定が惣領となるよりも、甥の松平仙千代を中心に松平一門と家臣団をまとめ上げ、自らはその後見となった方が得です。その点で大窪ら家臣一派と利害が一致するわけですね。松平信孝は城の鍵を妻に預け、大窪忠俊が求めた時のみこれを渡すように申し付けた上で有馬温泉へ湯治に出かけました。
 有馬温泉というのは摂津国の西北にある有名な温泉地なんですが、ここで有馬温泉に湯治というのは非常に嘘臭いと思っております。細川高国が1527年(大永七年)に都落ちして以来、畿内は大きな動乱に見舞われ、摂津国はその主戦場となっておりました。天文の一向一揆が鎮定したのもごくごく最近の話です。湯治場として昔から有名な場所だったのでしょうが、この時点で戦災がこの温泉場にどのような影響を与えていたのかはわかりません。
 いずれにせよ、城に仙千代が戻ってくれば、岡崎にもどる事態になることは必定なので、本気で西国まで旅するつもりは無かったのでしょう。

 ここまで三河物語や関連史料に即して大窪忠俊(ほぼ全ての史料には大久保忠俊として扱われています。念のため)の動向を見てまいりましたが、腑に落ちないことが一つあります。それは守山崩れから天文の井田野合戦を経て仙千代が流浪する過程において、大窪忠俊の行動が不明だということです。三河物語の作者が一族の大久保彦左衛門忠教であることを考えると、不自然なのですね。『大久保』家のエピソードがないわけではありません。宇津忠茂の山中城奪取のくだりは書かれています。でも、守山崩れや井田野合戦のとき、大窪忠俊はなにをしていたのかの記述はありません。三河物語は清康を殺害した阿部弥七郎のことを日本一の大馬鹿者と罵倒していますが、それはこの忠俊のものではなく、彦左衛門の心の叫びです。寛政譜には牧野氏と松平清康が戦った下地の戦いで忠俊が力戦したことを書いております。この間の重要人物である六名の阿部定吉とは根拠地が隣接しており、婚姻関係による親戚付き合いもしております。しかし、ここにも守山崩れや井田野合戦におけるポジションがみえきません。
 そのくせ松平信定はこの大窪忠俊に対しては警戒しまくっているのですね。わざわざ牟呂で矢を撃たせて主従関係が切れていることをアピールさせたり、起請文を書かせたりと尋常ではありません。大窪忠俊は松平信定がそこまで人心掌握に動く人物です。守山崩れの場や井田野合戦の場にいたのなら、きっと某かの行動は取っているはずですし、親族である大久保忠教は書き残しているはずなのですね。
 にもかかわらず、三河物語にこの期間の大窪忠俊の行動はかかれていないのです。三河物語の各巻の奥書には『子孫への遺言とするために自分の家のことのみ書いた』と言い訳しております。であればなおさら、書かれていてしかるべきことなのではないかと思います。
 その疑問に対する回答は次稿で述べたいと思います。

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2008年10月16日 (木)

川戦:流亡編⑪和田郷大窪軍団Ⅱ

 仮説:大窪藤五郎は本願寺門徒であり、本願寺の命令で門徒兵団を組織するオルグだった!

 ……(^^;;; またしても、という感のある仮説ではありますが、本稿は川の戦国史ですので悪しからず。オルグというのはオルガナイザーの略で、共産主義革命が流行した頃の言葉です。意味合いとしては、社会に浸透して革命結社を組織し、拡大させることを任務とする工作員のことです。
 先行する類例を挙げます。松平親忠の代における石川忠輔です。彼は父親康の命令によって、伯父の康長と計りながら、本証寺門徒を松平親忠の旗本として安祥の城にいれました。大久保党よりも長い期間をかけて編成されているだけに、その規模も後の三河一向一揆の主力となるほどの充実ぶりです。石川家はもともと本願寺蓮如の命で軍事を引き受けるために三河に下った一族です。それと同じく、大窪藤五郎も本願寺のバックアップを受けて大窪党という軍団を形成し、松平清康の旗本として戦力を提供したのではないでしょうか。もちろん、必要に応じて本宗寺実円の動員に応える実働部隊としての性格ももっているということになります。

 次に、大窪藤五郎が本願寺門徒であった場合の前半生を想像してみます。後継者探しに拘っている所から、ある程度年齢が言っている人物でしょう。人間五十年というのが当時の通り相場ですが、武士がの嫡男が元服する頃の歳として、大窪の名跡継承が清康晩年の1531年(享禄四年)時点で、『四十歳』としておきます。この仮定に従うと、大窪藤五郎は1491年(延徳三年)産まれということになります。蓮如が実務を後継者の実如に譲って山科本願寺で隠居していた頃です。生まれる三年ほど前に加賀一向一揆が起こって富樫政親は自害し、加賀国は『百姓の持ちたる国』となっていました。藤五郎が育った大窪の地も負けずに一向宗が盛んだったと思われます。北陸における本願寺教団の中心寺院は越前・加賀国境にある吉崎御坊だったのですから。以後、彼は本願寺教団全盛時代の越前国において少年時代をすごすことになります。
 ところが越前国は朝倉氏の手によって本願寺教団の活動が禁じられてしまいます。藤五郎が『十五歳』の頃、1506年(永正三年)に時の管領細川政元の命令によって、加賀国一向一揆勢は国境を越えて越前国に侵入しました。これを朝倉宗滴が九頭竜川で撃破、一揆勢を押し返してしまいました。それだけではなく、吉崎御坊や和田本覚寺など越前国内にあった本願寺教団の拠点寺院は悉く破却されます。戦後処理として朝倉氏は越前国から一向宗の禁教令を出し、門徒達を国外追放しました。以後、和田本覚寺の門徒達は加賀国に移住し、1567年(永禄十年)に足利義昭の仲介で本願寺と朝倉家が和睦をするまで、越前帰還の戦いを叫び続けることになります。
 大窪藤五郎も和田本覚寺と行動を同じくしていたとするなら、この後の越前や越中の戦いを転戦していたと思われます。和田本覚寺は加賀三ヶ寺よりも、山科本願寺で法主の補佐をする連淳に働きかけます。加賀三ヶ寺は越前奪回や越中の戦いには消極的で、朝倉氏や畠山氏との協調路線をとります。それを嫌った大窪藤五郎が加賀を出て三河に流れてきた、というのはいかがでしょうか。
 三河国の本願寺教団を統括している実円は加賀三ヶ寺よりもむしろ連淳に近しい人物です。大窪藤五郎は三河国に移り住みます。居を構えたのが和田郷だったのは本宗寺との近さもあったとは思うのですが、かつて越前国にあった本覚寺の在所であった和田と同じ地名であることも一因かもしれません。
 彼にしてみれば、越前奪還に消極的な加賀三ヶ寺から、積極的な連淳指導の体制に加賀国を移行させるために、三河で実働部隊をやしなっているつもりだったのでしょう。そして、実円は三河兵を動員して加賀三ヶ寺征伐の兵を加賀国に送り込みます。ところが、畿内で門徒達が暴走し、幕府と本願寺教団との戦争が始まってしまい、越前奪還どころではなくなってしまいました。
 屋上屋を重ねる推論に過ぎませんが、この時点で大窪藤五郎の越前帰国の望みは完全に絶たれたのだと思います。最終的には松平広忠の家臣に落ち着いて、後事を全て大窪忠俊に託して、自らは1547年(天文十六年)に安祥城の攻防戦で討死します。『家名を残せた以上、もはや思い残すことはない』とかなり自暴自棄に陥った言葉が大久保家の寛政重修諸家譜に残されていました。

 さて、大窪忠俊は再び氏を大久保と改めます。大窪藤五郎が家譜に残した言葉を考えると、それはおそらくは大窪藤五郎の生前の事ではなかったと思います。同時代史料を探しましたら、1537年(天文六年)十月二十三日付の八国甚太郎、大窪新八郎忠俊、成瀬又太郎正頼、大原左近右衛門・林藤助忠満宛判物という、仙千代の岡崎帰還を労う文書に大窪新八郎忠俊の名があるそうですから、この時点ではまだ大窪だったことがうかがえます。
 大久保への改姓の動機は寛政重修諸家譜には書かれておりませんが、一説に名を改めた後に悪夢に苛まれるようになったからという話があります。この時、忠俊の相談相手になったのが長福寺の日朝という僧だったといいます。

 宇津氏はもともと上和田妙国寺の大檀那だったのですが、1547年(天文十六年)に亡くなった忠俊の父の忠茂以降、この長福寺に墓所を移しております。同じ年に大窪藤五郎も戦死していますので、このタイミングで、長福寺に帰依したのだと考えることができないかと思っております。つまり、忠俊の家は大窪藤五郎が三河に流れてくるまでは妙国寺を墓所としており、大窪藤五郎の没後は長福寺にきりかわっているのですね。ここに宗旨の揺れがあると私はみております。
 その傍証として、一つの事件を提示します。
 宇津忠俊が大窪忠俊として大窪軍団の兵権を握っていた1543年(天文十二年)に松平家に内訌が起こり、三木松平の信孝が追放されます。一門と大窪忠俊を含む家臣団との対立の延長線上にある事件でした。これに憤った信孝は織田信秀と組んで報復しようと企みます。その手始めにかつて部下として自分に付属していた大窪家家臣の妻女を見せしめに殺そうとするのですが、大窪忠俊はその先手をとって妻女を安全な所に避難させました。その避難先が本願寺教団の三河三ヶ寺の一つ針崎勝鬘寺だったのです。この時、針崎勝鬘寺をはじめとする三河三ヶ寺は不入権をもっており、領主ですら立ち入れない禁域を有しておりました。そこに妻子を匿う事によって事なきを得たわけです。さりながら、通説では大窪(大久保)氏は法華宗徒であり、松平家は浄土宗なので、本願寺教団が介入する余地はないはずなのですね。もちろん、大窪忠俊は松平家の有力家臣でありますし、石川氏をはじめとする三河国の有力門徒衆とのコネクションが無かったわけではないでしょう。さりながら、この行動は武士団の抗争に本願寺教団を巻き込むリスクを負わせるものです。その理由を考えた時、越前出身の武芸者、大窪藤五郎の存在が鍵になるのではないか、と思うわけです。

1506年(永正 三年)九頭竜川の戦い。吉崎御坊、和田本覚寺焼亡。
           |
          越前国の武芸者、大窪藤五郎某が三河国に流れてくる。
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1535年(天文 四年)大窪藤五郎某の願いにより松平清康、宇津忠俊に大窪姓を名乗らせる。
1543年(天文十二年)松平家内紛。松平信孝、追放される。勝鬘寺、大窪一族を保護。
1547年(天文十六年)大窪忠俊の父忠茂、没。
          安祥城の戦いで、大窪藤五郎某討死。
1556年(弘治 二年)長福寺日朝、住持を継ぐ。
          この前後、大窪忠俊悪夢に苛まれ、日朝と相談の上大窪を大久保に改める?

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2008年10月10日 (金)

川戦:流亡編⑩和田郷大窪軍団Ⅰ

 松平仙千代が岡崎城から出奔した後、織田家の支持をもって松平一門主従を率いる立場となったのは桜井松平信定でした。彼は大給松平家、織田弾正忠家、刈屋の水野家と縁戚関係を結び、自らの立場を固めましたが、実際はそれほど強固な力を発揮できた訳ではありませんでした。
 やはり、岡崎城にいる安祥松平家の家臣団との間に良好な関係を築けなかったのが大きかったようです。彼は家臣たちに起請文を書かせて臣従を誓わせ、東条吉良家の助力により牟呂にまで進出してきた松平仙千代を武力で圧迫します。さりながら、家臣達は本気で臣従しているわけでも信定に従って戦っているわけでもありませんでした。
 それを代表して体現しているのが大久保新八郎忠俊であり、三河物語の著者である大久保彦左衛門忠教が属する大久保一門の当主です。これから述べる大久保家の由来は、大久保家の家譜によるものですが、三河物語には書かれていない筋立てです。三河物語が大久保忠教の子孫のために、徳川家と大久保家との関係を記した書物であるならば、家譜に書かれている記事について触れられていて良いとも思うのですが、なぜか書かれていないのですね。

 大久保氏は下野に勢力を持っていた宇都宮氏を祖とし、その分家である武茂氏が泰藤の代に三河国上和田に移住したそうです。また、この泰藤は宇都宮泰藤という名前で太平記にしるされています。九州に落ち延びた足利尊氏が再起して、京を占領し、後醍醐天皇を比叡山に囲みます。後醍醐天皇は降伏し、新田義貞は越前に退去するのですが、その新田義貞に随行する諸将の一人として宇都宮泰藤の名前が出てくるのですね。この後、新田義貞の弟の脇屋義助の配下として転戦しますが、戦況が悪化する中、脇屋義助ともわかれて三河流れ、和田村の妙国寺前に城を構えて土着します。この時、泰藤は出自である宇都宮にちなんで宇津と称し、岳父である土岐頼直の勧めにより法華宗(日蓮宗)に改宗したそうです。その縁で妙国寺の大檀那となったといわれています。その子孫が松平泰親・信光に仕え、岩津譜代として松平家を支えたといいます。

 時代が下って、和田宇津氏は忠俊の代になって転機が訪れます。武者修行のため、三河国に流れてきた大窪藤五郎という武芸者が宇津忠俊の才能に惚れこんで、我が大窪の名を継ぐものは新八郎忠俊殿しかいない、と言って宇津忠俊に大窪の名を名乗って欲しいと頼み込みました。何の才能かはよく判りませんが、この忠俊は三河物語において、調略・軍事・政治面で大活躍をしており、傑物であることは確かです。但し三河物語は同じ一族の大久保忠教によってかかれたものでありますので、若干割り引いて考える必要はあるかもしれません。ともあれ、困惑した宇津忠俊は主君である松平清康に相談したところ、大窪藤五郎は驍勇(強く逞しい)の士であるから、その通りにせよと命じます。宇津忠俊はそれに従い、自らの名前を大窪忠俊と変えます。この時自分だけではなく自分の兄弟も大窪の氏を名乗るようになりました。大窪藤五郎はこれに大いに感激したようです。『我が姓氏を残せた以上、もはや死んでも悔いは無い』と言い残して1547年(天文十六年)、安祥城をめぐる織田信秀との攻防戦の中で戦死してしまいます。その後、忠俊は大窪の氏をさらに大久保と変えたのが大久保一族の始まりだそうです。

 この辺りのエピソードを調べるにつけ、大窪藤五郎という人物はかなり濃ゆいキャラクターをしているのですが、もう少し深くこの人物についてプロファイリングしてみようと思います。但し、基本となる情報は極めて限られております。
 大窪藤五郎は越前国出身の武芸者ということになっております。そして、自分の名跡を継ぐものを捜し求めていたようです。生国も氏ははっきり書かれており、なおかつ名跡に拘っているところから、ある程度素性が確かな人物だったと思われます。福井県地図を調べてみると福井市に大窪町という在所があります。大窪というのは『大きなくぼ地』という意味ですからどこに有ってもおかしくない地名ではあるものの、日本海に面した小村である福井市大窪町が藤五郎の出身地である可能性は高いと思います。

 本来は姓氏は自らの子孫に継がせるものであり、子供がいなければ一族の誰かを養子に迎えるのが普通です。にもかかわらず、三河国の宇津忠俊に自らの名跡を継がせようとする大窪藤五郎の行動にはやや首を傾げるところがあります。もとより宇津家は三河に土着して数代を経ておりますし、主命とはいえ縁もゆかりもなさそうな一介の武芸者の氏を継ぐべき道理は極めて希薄です。
 それを押して赤の他人に氏を継ぐことを懇請するということは、この大窪藤五郎は越前出身とはいえ、越前国に帰ることが出来ない事情があるのではないかと思うのです。戦国時代なのですから、そういった事例はいくらでもあったでしょう。
 にもかかわらず、宇津忠俊の主君である松平清康が宇津から大窪への改姓を認めているところに考察の鍵があるのではないかと思われるのです。松平清康が家督を継いだ直後、岡崎松平家(後の大草松平家)の信貞を大草に追いやった時、山中城を謀略によって奪取したのは他ならぬ宇津忠俊の父、宇津忠茂でした。詳細は不明なのですが、三河物語を読む限り、兵を率いて攻め落としたのではなく、スタンドプレイだったようです。
 それが、忠俊の代になると兵団を率いるようになります。これが大久保党と呼ばれるもので、1563年(永禄六年)の三河一向一揆においては一門与力あわせて百騎、雑兵をいれて見積もれば三百以上の動員をかけて松平家康方についております。
 宇津忠茂から大久保忠俊に代が変わる過程において、忠俊は軍団を率いるようになったわけです。この時期、松平清康は兵を東奔西走させており、兵は喉から手が出るほど欲しいものだったでしょう。大窪藤五郎は三河でこの兵団の編成に携わっていたのではないか、私はそんなふうに想像します。当初は大窪党として宇津忠俊も参加しておりましたが、大窪藤五郎は忠俊の将器を見抜いて、大窪党の次期総帥とすることを松平清康にかけあったのかもしれません。

 さりながら、軍団編成をするといって一介の流れの武芸者にそのようなことができるとも思えません。『名』を継ぐ後継者を求めているということは大窪藤五郎には身近に一族や家族がいないことを示しています。そういうものを持たないものが軍団編成をするということは何らかの組織のバックアップと軍編成のノウハウが必須だと思われます。越前国の武芸者大窪藤五郎がそういうものを持っていたとして、それは何なのか。次稿で仮説を交えて考察します。

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2008年10月 2日 (木)

川戦:流亡編⑨三河あげます

 初代ウルトラマンに『禁じられた言葉』という回があります。メフィラス星人という悪の宇宙人が地球人の少年をさらって、ある言葉と引き換えに夢や希望を全て実現させる取引をもちかけます。その言葉というのが『地球、あげます』でした。少年は葛藤の末にこれを拒絶し、ウルトラマンが少年を助けて事なきを得ますが、自らの幸福と引き換えにするだけの価値をもつ言葉の重さを考えさせられる話でした。

 今、流亡の境遇にある松平仙千代はそれと同じ境遇におかれておりました。その当時、松平仙千代は弱冠十歳の童子です。父親である松平清康は三河国に自軍を東西に進めておりました。その背後には西条吉良氏や織田氏の支援があったとしても、事実上三河の国主と言ってよいほどの実力を備えておりました。その嫡男として岡崎城で育った広忠は、本来であれば清康が持っていた物を全て引き継ぐ立場にありましたが、その全てを叔父の信定に奪われた格好となっております。
 頼りとするのは、阿部定吉、定次兄弟をはじめとする松平家臣団の一部です。ことに阿部定吉は父の仇として討たれても仕方の無い人物ではありますが、罪滅ぼしに幼君を再び岡崎城の主の座につけるために粉骨砕身します。

 伊勢国神戸から遠江国掛塚に移り、そこから西条吉良氏のライバルであった東条吉良持広を頼り、牟呂を拠点としましたが、尾三連合の討手が彼らに迫り、松平仙千代は牟呂を自焼きして吉田に退きました。尾三連合の討手の攻撃対象には東条吉良氏も含まれていたと私は解釈しております。
 吉田には牧野成敏という牛久保牧野氏の一族が守っておりました。ちなみに吉田と今橋は同じ地名で、牧野氏が改名したそうです。今橋はいまはし⇒忌まわしに通じるネガティブな響きがあり、よしだ⇒吉田とポジティブな地名を良しとしたといいます。牧野氏は永正の頃に今川氏の攻撃目標とされて攻め入られたことはあるものの、総じて今川氏に親近感をもっていた一族でした。下地の戦いで奮戦したのは今川家への忠義立ての一環でもあります。戦い破れて牧野一族は松平清康に帰順したものの、松平家が今川方に立てば三河の勢力図は一気に永正五年の井田野合戦の頃の物に戻りるでしょう。本来松平家を継ぐべき流亡の仙千代は牧野成敏にとっても奇貨でした。おそらくは彼が阿部定吉に説いて、松平仙千代を今川義元に引き合わせたのでしょう。

 さて、松平仙千代は今川義元と対面して助力を願い、今川義元はこれを快く引き受けます。政治的打算はもちろんあるでしょう。今、尾張は織田信秀、三河は松平信定に西条吉良義郷の陣容で固められております。松平広忠に因果を含めた上で、松平家に返してやれば、尾三連合は崩壊する。東三河の国人達は、尾張を奉じる松平と駿河を奉じる松平を引き比べれば、後者の方が和し易いと考えるでしょう。そうなれば、三河国で西条吉良家が孤立することになります。
 失敗するにしても、武田信虎との和睦によって険悪になりつつある後北条家との戦いを控え、後背を脅かされないように三河を牽制をしておく必要がありました。

 その会見においてですが、『家忠日記増補追加』と『松平記』の二つの史料に興味深い記述があることに気づきます。前者は深溝松平家の家忠の日記に孫の忠冬が増補したもので、肝心な部分はその増補分にあります。松平記も成立年代は江戸前期の早い時期にできたものです。その書が言うには、今川義元が松平仙千代を援けるのは、今は亡き東条吉良持広との約束によるものであるということです。どうやら、この会見の時点で吉良持広は死んでいるらしいのです。
 ところが、後に岡崎に帰国した時に松平仙千代は『松平千松丸』と幼名を自署しているのですね。(本稿では松平仙千代と書いていますが、正式には松平千松丸らしいです。)故に松平仙千代は岡崎復帰後に元服したはずなのです。そしてその烏帽子親となったのは東条吉良持広であるということは諸書に書かれております。そして松平仙千代の元服後の名前である広忠の『広』の字は吉良持広の偏諱なのですね。松平記は松平仙千代の元服を1536年(天文五年)の流亡中の出来事としておりますので、牟呂の館を自焼きする以前のことしてしているようです。すなわち松平記は松平仙千代の牟呂脱出から今川義元との会見の間に吉良持広の死があったと記しているわけです。
 実際の吉良持広の没年は1539年(天文八年)だったようです。三河物語は吉良持広の死没について触れておりませんが、流亡の期間に混乱があるようで、1535年(天文四年)十三歳の時から1539年(天文九年)十七歳までとしています。この設定に立てば、吉良持広が広忠の流亡中に死没していてもおかしくは無いわけです。実際は1537年(天文六年)と1538年(天文七年)に松平千松丸、道幹名義で信光明寺と大樹寺に文書を発給しておりますので、松平広忠の岡崎帰還は1537年(天文六年)であると見て良いと思います。『家忠日記増補追加』と『松平記』にある吉良持広の死の記述は広忠の流亡帰還を四年で見た結果に基づく忖度であったと思われます。

 少し話がそれましたが、松平仙千代の流亡は東西吉良家の紛争の種となったのは確かなようです。今川家は協力を約しました。その第一歩として、松平仙千代復帰のための調略をやったようです。東条吉良持広が尾三連合の圧迫を受ける中で、持広の弟である荒川義広は今川方に旗幟を鮮明にします。これを討とうとした西条吉良家の御屋形である吉良義郷は戦死したようです。無論、それまでも松平仙千代の復帰活動は不断に続けられていたでしょうが、今川の諜報力は松平の比ではありません。
 そして、そのターゲットは東条吉良や荒川氏だけではなく、松平の家臣団の手にも伸びました。今川家の力は強力で、まるで魔法のように松平仙千代の目に映ったのではないかと思います。会見で仙千代が三河を今川家に献上するなどとは間違っても言わなかったでしょう。しかし、その会見そのものが、今川義元の三河掌握の端緒となったことは確かでした。

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