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2008年10月10日 (金)

川戦:流亡編⑩和田郷大窪軍団Ⅰ

 松平仙千代が岡崎城から出奔した後、織田家の支持をもって松平一門主従を率いる立場となったのは桜井松平信定でした。彼は大給松平家、織田弾正忠家、刈屋の水野家と縁戚関係を結び、自らの立場を固めましたが、実際はそれほど強固な力を発揮できた訳ではありませんでした。
 やはり、岡崎城にいる安祥松平家の家臣団との間に良好な関係を築けなかったのが大きかったようです。彼は家臣たちに起請文を書かせて臣従を誓わせ、東条吉良家の助力により牟呂にまで進出してきた松平仙千代を武力で圧迫します。さりながら、家臣達は本気で臣従しているわけでも信定に従って戦っているわけでもありませんでした。
 それを代表して体現しているのが大久保新八郎忠俊であり、三河物語の著者である大久保彦左衛門忠教が属する大久保一門の当主です。これから述べる大久保家の由来は、大久保家の家譜によるものですが、三河物語には書かれていない筋立てです。三河物語が大久保忠教の子孫のために、徳川家と大久保家との関係を記した書物であるならば、家譜に書かれている記事について触れられていて良いとも思うのですが、なぜか書かれていないのですね。

 大久保氏は下野に勢力を持っていた宇都宮氏を祖とし、その分家である武茂氏が泰藤の代に三河国上和田に移住したそうです。また、この泰藤は宇都宮泰藤という名前で太平記にしるされています。九州に落ち延びた足利尊氏が再起して、京を占領し、後醍醐天皇を比叡山に囲みます。後醍醐天皇は降伏し、新田義貞は越前に退去するのですが、その新田義貞に随行する諸将の一人として宇都宮泰藤の名前が出てくるのですね。この後、新田義貞の弟の脇屋義助の配下として転戦しますが、戦況が悪化する中、脇屋義助ともわかれて三河流れ、和田村の妙国寺前に城を構えて土着します。この時、泰藤は出自である宇都宮にちなんで宇津と称し、岳父である土岐頼直の勧めにより法華宗(日蓮宗)に改宗したそうです。その縁で妙国寺の大檀那となったといわれています。その子孫が松平泰親・信光に仕え、岩津譜代として松平家を支えたといいます。

 時代が下って、和田宇津氏は忠俊の代になって転機が訪れます。武者修行のため、三河国に流れてきた大窪藤五郎という武芸者が宇津忠俊の才能に惚れこんで、我が大窪の名を継ぐものは新八郎忠俊殿しかいない、と言って宇津忠俊に大窪の名を名乗って欲しいと頼み込みました。何の才能かはよく判りませんが、この忠俊は三河物語において、調略・軍事・政治面で大活躍をしており、傑物であることは確かです。但し三河物語は同じ一族の大久保忠教によってかかれたものでありますので、若干割り引いて考える必要はあるかもしれません。ともあれ、困惑した宇津忠俊は主君である松平清康に相談したところ、大窪藤五郎は驍勇(強く逞しい)の士であるから、その通りにせよと命じます。宇津忠俊はそれに従い、自らの名前を大窪忠俊と変えます。この時自分だけではなく自分の兄弟も大窪の氏を名乗るようになりました。大窪藤五郎はこれに大いに感激したようです。『我が姓氏を残せた以上、もはや死んでも悔いは無い』と言い残して1547年(天文十六年)、安祥城をめぐる織田信秀との攻防戦の中で戦死してしまいます。その後、忠俊は大窪の氏をさらに大久保と変えたのが大久保一族の始まりだそうです。

 この辺りのエピソードを調べるにつけ、大窪藤五郎という人物はかなり濃ゆいキャラクターをしているのですが、もう少し深くこの人物についてプロファイリングしてみようと思います。但し、基本となる情報は極めて限られております。
 大窪藤五郎は越前国出身の武芸者ということになっております。そして、自分の名跡を継ぐものを捜し求めていたようです。生国も氏ははっきり書かれており、なおかつ名跡に拘っているところから、ある程度素性が確かな人物だったと思われます。福井県地図を調べてみると福井市に大窪町という在所があります。大窪というのは『大きなくぼ地』という意味ですからどこに有ってもおかしくない地名ではあるものの、日本海に面した小村である福井市大窪町が藤五郎の出身地である可能性は高いと思います。

 本来は姓氏は自らの子孫に継がせるものであり、子供がいなければ一族の誰かを養子に迎えるのが普通です。にもかかわらず、三河国の宇津忠俊に自らの名跡を継がせようとする大窪藤五郎の行動にはやや首を傾げるところがあります。もとより宇津家は三河に土着して数代を経ておりますし、主命とはいえ縁もゆかりもなさそうな一介の武芸者の氏を継ぐべき道理は極めて希薄です。
 それを押して赤の他人に氏を継ぐことを懇請するということは、この大窪藤五郎は越前出身とはいえ、越前国に帰ることが出来ない事情があるのではないかと思うのです。戦国時代なのですから、そういった事例はいくらでもあったでしょう。
 にもかかわらず、宇津忠俊の主君である松平清康が宇津から大窪への改姓を認めているところに考察の鍵があるのではないかと思われるのです。松平清康が家督を継いだ直後、岡崎松平家(後の大草松平家)の信貞を大草に追いやった時、山中城を謀略によって奪取したのは他ならぬ宇津忠俊の父、宇津忠茂でした。詳細は不明なのですが、三河物語を読む限り、兵を率いて攻め落としたのではなく、スタンドプレイだったようです。
 それが、忠俊の代になると兵団を率いるようになります。これが大久保党と呼ばれるもので、1563年(永禄六年)の三河一向一揆においては一門与力あわせて百騎、雑兵をいれて見積もれば三百以上の動員をかけて松平家康方についております。
 宇津忠茂から大久保忠俊に代が変わる過程において、忠俊は軍団を率いるようになったわけです。この時期、松平清康は兵を東奔西走させており、兵は喉から手が出るほど欲しいものだったでしょう。大窪藤五郎は三河でこの兵団の編成に携わっていたのではないか、私はそんなふうに想像します。当初は大窪党として宇津忠俊も参加しておりましたが、大窪藤五郎は忠俊の将器を見抜いて、大窪党の次期総帥とすることを松平清康にかけあったのかもしれません。

 さりながら、軍団編成をするといって一介の流れの武芸者にそのようなことができるとも思えません。『名』を継ぐ後継者を求めているということは大窪藤五郎には身近に一族や家族がいないことを示しています。そういうものを持たないものが軍団編成をするということは何らかの組織のバックアップと軍編成のノウハウが必須だと思われます。越前国の武芸者大窪藤五郎がそういうものを持っていたとして、それは何なのか。次稿で仮説を交えて考察します。

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コメント

私、自家の出自を調査中なのですが、そこで三河や大久保というワードにインスピレーションを感じまして書き込ませていただきます。

一般に三河の大久保氏は宇都宮氏の支流であり宇都氏を名乗っていたが大窪藤五郎某の名跡を受け継ぐ形で大窪(大久保)氏が成立したとされていますが、下野国那須郡大久保が起こりであるという説もございます。

後者の説について、なにかご存知ではないでしょうか?後者の情報源は「家紋でたどるあなたの家系」より発見いたしました。

投稿: はかまだひなた | 2014年4月 8日 (火) 21時34分

はかまだひなたさま、いらっしゃいませ。
下野国那須郡大久保発祥説は存じませんでした。興味深いですね。
宇津⇒大久保改姓の経緯については、忠俊だけではなく一族全員が
改姓して宇津氏の名跡を継ぐ者がいないという不自然な話なので、
元々大久保氏だったとすれば、改姓も受け入れやすいものだった
かもしれません。
仰せの説については、折をみて確認をしてみたいと思います。
情報いただきありがとうございました。

投稿: 巴々 | 2014年4月10日 (木) 06時25分

大久保氏は、粟田関白藤原道兼五代の後胤、下野国住人宇都宮左衛門尉朝綱の後裔と伝わる
朝綱九代の孫泰藤は、新田義貞に従っていたが 義貞戦死ののち越前を落ち 三河に移り住んだ。…との情報も見つけました。

元々、越前とは地縁があったのですね。大窪藤五郎某が三河を訪れてきたのには必然だったのかもしれません。

何卒、よろしくお願いします。

投稿: はかまだひなた | 2014年4月15日 (火) 20時20分

仰せのとおり、宇都宮泰藤が大窪藤五郎の先祖と何らかの関係を持っていた可能性はあります。
但し、宇都宮泰藤が越前にいた期間は新田義貞の北国落ちから脇屋義助が守る黒丸城落城までの四年間。その大半を足利(斯波)高経率いる北朝軍との戦いに費やしていました。その二百年後に大窪藤五郎が宇津忠俊と出会うのですが、その二百年間の両家の関係はどうであったのか、これを追ってゆく必要がでてくると思います。
ただ、宇津家はともかく大窪家のことは不明点が数多あるので、少しでも研究が進まないかなぁ、と思っています。
よろしくお願いします。

投稿: 巴々 | 2014年4月18日 (金) 00時18分

新情報を手に入れました。

・大久保村(現・大田原市亀久小字大久保)
「下野国誌」所載の武茂系図には、武茂泰藤の子忠泰は大久保五郎と称し武茂庄大久保郷を領したと記されるが、この大久保郷が当地をさすかどうか未詳。

この情報では泰藤が大久保と称したわけではなくその子が、ということですがこれが大久保発祥説のさらなる情報となるでしょうか。亀久の大久保ですが、城郭・居館跡等は調べた限りありませんが後々足を運んでみたいと思います。ネットや郷土資料で発見できなくても、堀之内という地名だったり誰の者か分からない五輪塔などある可能性は残されていますので。

また、福井市大窪町ですが、オオクボさんが所在していたから大窪という地名になったという説も十分ありうるのではないかと思います。大窪という地名由来について調べたのですが、地勢解釈の大窪ではなさそうです。ちなみに同じ福井市の大久保町に関しては地勢的な大窪かと思います。

大久保五郎の子孫が大窪藤五郎で宇津氏とは同族であったため、他の誰でもない宇津氏に姓を受け継いでほしいと懇願してきたなんて説はいかがでしょうか。

投稿: はかまだひなた | 2014年5月18日 (日) 17時02分

お返事が大変遅くなりました。大変興味深い考察ですね。
下野国武茂郡にある領地に大久保郷が含まれていたということですね。もし、仰せのとおり大窪藤五郎が武茂の一族であれば、二百年を経た再会をはたしたということになって大変ロマンチックな話だと思いました。ありだとおもいます。
ただ、この説においても気になることがあって、なぜ父祖の名乗った大久保ではなく大窪だったのかという点ですね。
 大久保藤五郎がもし実在していてかつ、泰藤の一族だとして過去の領地の地名を名乗るとするなら、初めから大久保を名乗った方が自然かなとおもいました。また教えてください。よろしくお願いいたします。

投稿: 巴々 | 2014年5月25日 (日) 22時05分

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