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2008年10月23日 (木)

川戦:流亡編⑫内応者たち

 隣国尾張の支援を受け、一門衆とも姻戚関係を結んだ桜井松平信定の課題は家臣団の統制でした。その統制を脅かす事件が起こります。松平仙千代が東条吉良持広の支援を受け、牟呂に立てこもったのです。これは西条吉良家当主義郷にとっても脅威でした。西条吉良家は松平清康を東三河に派遣して、東三河国人たちを尾三連合側につかせました。しかしその嫡子が今川の支援を受けて松平家への復帰運動をしているのです。彼が松平の家督を取り返せば、東三河国人達はオセロの駒をひっくり返したように親今川へと旗幟を翻すことになるでしょう。これを防ぐために西条吉良は東条吉良に攻撃を仕掛けたものと思われます。

 この一環として桜井松平信定は牟呂を攻めます。この時、大窪忠俊を先陣として矢を射掛けさせたというエピソードが三河物語に書かれています。信定としては、大窪忠俊の大窪党も信定方について、仙千代を敵とすることを対外的にアピールすることが目的だったと思われます。しかし大窪忠俊は信定を欺いて矢文で主従の縁を確かめ合ったと三河物語には記されております。大窪忠俊はもとより松平仙千代を岡崎に迎えるべく、その時期を計っていたといいます。
 もっとも、大窪忠俊が桜井松平信定を欺けたかどうかは疑問です。松平信定は宇利の戦いで強兵に当たることを避けて陣を下げたり、下地の戦いでは最前線で兜を脱いで直接部隊の指揮を取るような人物です。当然、大窪忠俊が本気で戦っていないことは察知したでしょう。

 そこで次に取った手段は起請文です。桜井松平信定は大窪忠俊に起請文を提出させて、自らへの忠誠を誓わせました。起請文というのは神の立会いの元で約束を取り交わすことで、現代の契約とは比べ物にならないくらい重いものでした。不履行を行った場合は神罰が下って地獄に落ちるといわれていたのですから。実際信長公記の首巻に織田信秀の弟の信光が起請文破りをして急死した事件が記されていたりします。現代の目で見ると、起請文の誓いを破ることと急死することは別と考えるべきですが、信長公記の作者が両者にあたかに因果関係があるように書いております。当時の人々は神罰はあると考えておりました。それでも松平信定は安心せず、伊賀八幡の七枚起請を三回、都合二十一枚の起請文を大窪忠俊にかかせました。

 それでも、大窪忠俊は志をまげません。三河物語では大窪忠俊は神罰よりも松平仙千代に対する忠誠の方に重きをおいて、神罰覚悟で破ったことにしております。ただし、中世発祥の新仏教の熱烈な信仰者であれば『松平家の氏神』よりも、自ら信じる本尊の方を怖れたのではないか、という気がします。大窪忠俊は同志を募ります。一族兄弟の者、林、成瀬、八国、大原ら松平家臣団を味方につけます。そして、その工作はついに岡崎城の城番をしている合歓木(ねぶのき)松平信孝を味方に引き入れることに成功しました。松平信孝は清康の弟で、桜井松平信定のおいにあたります。
 松平一門衆の一人ではありますが、桜井家が松平惣領になってしまうと、信忠系である彼は完全に主流から外れる事になります。叔父の桜井松平信定が惣領となるよりも、甥の松平仙千代を中心に松平一門と家臣団をまとめ上げ、自らはその後見となった方が得です。その点で大窪ら家臣一派と利害が一致するわけですね。松平信孝は城の鍵を妻に預け、大窪忠俊が求めた時のみこれを渡すように申し付けた上で有馬温泉へ湯治に出かけました。
 有馬温泉というのは摂津国の西北にある有名な温泉地なんですが、ここで有馬温泉に湯治というのは非常に嘘臭いと思っております。細川高国が1527年(大永七年)に都落ちして以来、畿内は大きな動乱に見舞われ、摂津国はその主戦場となっておりました。天文の一向一揆が鎮定したのもごくごく最近の話です。湯治場として昔から有名な場所だったのでしょうが、この時点で戦災がこの温泉場にどのような影響を与えていたのかはわかりません。
 いずれにせよ、城に仙千代が戻ってくれば、岡崎にもどる事態になることは必定なので、本気で西国まで旅するつもりは無かったのでしょう。

 ここまで三河物語や関連史料に即して大窪忠俊(ほぼ全ての史料には大久保忠俊として扱われています。念のため)の動向を見てまいりましたが、腑に落ちないことが一つあります。それは守山崩れから天文の井田野合戦を経て仙千代が流浪する過程において、大窪忠俊の行動が不明だということです。三河物語の作者が一族の大久保彦左衛門忠教であることを考えると、不自然なのですね。『大久保』家のエピソードがないわけではありません。宇津忠茂の山中城奪取のくだりは書かれています。でも、守山崩れや井田野合戦のとき、大窪忠俊はなにをしていたのかの記述はありません。三河物語は清康を殺害した阿部弥七郎のことを日本一の大馬鹿者と罵倒していますが、それはこの忠俊のものではなく、彦左衛門の心の叫びです。寛政譜には牧野氏と松平清康が戦った下地の戦いで忠俊が力戦したことを書いております。この間の重要人物である六名の阿部定吉とは根拠地が隣接しており、婚姻関係による親戚付き合いもしております。しかし、ここにも守山崩れや井田野合戦におけるポジションがみえきません。
 そのくせ松平信定はこの大窪忠俊に対しては警戒しまくっているのですね。わざわざ牟呂で矢を撃たせて主従関係が切れていることをアピールさせたり、起請文を書かせたりと尋常ではありません。大窪忠俊は松平信定がそこまで人心掌握に動く人物です。守山崩れの場や井田野合戦の場にいたのなら、きっと某かの行動は取っているはずですし、親族である大久保忠教は書き残しているはずなのですね。
 にもかかわらず、三河物語にこの期間の大窪忠俊の行動はかかれていないのです。三河物語の各巻の奥書には『子孫への遺言とするために自分の家のことのみ書いた』と言い訳しております。であればなおさら、書かれていてしかるべきことなのではないかと思います。
 その疑問に対する回答は次稿で述べたいと思います。

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