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2008年10月 2日 (木)

川戦:流亡編⑨三河あげます

 初代ウルトラマンに『禁じられた言葉』という回があります。メフィラス星人という悪の宇宙人が地球人の少年をさらって、ある言葉と引き換えに夢や希望を全て実現させる取引をもちかけます。その言葉というのが『地球、あげます』でした。少年は葛藤の末にこれを拒絶し、ウルトラマンが少年を助けて事なきを得ますが、自らの幸福と引き換えにするだけの価値をもつ言葉の重さを考えさせられる話でした。

 今、流亡の境遇にある松平仙千代はそれと同じ境遇におかれておりました。その当時、松平仙千代は弱冠十歳の童子です。父親である松平清康は三河国に自軍を東西に進めておりました。その背後には西条吉良氏や織田氏の支援があったとしても、事実上三河の国主と言ってよいほどの実力を備えておりました。その嫡男として岡崎城で育った広忠は、本来であれば清康が持っていた物を全て引き継ぐ立場にありましたが、その全てを叔父の信定に奪われた格好となっております。
 頼りとするのは、阿部定吉、定次兄弟をはじめとする松平家臣団の一部です。ことに阿部定吉は父の仇として討たれても仕方の無い人物ではありますが、罪滅ぼしに幼君を再び岡崎城の主の座につけるために粉骨砕身します。

 伊勢国神戸から遠江国掛塚に移り、そこから西条吉良氏のライバルであった東条吉良持広を頼り、牟呂を拠点としましたが、尾三連合の討手が彼らに迫り、松平仙千代は牟呂を自焼きして吉田に退きました。尾三連合の討手の攻撃対象には東条吉良氏も含まれていたと私は解釈しております。
 吉田には牧野成敏という牛久保牧野氏の一族が守っておりました。ちなみに吉田と今橋は同じ地名で、牧野氏が改名したそうです。今橋はいまはし⇒忌まわしに通じるネガティブな響きがあり、よしだ⇒吉田とポジティブな地名を良しとしたといいます。牧野氏は永正の頃に今川氏の攻撃目標とされて攻め入られたことはあるものの、総じて今川氏に親近感をもっていた一族でした。下地の戦いで奮戦したのは今川家への忠義立ての一環でもあります。戦い破れて牧野一族は松平清康に帰順したものの、松平家が今川方に立てば三河の勢力図は一気に永正五年の井田野合戦の頃の物に戻りるでしょう。本来松平家を継ぐべき流亡の仙千代は牧野成敏にとっても奇貨でした。おそらくは彼が阿部定吉に説いて、松平仙千代を今川義元に引き合わせたのでしょう。

 さて、松平仙千代は今川義元と対面して助力を願い、今川義元はこれを快く引き受けます。政治的打算はもちろんあるでしょう。今、尾張は織田信秀、三河は松平信定に西条吉良義郷の陣容で固められております。松平広忠に因果を含めた上で、松平家に返してやれば、尾三連合は崩壊する。東三河の国人達は、尾張を奉じる松平と駿河を奉じる松平を引き比べれば、後者の方が和し易いと考えるでしょう。そうなれば、三河国で西条吉良家が孤立することになります。
 失敗するにしても、武田信虎との和睦によって険悪になりつつある後北条家との戦いを控え、後背を脅かされないように三河を牽制をしておく必要がありました。

 その会見においてですが、『家忠日記増補追加』と『松平記』の二つの史料に興味深い記述があることに気づきます。前者は深溝松平家の家忠の日記に孫の忠冬が増補したもので、肝心な部分はその増補分にあります。松平記も成立年代は江戸前期の早い時期にできたものです。その書が言うには、今川義元が松平仙千代を援けるのは、今は亡き東条吉良持広との約束によるものであるということです。どうやら、この会見の時点で吉良持広は死んでいるらしいのです。
 ところが、後に岡崎に帰国した時に松平仙千代は『松平千松丸』と幼名を自署しているのですね。(本稿では松平仙千代と書いていますが、正式には松平千松丸らしいです。)故に松平仙千代は岡崎復帰後に元服したはずなのです。そしてその烏帽子親となったのは東条吉良持広であるということは諸書に書かれております。そして松平仙千代の元服後の名前である広忠の『広』の字は吉良持広の偏諱なのですね。松平記は松平仙千代の元服を1536年(天文五年)の流亡中の出来事としておりますので、牟呂の館を自焼きする以前のことしてしているようです。すなわち松平記は松平仙千代の牟呂脱出から今川義元との会見の間に吉良持広の死があったと記しているわけです。
 実際の吉良持広の没年は1539年(天文八年)だったようです。三河物語は吉良持広の死没について触れておりませんが、流亡の期間に混乱があるようで、1535年(天文四年)十三歳の時から1539年(天文九年)十七歳までとしています。この設定に立てば、吉良持広が広忠の流亡中に死没していてもおかしくは無いわけです。実際は1537年(天文六年)と1538年(天文七年)に松平千松丸、道幹名義で信光明寺と大樹寺に文書を発給しておりますので、松平広忠の岡崎帰還は1537年(天文六年)であると見て良いと思います。『家忠日記増補追加』と『松平記』にある吉良持広の死の記述は広忠の流亡帰還を四年で見た結果に基づく忖度であったと思われます。

 少し話がそれましたが、松平仙千代の流亡は東西吉良家の紛争の種となったのは確かなようです。今川家は協力を約しました。その第一歩として、松平仙千代復帰のための調略をやったようです。東条吉良持広が尾三連合の圧迫を受ける中で、持広の弟である荒川義広は今川方に旗幟を鮮明にします。これを討とうとした西条吉良家の御屋形である吉良義郷は戦死したようです。無論、それまでも松平仙千代の復帰活動は不断に続けられていたでしょうが、今川の諜報力は松平の比ではありません。
 そして、そのターゲットは東条吉良や荒川氏だけではなく、松平の家臣団の手にも伸びました。今川家の力は強力で、まるで魔法のように松平仙千代の目に映ったのではないかと思います。会見で仙千代が三河を今川家に献上するなどとは間違っても言わなかったでしょう。しかし、その会見そのものが、今川義元の三河掌握の端緒となったことは確かでした。

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