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2008年10月30日 (木)

川戦:流亡編⑫仙千代の帰還

 前稿にて、守山崩れから井田野合戦までの間、史書に大窪忠俊の活動の記録が見当たらないことを指摘しました。そこから導き出せる推察を申し述べます。
 仰々しい書き出しになりましたが、極めて常識的なセンです。――そこに大窪忠俊はいなかったということです。

 では、どこにいたのか。可能性の一つとして石山本願寺をあげたいと思います。前編でも触れたのですが、本願寺法主証如の家宰を務めた下間頼秀の父、頼玄(蓮応)が飛騨国白川郷の照蓮寺宛てに書いた1534年(天文三年)四月四日付の増援依頼の手紙の中に、下間頼玄が美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆に本願寺が危ないので援軍を求めたことが記録されているのですね。これに本宗寺は応じたと思われるのですが、その実体は不明です。これ以外にも、1531年(享禄四年)に大小一揆という本願寺教団の内紛が起こった時に三河から動員がされているのですが、松平側の史料にその記録はみあたりませんが、その当時三河国を統率していた松平清康がそれを知らなかったとは思えません。その空白を埋めるものとして大窪忠俊がいたのだと考えてみました。大窪藤五郎・新八郎忠俊が率いる大窪党は本願寺防衛の為に戦っておりましたが、戦局は本願寺勢に利がありませんでした。三河勢(大窪党らを含んでいると思われる)を呼び出した下間頼玄及び息子兄弟は間もなく失脚。替わって本願寺に入山した蓮淳が教団の実権を握ります。彼は青蓮院門跡を担ぎ出して講和工作をし、1535年(天文四年)十一月末 本願寺と細川晴元・木沢氏との和睦がなって本願寺は幕府の軍門に下ります。
 蓮淳は講和の実現の為に粛清を厭いませんでした。実は本願寺と幕府とは1533年(天文二年)に三好千熊丸(後の長慶)を仲介に一度和睦をしているのですが、末端の小競り合いを収めることができず、再び戦いが始まったという経緯があります。故に蓮淳は下間頼秀を暗殺するなどして容赦のない粛清を行いました。松平清康が守山で死んだのも丁度その頃です。

 三河物語が清康の死を痛切に悼み、阿部弥七郎のことを日本一の阿呆と罵っているところをみると、少なくとも大久保彦左衛門が参照した元史料にはそんな話はなかったと思われます。大窪忠俊は清康の死の報を受け、三河に戻りますが、そこにはすでに後継の仙千代はおらず、桜井松平信定が松平家を総督しておりました。
 松平信定からしてみれば、大窪忠俊は清康の家臣であって信定と直接の主従関係はありません。大窪忠俊のことを井田野合戦の折にその場にいなかった為に、この政権交代劇にも納得できないと見たのでしょう。でも、だからと言って大窪党に対してもう一度合戦を仕掛けるわけにはゆきません。松平家の安寧のためには大窪党を桜井家に引き寄せる必要がありました。それゆえの牟呂攻撃への先陣申し付けであり、七枚起請を三回も書かせたという感じでしょうか。今回の松平信定の家督総攬には自らの意思で家督を奪いにいったというよりも、尾三連合維持の為に織田家が緊急避難的に松平信定を担いだふしがありますので、その対応が後手にまわったというのはあるでしょう。

 以上は、忠俊に自らの苗字を与えた大窪藤五郎が越前から亡命してきた門徒だったらという仮定を前提とするものであり、屋上屋を重ねるものですのでご注意ください。
 史実として大窪忠俊は城番である合歓木松平信孝の留守中に岡崎城奪回作戦を発動させました。

 「三河後風土記正説大全」には湯治に行った松平信孝の留守に岡崎城を守っていたのが石川長右衛門康利・三郎四郎康定兄弟とかかれています。系譜は不明ですが、小川の石川氏の一族でしょう。松平信孝の家臣として付属していたものと思われます。彼らが侵入してきた大窪忠俊らと大立ち回りを演じて討たれたと「正説大全」にはありますが、実相は不明です。
 石川一族の惣領、石川清兼は松平仙千代(広忠)の岡崎復帰後にも重臣として仕え続けております。一門の者を討ち取られて問題がなくてすむとは思えません。

 ただ、その一方で石川一族が大檀那を勤めている本證寺に対し、石山本願寺は積極的に接触しています。それは時に阿弥陀絵像の下付だったり、本證寺住持の法主証如への謁見だったり恩を売るものもあり、長島願証寺の指示に従えとする命令もあったりします。要するに蓮淳の方針に三河三ヶ寺を従わせようとしたわけですね。そして、その方針は領主達に従って、徹底して戦争をするなと言うものだったと思っていていいでしょう。故に石川一族は簒奪者である松平信定に従っていたと考えられます。
 岡崎城が乗っ取られる事態は松平信定には予想はついていたものだと思います。なのに結局松平信定は屈服するかたちで、惣領権を帰還した仙千代に変換します。そこには松平長親の意向もあったでしょうが、結局のところ蓮淳から出ていた門徒の不戦方針が信定の反撃を封じたのだと思われます。

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