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2008年10月16日 (木)

川戦:流亡編⑪和田郷大窪軍団Ⅱ

 仮説:大窪藤五郎は本願寺門徒であり、本願寺の命令で門徒兵団を組織するオルグだった!

 ……(^^;;; またしても、という感のある仮説ではありますが、本稿は川の戦国史ですので悪しからず。オルグというのはオルガナイザーの略で、共産主義革命が流行した頃の言葉です。意味合いとしては、社会に浸透して革命結社を組織し、拡大させることを任務とする工作員のことです。
 先行する類例を挙げます。松平親忠の代における石川忠輔です。彼は父親康の命令によって、伯父の康長と計りながら、本証寺門徒を松平親忠の旗本として安祥の城にいれました。大久保党よりも長い期間をかけて編成されているだけに、その規模も後の三河一向一揆の主力となるほどの充実ぶりです。石川家はもともと本願寺蓮如の命で軍事を引き受けるために三河に下った一族です。それと同じく、大窪藤五郎も本願寺のバックアップを受けて大窪党という軍団を形成し、松平清康の旗本として戦力を提供したのではないでしょうか。もちろん、必要に応じて本宗寺実円の動員に応える実働部隊としての性格ももっているということになります。

 次に、大窪藤五郎が本願寺門徒であった場合の前半生を想像してみます。後継者探しに拘っている所から、ある程度年齢が言っている人物でしょう。人間五十年というのが当時の通り相場ですが、武士がの嫡男が元服する頃の歳として、大窪の名跡継承が清康晩年の1531年(享禄四年)時点で、『四十歳』としておきます。この仮定に従うと、大窪藤五郎は1491年(延徳三年)産まれということになります。蓮如が実務を後継者の実如に譲って山科本願寺で隠居していた頃です。生まれる三年ほど前に加賀一向一揆が起こって富樫政親は自害し、加賀国は『百姓の持ちたる国』となっていました。藤五郎が育った大窪の地も負けずに一向宗が盛んだったと思われます。北陸における本願寺教団の中心寺院は越前・加賀国境にある吉崎御坊だったのですから。以後、彼は本願寺教団全盛時代の越前国において少年時代をすごすことになります。
 ところが越前国は朝倉氏の手によって本願寺教団の活動が禁じられてしまいます。藤五郎が『十五歳』の頃、1506年(永正三年)に時の管領細川政元の命令によって、加賀国一向一揆勢は国境を越えて越前国に侵入しました。これを朝倉宗滴が九頭竜川で撃破、一揆勢を押し返してしまいました。それだけではなく、吉崎御坊や和田本覚寺など越前国内にあった本願寺教団の拠点寺院は悉く破却されます。戦後処理として朝倉氏は越前国から一向宗の禁教令を出し、門徒達を国外追放しました。以後、和田本覚寺の門徒達は加賀国に移住し、1567年(永禄十年)に足利義昭の仲介で本願寺と朝倉家が和睦をするまで、越前帰還の戦いを叫び続けることになります。
 大窪藤五郎も和田本覚寺と行動を同じくしていたとするなら、この後の越前や越中の戦いを転戦していたと思われます。和田本覚寺は加賀三ヶ寺よりも、山科本願寺で法主の補佐をする連淳に働きかけます。加賀三ヶ寺は越前奪回や越中の戦いには消極的で、朝倉氏や畠山氏との協調路線をとります。それを嫌った大窪藤五郎が加賀を出て三河に流れてきた、というのはいかがでしょうか。
 三河国の本願寺教団を統括している実円は加賀三ヶ寺よりもむしろ連淳に近しい人物です。大窪藤五郎は三河国に移り住みます。居を構えたのが和田郷だったのは本宗寺との近さもあったとは思うのですが、かつて越前国にあった本覚寺の在所であった和田と同じ地名であることも一因かもしれません。
 彼にしてみれば、越前奪還に消極的な加賀三ヶ寺から、積極的な連淳指導の体制に加賀国を移行させるために、三河で実働部隊をやしなっているつもりだったのでしょう。そして、実円は三河兵を動員して加賀三ヶ寺征伐の兵を加賀国に送り込みます。ところが、畿内で門徒達が暴走し、幕府と本願寺教団との戦争が始まってしまい、越前奪還どころではなくなってしまいました。
 屋上屋を重ねる推論に過ぎませんが、この時点で大窪藤五郎の越前帰国の望みは完全に絶たれたのだと思います。最終的には松平広忠の家臣に落ち着いて、後事を全て大窪忠俊に託して、自らは1547年(天文十六年)に安祥城の攻防戦で討死します。『家名を残せた以上、もはや思い残すことはない』とかなり自暴自棄に陥った言葉が大久保家の寛政重修諸家譜に残されていました。

 さて、大窪忠俊は再び氏を大久保と改めます。大窪藤五郎が家譜に残した言葉を考えると、それはおそらくは大窪藤五郎の生前の事ではなかったと思います。同時代史料を探しましたら、1537年(天文六年)十月二十三日付の八国甚太郎、大窪新八郎忠俊、成瀬又太郎正頼、大原左近右衛門・林藤助忠満宛判物という、仙千代の岡崎帰還を労う文書に大窪新八郎忠俊の名があるそうですから、この時点ではまだ大窪だったことがうかがえます。
 大久保への改姓の動機は寛政重修諸家譜には書かれておりませんが、一説に名を改めた後に悪夢に苛まれるようになったからという話があります。この時、忠俊の相談相手になったのが長福寺の日朝という僧だったといいます。

 宇津氏はもともと上和田妙国寺の大檀那だったのですが、1547年(天文十六年)に亡くなった忠俊の父の忠茂以降、この長福寺に墓所を移しております。同じ年に大窪藤五郎も戦死していますので、このタイミングで、長福寺に帰依したのだと考えることができないかと思っております。つまり、忠俊の家は大窪藤五郎が三河に流れてくるまでは妙国寺を墓所としており、大窪藤五郎の没後は長福寺にきりかわっているのですね。ここに宗旨の揺れがあると私はみております。
 その傍証として、一つの事件を提示します。
 宇津忠俊が大窪忠俊として大窪軍団の兵権を握っていた1543年(天文十二年)に松平家に内訌が起こり、三木松平の信孝が追放されます。一門と大窪忠俊を含む家臣団との対立の延長線上にある事件でした。これに憤った信孝は織田信秀と組んで報復しようと企みます。その手始めにかつて部下として自分に付属していた大窪家家臣の妻女を見せしめに殺そうとするのですが、大窪忠俊はその先手をとって妻女を安全な所に避難させました。その避難先が本願寺教団の三河三ヶ寺の一つ針崎勝鬘寺だったのです。この時、針崎勝鬘寺をはじめとする三河三ヶ寺は不入権をもっており、領主ですら立ち入れない禁域を有しておりました。そこに妻子を匿う事によって事なきを得たわけです。さりながら、通説では大窪(大久保)氏は法華宗徒であり、松平家は浄土宗なので、本願寺教団が介入する余地はないはずなのですね。もちろん、大窪忠俊は松平家の有力家臣でありますし、石川氏をはじめとする三河国の有力門徒衆とのコネクションが無かったわけではないでしょう。さりながら、この行動は武士団の抗争に本願寺教団を巻き込むリスクを負わせるものです。その理由を考えた時、越前出身の武芸者、大窪藤五郎の存在が鍵になるのではないか、と思うわけです。

1506年(永正 三年)九頭竜川の戦い。吉崎御坊、和田本覚寺焼亡。
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          越前国の武芸者、大窪藤五郎某が三河国に流れてくる。
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1535年(天文 四年)大窪藤五郎某の願いにより松平清康、宇津忠俊に大窪姓を名乗らせる。
1543年(天文十二年)松平家内紛。松平信孝、追放される。勝鬘寺、大窪一族を保護。
1547年(天文十六年)大窪忠俊の父忠茂、没。
          安祥城の戦いで、大窪藤五郎某討死。
1556年(弘治 二年)長福寺日朝、住持を継ぐ。
          この前後、大窪忠俊悪夢に苛まれ、日朝と相談の上大窪を大久保に改める?

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