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2008年11月27日 (木)

川戦:下克上編⑧第一次小豆坂合戦のまぼろし

 本稿では三河物語を重要史料に位置づけて考察を進めております。入手が容易ですし、現代語訳本も出ています。大久保彦左衛門忠教の原著は当て字がはなはだしく、判読もかなり難しいので、そういう点で重宝しているのですね。また、江戸時代の比較的早い段階で成立した史料であるので、後年の徳川幕府による徳川将軍家創業記録の礎となっております。徳川実紀などを読んでみても三河物語からの引用はかなりされております。(徳川実紀の引用は都合によって筆が曲がることがままありますので、正しい意味での引用とは言いがたいところはあります)
 但し、大久保彦左衛門忠教とて正確な歴史を記そうとしてこの本を書いたわけではありません。子孫に将軍家への忠節を教えるために書いたとあり、『門外不出』とキッパリ記されております。タテマエではあるのですけどね。実際にはこの本は江戸時代のかなり早い時期から流布本が流通しております。そのあたりの事情は安彦良和氏が描いた『マンガ日本の古典 三河物語』でわかりやすく説明されております。簡単に要約すると、一心太助が隠居爺である大久保彦左衛門にこの本を門外不出とするのは惜しい、志を同じくする者にも読ませるべきと口説き落として、内緒で市中に出回らせた。それを彦左衛門は薄々知って、というか見て見ぬ振りしたのですね。各巻の後書きには門外の読者に対する言い訳が書き連ねてあって、それが笑いをさそいます。『この本は我が子孫のために書いた門外不出の書である。だから自分の一族のことしか書いていないことを責めてはいけない。あなた達も、自分の一族のことを本を書いて残してはいかが』(一心太助が口説くところは安彦良和氏の創意です。念のため)

 三河物語とは大久保家の、それも大久保彦左衛門忠教の武士道観が随所に散見される、主観的な歴史記述です。大久保忠彦は1560年(永禄三年)生まれであり、彼が描く広忠の美談は彼自身が体験したことではありません。おそらくは一族の家記や主家の記録に基づいて書かれたものなのでしょう。
 いずれにせよ、徳川家の歴史を研究するに当たって、三河物語は重要史料であることは間違いのないところです。

 閑話休題。安祥合戦や小豆坂合戦は松平広忠と織田信秀との間の抗争です。三河物語が徳川家・大久保家の視点からこれらの事件を取り上げているのと同様に、織田家の側から見たこれらの事件を記述している史料があります。それが大田牛一の『信長公記』であり、小瀬甫庵の『信長記』です。大田牛一も小瀬甫庵も織田信長と豊臣秀吉に仕えた人物です。特に大田牛一は織田信長の側近として身近にいた人物なので
織田信長の事跡を調べる上で『信長公記』の史料価値は極めて高いものです。それに比べると小瀬甫庵の『信長記』は大田牛一本をベースにして、読み物としてより面白くなるようにアレンジメントを加えています。彼の手によって、桶狭間合戦は奇襲攻撃になったり、墨俣に一夜城が築かれたり、長篠合戦で鉄砲三段撃ちとなったり大田牛一本に書かれていないことがしるされており、その典拠となる史料がどこにもないことから、近年これらは創作であると見なされております。ただ読み物として甫庵本は牛一本より面白いことは確かで、そのせいでこれらの本がでた江戸期以降、甫庵本は牛一本より広く流布されることになりました。
 三河物語は言います。信長記は誤りが多い。全てのことが間違いとは言えわないが、全体の三分の一が本当にあったこと、三分の一がそのままではないが似たようなことがあった。残り三分の一はまったくなかったことである、と。これはおそらく、甫庵本のことを言っているものかと思われます。

 牛一本『信長公記』は小豆坂合戦を取り上げています。ところがこの内容は三河物語がいう小豆坂合戦とは様相を異にしております。
 先ほど『信長公記』は信憑性が高いと書きましたが、必ずしもそうではない部分もあります。それは首巻の部分です。首巻においては、織田家の成り立ちから織田信長が足利義昭を奉じて上洛するまでのことが描かれていますが、1560年(永禄三年)の桶狭間合戦を天文二十一年の事にするなど、結構ミスが目立ちます。とはいえ、三河物語のこの辺りの記述にしても不整合な部分はままありますので、ある程度の精度を確保している複数の史料をつき合わせることが重要だと思います。
 小豆坂合戦については、信長公記も三河物語もあまり詳しい書き方をしていません。共通点を抜き出すならば、三河国に入って西上する今川軍と安祥から東下する織田軍が遭遇して戦ったというところですね。勝ち負けを別にすると、野戦を行って織田勢が安祥に引き上げたところまでは共通しております。
 詳細の異同はたくさんあるのですが、主だった相違点は、合戦時期です。三河物語自体には合戦時期に関する記述はありませんが、1548年(天文十七年)七月朔日付朝比奈籐三郎宛今川義元の感状に三月十九日に織田信秀と小豆坂で合戦に及んだとあります。三河物語は竹千代六歳時(1547年・天文十六年)の拉致事件に端を発して今川の援軍動員、小豆坂合戦という流れで描写しておりますので、今川義元の感状の言う小豆坂での戦闘を三河物語の小豆坂合戦に比定することができます。
 対して信長公記はこれを八月のこととしております。三河物語と同じく、それがいつの年かは明記されていないのですね。三月と八月の相違を重視して異なる合戦であることを強調する研究者が多いのですが、信長公記の記事の最後に興味深い文面があります。『是れより駿河衆人数打ち入れ候なり』と。つまり、以後三河国に今川勢が進駐したと書かれています。それが実現するのは早くとも1547年(天文十六年)以降です。すなわち、月の異同はあってもどうやら同じ合戦のことをいっている、少なくとも駿河勢が三河に入った前後の話をしているようなのです。

 但し、その解釈をとって信長公記を読むとやや困ったことになります。というのはこの戦いで活躍したはずの織田信秀の弟、織田与次郎信康が1548年(天文十七年)以前におこった(天文十六年説と天文十三年説があり)斎藤道三との戦いにおいて戦死しているからです。
 この矛盾を解決するために、小豆坂合戦は1542年(天文十一年)と1548年(天文十七年)の二回起こったという説が出てきました。信長公記の小豆坂合戦は1542年(天文十一年)であるとし、三河物語の小豆坂合戦とは別の合戦であるということです。第一次小豆坂合戦というわけですね。
 この小豆坂合戦を天文十一年とした根拠になるのが小瀬甫庵本『信長記』です。これだと、織田与次郎信康の死亡時期の矛盾や、合戦時期の異同をうまく説明できます。但し、甫庵本に書かれていて牛一本に書かれていないことの多くは小瀬甫庵の創作であるケースがままあります。同時代に生きた武功で成り上がった人々には受けがよかったかもしれませんが、このスタイルは後世の歴史研究家からはあまり受けがよろしくありません。
 第一、小豆坂合戦を天文十一年説では1542年(天文十一年)の段階で駿河勢が三河進出していないことを説明できませんし、1548年(天文十七年)三月十一日付の北条氏康が織田信秀に送った書状の中に、信秀が安祥城を攻め落としたのは去年のことであるという言及に矛盾が生じます。信長公記では、安祥城には織田信広を入れていたことが明記されているのですが、1547年(天文十六年)まで安祥城を松平勢が保っていたとすれば、それは事実ではないことになりるでしょう。

 結局の所どの史料をどのように読むかによって解釈の分かれるところです。私としては、創作要素の多い小瀬甫庵本『信長記』には信をおかず、後から家の記録を調べて書かれたものであろう信長公記の首巻と三河物語上巻(1542年(天文十一年)の時点で大田牛一は十五歳、大久保忠教はまだ生まれていません)は信はおくものの同時代史料としては見なさず、日付のついた書状を優先したいと思います。
 その場合、1542年(天文十一年)に起こったとされる小豆坂合戦はまぼろしとなり、それに先行して1540年(天文九年)に陥落したとされる安祥城は1547年(天文十六年)まで後ろずれするということになります。安祥落城1540年(天文九年)説はどうも東栄鑑という史料によるところらしいです。これもまた史料としての価値は低いとされています。おそらくは、小瀬甫庵本『信長記』の記述をもとにそれに整合性をとるようにして書かれた年代史なのだろうと推察します。

 つまるところ、1542年(天文十一年)に起こったとされる第一次小豆坂合戦は小瀬甫庵本『信長記』の断定を受け入れられるか否かにつきる。私はそう考えます。

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2008年11月25日 (火)

川戦:下克上編⑦天文九年の安祥城陥落説

 歴史の分野においては研究が進むことによって、年表が書き換えられるということがままあったりします。例えば、今川氏豊が織田信秀に那古屋城を奪われた年代ですが、『那古屋城合戦記』という古文書には1530年(天文元年)とされていたために、長くこのことが信じられていたのですが、近年公家の日記の研究が進むにつれて矛盾が指摘されるようになっております。公家の山科言継と飛鳥井某が1532年尾張に下向して勝幡城で蹴鞠の芸を披露した時、那古屋城から今川氏豊が招待されて見物していた旨が記されております。『那古屋城合戦記』は書名が示すとおり、戦記ものですね。本書に限らず戦記物や軍記物は話を面白くするための脚色や誇張、史実と異なる編集がされているケースがままあります。対して、公家の日記は公家が子孫に同じ仕事をこなせるようにと書かれた業務日報のようなものであり、子孫はそれを代々受け継いだ仕事の手本としました。これを有職故実といいます。また、同時代を生きた者によるリアルタイムな記録であることから一次史料と呼ぶことが出来、その信憑性は高いものと言えるでしょう。加えるなら、公家の日記においてはこの時点で今川氏豊は元服すらしていません。よって、『那古屋城合戦記』の記述を信じるにせよ、実際に織田信秀が那古屋城を乗っ取ったのはもっと後のこと指摘されています。
 松平広忠の流亡の帰還において、三河物語は二つ間違いを犯しています。一つは流亡の開始の時期。守山崩れのあった同じ月に松平仙千代は岡崎を出ているはずです。広忠の生年を考えればこの時十歳でなければならないのに十三と書いています。また、帰還の年次も十七の春としています。この十三歳というのは、清康が松平家を相続した年齢と間違えたとも考えられるのですが、そうすると帰還は十五歳の春となるはずです。ところが、信光明寺文書の判物写しに三河物語にも書かれている大窪忠俊らへの松平千代松(仙千代=広忠)による感状があるのですが、その日付は天文六年十月二十三日なのですね。
 単純に広忠の生年と年齢に照らしあわせてみると、広忠十七の春とは、1541年(天文十年)にあたります。この年、広忠は水野忠政の娘、於大と結婚していますので、広忠の岡崎帰還という慶事に、婚姻と言う慶事で繋いだのかもしれません。とはいえ、於大と結婚したと書いてすぐ、水野氏の離反で離縁したと続け、そのすぐ後段で戸田氏より後妻を迎えた話をしております。於大との間に竹千代が生まれたことを簡単に記し、農作業に従事する重臣近藤と広忠との心温まる交流エピソードを長々と記されています。
 信定の死は広忠の岡崎帰還の翌年のはずですが、この慶事記事のあとになっています。要するに三河物語は広忠の代における事件の並びは必ずしも年代順になってないようです。以下、三河物語のいて松平広忠が岡崎に復帰してから、死ぬまでの流れを書き出します。

 ①広忠岡崎復帰。
 ②広忠、水野の娘と結婚。竹千代誕生。後に離婚。後妻に戸田の娘を迎える。近藤の話
 ③佐久間斬り
 ④桜井信定の病死
 ⑤安祥陥落
 ⑥松平忠倫離反。
 ⑦酒井将監、大原左近右衛門、近藤伝次郎離反。
 ⑧松平信孝、放逐される。
 ⑨松平忠倫暗殺。
 ⑩竹千代、戸田の岳父に拉致され、織田家に送られる。
 ⑪今川義元、広忠の要請により援軍を出す。
 ⑫松平信孝、戦死。
 ⑬小豆坂合戦
 ⑭広忠の死
 ⑮太原崇孚、安祥城を攻め取り竹千代、駿府に送られる。

 ①から④は広忠にとっての良いニュースです。そして⑤から⑮までは松平家崩壊に繋がる悪いニュースです。時系列ではなく、広忠の代における良い記事と悪い記事をまとめて語るという構成をとっているわけです。また、三河物語はあまり年号を使わず、松平家当主が何歳の頃、これこれこういう事件が起こったという書き方をします。ところが、その他の史料とつき合わせてみると結構異同があるのですね。後世の歴史家がその整合性を埋めようとした結果、史書が一度しか触れていない事件が二度三度おこったり、発生年次が大幅に前後にずれ込んだりするという解釈になっています。
 それが安祥合戦だったり小豆坂合戦だったりするのです。

 いわゆる安祥合戦というのは、織田信秀が1540年(天文九年)に安祥城が陥落させることに端を発した安祥城の攻防戦で、1545年(天文十四年)の第二次合戦を経て、1549年(天文十八年)に今川軍の太原崇孚が織田信広の守る安祥城を陥落させて決着するまで、三次に渡る合戦が繰り返されたことをさします。
 但し、三河物語には安祥陥落の年次は記されていないですし、1545年(天文十四年)の第二次安祥合戦については言及されていません。ところが、平野明夫氏の『三河松平一族』によると1548年(天文十七年)三月十一日付の北条氏康が織田信秀に送った書状の中に、信秀が安祥城を攻め落としたのは『去年』のことであるという言及があるらしいのです。1548年(天文十七年)の時点での『去年』を『きょねん』と解釈すれば、1547年(天文十六年)となります。これを『さるとし』と解釈すれば単純に過去を指す事にもなるのですが、1540年(天文九年)からは実に七年前のことになるのですね。この書状は時事めいたことを書いているので、『さるとし』と解釈するのはやや不自然に感じます。三河物語を含め、安祥合戦を扱う史料のほとんどは後年になって書かれたものです。この書状は同時代に起こったニュースについて極めて早い段階で言及されたものであり、史料としての価値は極めて高いといえるでしょう。(別項にて詳しく解説いたします)

 もし、これが事実とすればではなぜ安祥城陥落が1540年(天文九年)と特定されたのか。それが何に基づいたものなのかを考えておく必要があるでしょう。その事情は小豆坂合戦にあり、というのが私の見解です。その件については次項に触れます。

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2008年11月20日 (木)

川戦:下克上編⑥三傑誕生

 流亡の松平仙千代が岡崎に帰還し、元服して広忠と名乗った年である1537年(天文六年)の二月六日に尾張中村にて豊臣秀吉が生まれております。もっともこの時点で豊臣家などは影も形もありません。秀吉の生年を含め、彼の前半生を追った同時代史料はありませんので、確定的なことは不明です。豊臣秀吉が天下人になった後に作られた伝記の記述から推察するしかありません。
 豊臣秀吉に織田信長と徳川家康を加えた三名をまとめて戦国の三傑と呼ぶことがあります。彼らは天下に覇を唱え、百五十年前後続いた戦国時代を終結させて、後に続く三百年の泰平をもたらした英傑達です。本稿ではこの時期、天文年間に誕生した戦国三傑の誕生シチュエーションを素描してみたいと思います。

 三傑のうち、一番早く生まれたのが織田信長です。1534年(天文三年)五月十二日と言いますから、織田信秀が織田達勝と争って和睦した翌年にあたります。京においては天文の一向一揆まっただなかで、乱世が一つのピークを迎えた頃でした。生まれたのは勝幡城です。那古屋合戦記という読み物に1532年(天文元年)にここの城主だった今川氏豊が織田信秀に城を追われたという話があったため、信長は那古屋城で生まれたという説が信じられていたのですが、1533年(天文二年)に山科言継が尾張に下向した折に勝幡城で今川竹王丸(氏豊)にであったという記事が彼の日記に載っていることが確認されたため、この時点で織田信秀は那古屋城を奪取していないことが明らかになっております。それどころか今川氏豊は元服すらしていないのですね。よって、信長は信秀の所領である勝幡で生まれたということになりました。
 織田信秀は人生において何度か居城を変えています。最初が父親である信定から譲られた勝幡城、次に今川氏豊から奪った那古屋城。さらにその城を息子である吉法師(信長)に譲って古渡に遷り、その古渡の城が美濃遠征中に織田彦五郎に焼かれたために、新たに末盛に築きました。
 息子の信長も那古屋城を皮切りに清洲城、犬山城、岐阜城、安土城と城を転々としています。この信長の居城の転出を城下の家臣集住のきっかけであり、兵農分離へと繋がったなどの話をききますが、その伝でゆくと兵農分離の嚆矢は父親の信秀であるということも可能になるのですね。
 彼は嫡男として那古屋城で四人の付家老の撫育を受け、帝王学を学びながら成長します。織田信秀は何が財源だったのか不勉強ゆえに良くわかりませんが、とにかく大金持ちでした。だから、最新鋭の兵器である鉄砲も信長の為に鉄砲指南ごと買い与え、その操作法を学ばせたりしております。それらの情景は大田牛一の信長公記に素描されております。幼少期の信長は早熟で覇気がありあまった若武者でした。それが過ぎてうつけと呼ばれることもママありましたが、彼はかれの信念で戦闘集団を作ろうとしていたのではないかと思われるフシもあるのですね。ともあれ、そう遠からず信長の活躍は本稿でも扱うことになるだろうと思います。

 次に秀吉ですが、尾張国中村のなかという百姓の娘から生まれます。百姓といっても専業農民のことではありません。百姓が農民をさすようになるのは江戸期に入って、武士階級に系図買いが横行して自らの姓を源平藤橘のどれかになってしまった以降の話なのですね。百姓という言葉のそもそもの意味は源平藤橘以外の姓を持つ者、転じてこの時代では高い身分を持っていない者くらいの意味に落ち着いております。この当時の百姓は武装農民といっていいでしょう。農閑期に領主の号令にしたがって鎧櫃と槍をかついで城に参上するという情景も普通にあったようです。
 父親は木下弥兵衛という富農だったという説もあるのですが、諸説入り乱れており、秀吉が太閤となった時に彼の出生譚は大きく捻じ曲げられてしまったせいで、その実相はうかがい知れません。
 木下弥兵衛父親説に従うと、彼は間もなく死んで、未亡人となったなかは、竹阿弥という男と再婚しました。この竹阿弥と日吉丸(のちの豊臣秀吉)とは折り合いが悪く、早々に遠江に家出します。そこから彼の『武士』としてのキャリアが始まるわけです。

 三人目の家康については、詳細を別稿で論じたいと思います。ただし、私の見るところ松平家とその家臣団は内外に様々な形を抱えており、三河物語をはじめとする徳川創業期を記した諸書がいうような麗しい君臣の愛情の交流などはなかったと考えています。但し面白いことに、松平家臣団は当主が幼君である間は一致団結してこれを守ります。それが年を経て自らの判断で家臣達を動かすようになると話が変わってくるのですね。それは、信忠や清康が体験してきたこと、そして広忠がこの後体験するだろうことです。竹千代は松平広忠の息子として生まれましたが、松平家、ことに安祥家の累代の歴史をさかのぼるとそれは決して祝福されるような状況ではなかったことがうかがえます。桜井信定が松平家を統括できなかったことによって安祥―岡崎松平家には一つのパターンが出来上がってしまいます。それが後の徳川家康の家康の前半生における苦難として待ち構えることになるのです。

 桜井信定が死んだ同じ年、尾張国で織田信秀が今川氏豊から那古屋城を分捕ります。時期的にみて、妹婿が今川義元の実力に屈服されられた事に対する仕返しのようにも見えなくもありません。
 今川氏豊は宗家より斯波家の監視を仰せつかっていました。斯波家は既に復帰の見込みの無いほど没落しており、実権は守護代織田大和守家に移っていました。那古屋今川家の役目はすでに終わっていた
とみてよかったかもしれません。但し、その目的を考えるならば氏豊は引き続き那古屋にいて台頭する織田家の動向を見張るべきだったでしょう。松平家が親今川に傾くことによって尾張本国が駿河国の今川家の射程に入ってきたのですから。そこに先手をとったのが織田信秀でした。機を見るに敏とは彼のためにある言葉かもしれません。
 信秀は奪った那古屋城を嫡男の吉法師に与え、自らは近傍の古渡に城をこしらえてそこに移りました。そこを押さえておけば、伊勢湾沿岸の主要な港である熱田を押さえられます。津島だけではなく、熱田を求め、流通を押さえにかかったのだと思われます。これによって信秀は大きな財力を得ることができました。そして、征服事業に乗り出してゆくのです。

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2008年11月18日 (火)

川戦:下克上編⑤桜井信定の蹉跌Ⅳ

 手詰まり状況の信定に対し、攻めに転じていたのが仙千代を擁する阿部定吉でした。彼は伊勢へと逃れた後、遠江の今川領に入り、それから三河で東三河の国人の下で遊説を始めます。この時点で阿部定吉は今川家と接触して奪還の戦略設計図を描いていたのかもしれません。
 当主の今川義元は武田家との婚姻とそれが原因となる北条氏との対立に忙しく、三河国に直接介入することは出来なかったと思われます。今川義元が松平仙千代と阿部定吉を後援したのは、次善の外交戦術だったのでしょう。仙千代の父親である『松平清康』の名を利用して、東三河の国人達を今川方に靡かせる手段にでます。
 かつて松平清康は尾三連合の一翼である西条吉良家の名代として東三河に派兵し、当地の国人領主達を服属させました。しかし、東三河の国人達にしてみれば今川からの離反は不安なはずです。今川氏は永正年間には三河国に侵入し、牧野氏を討ち、諸族を平らげて岡崎にまで迫ったのですから。
 そんな今川氏に服属し、その後松平家=西条吉良家に靡いてしまった以上、再び今川氏につく彼らの行動は裏切りとそしられかねません。しかし、東三河の国人達を服属させた松平氏が内訌した結果、仙千代が今川家のお墨付きを得ているならば話は別です。彼らが服属したのは松平であって西条吉良家ではないという言い訳がなりたつのですから。

 そして東条吉良家までがこれに加担します。東条吉良家は西条吉良家の対立勢力でしたが、当主の東条吉良持広はこの頃までに西条吉良家に事実上屈服しています。彼には嫡男がいるにもかかわらず、西条吉良家から養子をとって跡継ぎとせねばならないところまで追い込まれていました。
 東条吉良持広は一発逆転を狙って仙千代の支援に加わったと見てよいでしょう。東条吉良持広は松平仙千代を領地の牟呂に入れて保護します。
 牟呂は吉良家家老の富永氏の城です。富永氏の旧領、野田を支配する菅沼氏と関係が深く、野田菅沼氏が松平仙千代を支持したことに呼応したのだろうと思います。
 この野田菅沼氏は一度西条吉良家と結び、宇利の熊谷氏を追い出してそこに一族の者を入れておりました。宇利は今川領と接する土地であるだけに、野田菅沼氏は今川氏の反撃に備えねばなりませんでした。そのプレッシャーは並々ならぬものだったでしょう。そんな野田菅沼家の当主、定則にとって、今川家のお墨付きを得ている松平仙千代が東三河に来ていたのは、事実上の宗主を西条吉良から今川へと乗り換える好機だったと思われます。

 この事態に西条吉良家は本気になって東条吉良家を潰しにかかり、戦争を仕掛けます。その戦闘の経緯は詳らかではありませんが、それから間もなく東条吉良家持広は亡くなり、息子の吉次は織田信秀の人質になって尾張に送られ、東条吉良家は西条吉良義郷の弟義安が継ぐことにより、完全に乗っ取られた形になります。
 そのタイミングで桜井松平信定も牟呂に兵を出し、松平仙千代を攻めに行きます。西条吉良家の意向に従ったものでしょう。三河物語ではただの小競り合いのような描かれ方をされていますが、仙千代を保護した東条吉良持広がその同時期にどんな目にあっているかを考えると、東条吉良持広の没落と桜井松平信定の牟呂攻撃は連動していたとみるのが妥当だと思われます。
 桜井松平信定は大窪忠俊を先陣に仰せ付け、牟呂を攻撃させますが、大窪忠俊は真面目に戦っていなかったようです。三河物語では矢文を交わして偽りの攻撃であることを真の主人に告げたとされています。それでも西条吉良家の攻撃に東条吉良持広が屈服したため、仙千代方は牟呂を自焼きして吉田(今橋)に撤退しました。
 一時的な勝利を桜井信定は得ましたが、結局それは自らが松平家臣団を掌握出来ていないことを再確認したことに過ぎなかったのです。その雰囲気は一門の者にも波及しました。桜井松平家が安祥家に取って代わったことで、損を蒙った人物が仙千代方に内通を始めたのです。それは合歓木(ねむのき)松平信孝でした。彼は清康の弟であり、信定よりも血縁的に仙千代に近い。清康の弟、仙千代の叔父という立場は桜井信定が松平一門を統括することにより、桜井家の一党に移ることになるでしょう。信孝は信定の甥ではありますが、以前よりは肩身が狭くなっていたと思われます。現在、叔父から広忠がいない岡崎城の留守を預かっていますが、広忠の運動が失敗したことが明確になって余裕が出来れば、あるいは信定が追い詰めれられて岡崎城を他人にまかせられなくなれば、岡崎城を取り上げられるのは明白です。そして、その時には松平一門の庶流の一つとしてしか扱われなくなるでしょう。
 桜井松平信定は合歓木松平信孝に対しても後手を踏むことになりました。合歓木松平信孝が大窪忠俊と通じて城を空け、その隙に大窪忠俊が岡崎城を乗っ取ったのです。対抗して戦いを挑まなかった理由についてはいくつか考えられるでしょう。
 一つは、兵をだしても彼らが本気で戦わなかったため、桜井松平信定に安祥家家臣団を御する力がないことが一門衆をはじめとした大衆の目にさらされたこと。もう一つは、天文一揆で敗北した本願寺教団が戦いを禁じていたことです。清康がやったような松平家を二分するような争いは出来なかった。清康が松平家を相続した頃とは違い、仙千代の背後には今川がいました。これを叩けば次には今川義元が直接出張ってくるでしょう。自らの背後には織田信秀がいるとはいえ、そうなれば西三河が織田と今川との戦いの地となります。
 桜井松平信定はいずれそうなると見通していたのではないでしょうか。松平仙千代が岡崎に帰還した後、信定は自ら清康と阿部定吉のいる岡崎城に出仕します。一門の長老である長親のとりなしもあったとは思われますが、桜井信定はその場で赦されます。信定が清康を殺したと仙千代が考えていたなら、もっと報復的な処断が下されたと思われるのですが、せいぜい信定の弟である青野松平義春との一門内での序列をあいまいにして諍いの種を残した程度です。事の発端の清康暗殺事件は阿部弥七郎の愚かな誤解による不幸な事故として処理されました。桜井信定は結局、清康を殺した安祥家家臣達の罪を問うことは出来ませんでした。
 その代償は尾三連合の霧散。松平家は吉良家ではなく、今川家につくことになりました。それだけではなく、西条吉良家を除く三河国の大半が今川家に靡く結果となったといっていいでしょう。西条吉良家もこの期間の戦いで当主西条吉良義郷を失っています。

 翌年、松平信定はなくなります。死因は不明ですが、彼は自分の能力と役割を自覚し、それ以上のことに踏み切れなかった。そのために家臣団を掌握できなかったのが最大の敗因でしょう。ある種聡い人物ではありますが、その聡さゆえの限界が露呈した形になりました。そこが自らの限界を超えて動き、英雄として名を成した松平清康との違いがそこにあったと言えるでしょう。

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2008年11月13日 (木)

川戦:下克上編④桜井信定の蹉跌Ⅲ

 桜井信定が家臣団を含めた松平一門をどのようにまとめてゆこうとしたのか、その構想は不明です。本当であれば、現行の安祥家家臣団を一掃した後、仙千代の後見役として一門の采配を取れればベストだったのでしょうが、仙千代がいなくなったことでそれが出来なくなりました。ここに桜井信定の詰めの甘さというか、つまづきがあります。やむを得ず清康の弟の信孝を岡崎に入れております。自分が岡崎に入れば誰が一門の統括者であることがはっきりするのですが、それを避けているわけですね。ここに限界がありました。

 幼君とともに脱出を果たした阿部定吉は、東条吉良家や東三河の国人達を相手に仙千代の岡崎復帰運動を始めます。清康の代において東条吉良家は属城である小島城を攻められております。また西条吉良家からの圧迫もあり、家盛は弱っておりました。東条吉良家当主の持広は松平家の内紛は起死回生のチャンスととらえたようです。また、東三河国人たちにとっても、今川家から離反して西条吉良家や尾張の斯波・織田家につくことに不安を抱えていたのだと思います。そうなることを強いた松平家が二つに割れていたならなおさらです。故に、今川につく松平仙千代と阿部定吉を支持したフシがあります。東三河への侵攻に吉良家は参加しておらず、文句が出る筋合いがないのですから。

 桜井信定にとって一番やっかいだったのが、大坂からの帰還兵達でした。既に本願寺と幕府との講和は成立しており、本願寺教団は幕府の命によって比叡山延暦寺と組んで洛中の法華寺院をフルボッコにしている最中でした。法華衆はついこの間まで、幕府軍と一緒に大津の顕証寺、山科の本願寺、摂津富田の教行寺を焼いていた信徒衆です。幕府はこんな具合に走狗を煮てばかりいたため、十数年後に細川晴元は足元を掬われる羽目に陥るのですが、それは別の話。
 本願寺と幕府との講和がなり、また清康の死と井田野合戦の報せを聞いた三河兵が帰郷します。その三河兵の中に大窪党がいたと思われます。

 この辺はさらに推測の域が大きくなっているのでご注意ください。大窪藤五郎と本願寺を結びつける史料は何一つなく、彼がかつて一向宗が盛んだった越前国出身である事。その時点で一向宗の盛んな三河国で自分の姓氏を継ぐ者を探していた事。宇津忠俊というみどころのある後継者を得たことに満足して、一向宗が禁じられた故国に帰ることなく三河国で戦死した状況からたてた仮説にすぎません。
 忠俊の改姓には松平清康の同意があったとされています。これが事実なら、大窪藤五郎は清康に影響力を持っていたことになります。一介の武芸者とは思えません。ここで本願寺を持ってくるのは発想の飛躍とも思えるのですが、当てはめてみると結構はまるのですね。

 大窪党が守山崩れの当時、三河にいなかったと考える理由を申し述べます。それは松平清康が死に、天文の井田野合戦が起こった最中に大窪忠俊が三河国にいたなら、どこで何をしていたのかを一族である大久保彦左衛門忠教がふれないはずはない、と思うからです。それほどまでに仙千代の岡崎復帰に果たした役割は大きかったし、三河物語でもその活躍は詳しく書かれています。にもかかわらず、守山崩れから仙千代流亡までの間、大窪忠俊の活動が書かれていないということは、そこにいなかったのだと考えるのが自然だと思います。
 この大窪忠俊に対して桜井信定は、服従を誓わせることでした。そのために七枚起請を三回も書かせることをさせています。三回も起請文を書かせたことからして、信定は忠俊の思惑がどこにあるかを理解していたのだと思われます。本心はどうあれ形の上では信定に臣従を誓っているのですから、異心ありと見なしたなら、誅殺してもよかったはずですがそれが出来ないのは、彼が一個の軍団をもっており、安易に罰を与えれば信定に対して反撃する力があったからなのだろうと思われます。
 ただしこの時本願寺は下間頼秀派の粛清を暗殺などの手段によって粛々と進めている時であり、派手な軍事行動は戒めていたと思われます。本願寺教団の門徒が主導する軍事行動は出来ない状況にあったと思われます。
 天文の一向一揆が収まってから、石山本願寺は野寺本證寺を引き立てるようになりました。兵や住持を大坂に呼びつけて本願寺の警護を命じたり、証如との直の会見をするようになります。その野寺本證寺の大檀那が小川の石川一族であり、このころは清兼が一族を束ねておりました。
 岡崎城には合歓木松平信孝がつめ、彼が留守の間は石川一族である長右衛門康利と三郎四郎康定が城番をつとめていました。信定配下の家臣も同様に、門徒武士にささえられている事情もあって手出しができなかったのかもしれません。

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2008年11月11日 (火)

川戦:下克上編③桜井信定の蹉跌Ⅱ

 外征は尾三連合の枠を大きく雄飛させます。それは山科本願寺の意向でした。その意向を受けて土呂本宗寺の実円らが三河兵を動員します。この動員には、松平家、織田家、そしておそらくは美濃国の斎藤家ら進軍ルート上の諸国の領主の支持と協力があったと私は考えています。その目的は京を落ち延びた細川高国の打倒です。信定はこれに協力する形で上野、品野を領します。また、織田弾正忠家、大給松平家、水野家と縁戚になって基盤を固めます。上洛ルートの確保は清康にとっては十年後の天下人への道に見えたと思われます。事実、似たような立場の三好長慶が二十年後に畿内一帯に王国を作り上げましたから、あながち夢と言い捨てられない話です。しかし、西三河の矢作川流域で戦い続けていた信定にとっては想定の範囲外であり、危うさ孕んでいるように見えたでしょう。戦いに行った門徒達はおそらくは桟敷の席を譲らなかった安祥家家臣と同類にみえていたかもしれません。信定は画期的な壮挙に入れ込む甥の行く末を案じつつも、なりゆきを見守る以外に選択肢はなかったものと思われます。
 本願寺教団の三河兵は松平家が守る岡崎から守山までのルートをたどって、上洛します。しかし、信定の不安は的中しました。畿内で門徒達が暴走し、幕府の討伐を受けることになります。
 尾張国では織田弾正忠信秀が守護代織田大和守達勝と戦っております。どちらが本願寺に敵対する立場かを考えるに、やはりこの後三河と美濃に侵攻する主体となった信秀の方と考えるのが妥当でしょう。しかし、この時の対立は決着がつかないまま和睦となり、尾張の織田家は不戦の方向へと舵をきります。
 本願寺内部でも実円・下間頼秀らから連淳への権力移行がありました。実円・下間頼秀らも実は講和の道を探っており、本願寺の手で殺害した三好元長の遺児、千熊丸を仲介にして講和を結びました。しかし、本願寺側の統率が末端まで及ばず、講和が破れた経緯があります。蓮淳はその責任を下間頼秀らに負わせて破門し、講和遂行の邪魔になると判断したときには暗殺すらしました。
 三河国の本願寺教団の統括者はもともと土呂本宗寺でしたが、講和実現の過程で三河三ヶ寺のうち、本証寺と勝鬘寺に書状を送って伊勢国長島願証寺の配下に組み替えています。蓮淳の方針はとにかく戦争をやめること。その為に、手段を選ばないということでした。そのタイミングで松平清康は死にます。

 事情はどうあれ、守山の松平家臣が主人であり、松平一門を総攬する清康を殺害したという事実は、桜井信定をして松平一門の危機であることを認識させます。そればかりか、守山の清康家臣達が大急ぎで岡崎に戻って仙千代を後継に擁立する動きをしました。全ては阿部弥七郎の誤解による不幸な事故と説明されても、信定には言い訳としか響かなかっただろう事は容易に想像できます。
 また、今回の仙千代擁立は、松平信忠の押籠を連想させる事件でもあります。当主は無理やり退場に追い込まれ、その後を幼君が擁立されるという構図はそっくりです。前回は信忠は殺されていなかったので、清康の後見人になるという条件で妥協しましたが、今回は清康が家臣に直接殺害されていますし、安祥家臣団と信定との関係も必ずしもよくありません。さらに言えば松平家臣団の一部は三河を出て畿内の戦いにかり出されていた可能性が高いです。清康は本願寺の戦争が終わった後、帰ってくる三河兵たちを待っていたのかもしれません。
 清康の家臣達が岡崎に集結したことは桜井信定にとってのチャンスでもありました。清康の死後十日もたたない間に信定が兵を率いて大樹寺に入ったと思われます。安祥松平家の当主が没したのですから、分家筋の桜井松平信定が安祥系松平一門の菩提寺である大樹寺に向かうことは当然のことですが、史料上には織田信秀が来た事になっております。おそらくは彼も来ていた可能性はなくもないのですが、それは後詰としての参陣だったのだろうと考えられます。
 信定は一門の長老となっていた長親に迫って、清康殺しの処罰を要求したのでしょう。それは既に報復として斬り殺されている阿部弥七郎だけの問題ではなく、主君を守るべき家臣達対し、主君を死なせてしまった責任を問うものだったのでしょう。阿部弥七郎が織田や桜井の刺客であった可能性も排除はできないのですが、桜井信定には安祥家の家臣たちを断罪する名分を有していたのだと思います。
 天文の井田野合戦は桜井信定が岡崎城に入城するための合戦であり、安祥家の家臣団がどんなに頑張ってもそれを阻止することはできませんでした。

 当然、桜井信定によって戦後処理は行われたと思います。松平仙千代が信定の処分に配流になったのか、桜井信定の評定が下る前に岡崎城を脱出したのかは不明です。しかしながら、後者の場合だとしてもわずか十歳の童子にその判断が出来るとは思えません。岡崎城を脱出して再起を図ることを決めた阿部定吉に連れられたのではないかと考えるのが一番自然だと思います。
 配流説を考えた場合、阿部定吉が自由に動けすぎているのですね。桜井松平信定が一番最初に排除すべきは仙千代という幼君の操り手です。また、清康の死が家臣団の言う、誤解から起こった不幸な事故であることを信定が信じたとしても、弥七郎の父親である阿部定吉を松平家から遠ざけようとすると思われます。阿部定吉を野に放ったまま、自分の目の届かない所に仙千代を置くということは考えにくい。にもかかわらず、阿部定吉は仙千代の流亡中、ずっと仙千代と行動をともにしているのですね。あまり良くない言い方ですが、阿部定吉は仙千代をさらって逃げたのではないかと考えています。仙千代が岡崎を離れた直後、天文四年の十二月の暮れ、阿部定吉の父親である阿部道音が亡くなっております。寿命と考えるにはタイミングがよく、井田野合戦での戦傷死ということもありえなくはないのですが、阿部定吉逐電の責任をとらされたのだとみるのが自分的に一番しっくり来ます。

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2008年11月 6日 (木)

川戦:下克上編②桜井信定の蹉跌Ⅰ

 少し長くなりますが、前稿のおさらいです。阿部定吉や大窪忠俊が本願寺教団の門徒だというのは、現時点では全くのヨタではあるのですが、それを前提にした文章を書きたくなりましたので。この可能性については、今後も検証してゆきたいと思っております。

 松平仙千代が大窪親八郎忠俊の策に助けられて岡崎城に復帰した翌年、1538年(天文七年)十一月二十七日に桜井松平内膳信定は死去します。死因は良くわかりません。暗殺から病死までいろいろなケースが考えられると思いますが、本稿ではその辺りの考察は敢えて避けたいと思います。
 それよりも、松平信定の敗因について考えてみたいと思います。彼は『強毅』と言われた松平信忠よりもバランス感覚を持ち合わせており、猪武者のような力戦を好んだ松平清康よりも戦いの呼吸を知悉しておりました。そして幼い松平仙千代よりも判断力があったことは言うまでもありません。

 信定の祖父、安祥家初代の親忠が没した時、兄である信忠はわずか十一歳でした。松平信定は生年不詳ですが、信忠の弟であることは確かなので、十一歳に満たぬ童子であったことは間違いないでしょう。信忠の名は親忠の遺言状の中に出てきます。親忠の葬儀の出席は早々に安祥の城に帰れという指示でした。この時点で将来の家督と目されていたということでしょう。
 父親の長親はそれから間もなく大樹寺に隠棲し、信忠に安祥の城を譲ります。しかし、この体制は長親の引退を意味したものではなさそうです。もともと親忠は安祥城を父信光から受け継ぐのですが、安祥の近隣には本願寺教団の大刹上宮寺があり、門徒との折り合いをつけながらこの新領地を運営せねばならないという事情がありました。また、老齢となった信光に代わって惣領を継ぐべき兄岩津の親長は上洛して不在です。そこで弟の親忠が松平一門の家政を見ることになりました。親忠は信光から安祥を譲られる以前に鴨田に領地を持っておりました。交通の便を考えれば、安祥よりも岩津に近いその地にいた方が都合がよかった。その場所には大樹寺という浄土宗の寺が建てられました。そこで親忠が死ぬわけですが、その死の直前、安祥にいた長親は出家して道閲と名乗って大樹寺に入ります。残った安祥には長男の信忠を入れました。つまり、親忠から長親に、長親から信忠へ代替わりをさせて同じ体制を引き継いだのですね。役割分担としては、一門の面倒を大樹寺でみて、安祥家の家政は安祥で行うということでしょうか。永正五年に伊勢宗瑞率いる今川軍が井田野まで来襲し、松平一門が危機に陥った時には長親自らが兵を率いて戦っております。
 長親は信定に桜井の城を与えます。桜井は安祥と同じく本願寺教団の大刹の一つ本証寺に程近い土地であり、近隣の小川には三河門徒を統括する石川家の本拠地がある場所です。安祥並みに本願寺教団の門徒衆との協調を必要とされる場所ですね。
 永正井田野合戦で岩津松平家は弱体化し、替わって長親・信忠の安祥家が台頭します。桜井信定も安祥家分家としてこれを支える立場でした。但し、安祥家は一つの失策をします。親忠の子孫は男女を問わず大樹寺を奉じなければならないという家訓です。見ようによっては安祥家の松平一門からの独立や乗っ取りを策したようにも見えます。安祥家の宗旨を規定したものなのですから。私はこれが信忠押籠の主原因だと考えております。
 信忠が押籠められそうになったとき、信定はその後継候補筆頭でした。それは一門の分裂を回避する融和路線だったのでしょうが、選ばれたのは甥の清康であり、彼のもとで強硬路線がとられました。山中城を根拠としていた岡崎松平家との戦いとなって、岡崎親貞は大草に追いやられます。
 考察すべきは信定がここで安祥家を継がなかった理由です。私が思うに安祥家家督の立場はあまり居心地が良くなかったのではないでしょうか。穏健路線をとった場合は安祥には父長親がいて、岡崎に親貞、大給に乗親ら一門衆にも気を使わねばならない。あまり自由にはなりません。まずは甥の清康を立てて一門衆と戦い、安祥家の主導権を確保した方が一門衆の介入がなくなる分楽になります。そして、父長親はこの時六十八です。おのずと清康を後見する立場になることは間違いありません。なんと言っても清康は未だ十三歳の少年なのですから、実質的に家政をみるのは信定となるでしょう。その目論見で清康に座を譲ったのは正しい判断だったと思われます。長親にしてみても、危機的状況にあって、十三歳の清康を安祥家督にすえたことは、永正の昔、信忠が十三歳だった頃に時計の針を戻したのと同じような感覚だったのではないかと思います。故に、安祥家は一枚岩になって一門衆に戦いを挑めたのではないでしょうか。清康はそれに勝利し、後見人たる信定が松平一門を総攬する立場になったわけです。
 信定の誤算は戦力として利用していた安祥家家臣達の実力を過小評価していたことでしょう。幼君清康を立ててフリーハンドを得ていたのは信定だけではなく、家臣団も同じだったわけです。三河物語に書かれている能の桟敷のエピソードでにも書かれているように、家臣達は信定の権威をことさら低く見ようとしました。清康が家臣側についたことを大久保彦左衛門が讃えたのも、大久保家(当時は宇津もしくは大窪家)が清康の家臣であったことと無関係ではなかったでしょう。
 但し、利害が一致している部分は団結してこれに当たりました。それが尾三連合・西条吉良家の意向に従った戦いであり東三河を平定するという偉業を成し遂げました。しかし、東三河の黒人達から見ると、清康は吉良家の名代でしかなかったかもしれません。だから清康は吉良家と同じ源氏の姓である世良田を名乗ったりするわけではありますが、どれほど効果があったかはうかがい知れません。ただ、この遠征によって後に仙千代が援けを受けるという余禄を得ることになります。

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2008年11月 4日 (火)

川戦:下克上編①プロローグ

 本稿、下克上編では当初1538年(天文七年)から1544年(天文十三年)までの出来事を扱う予定です。下克上といえば、松平郷の名主に過ぎなかった松平親氏の子孫が矢作川一体に一大勢力を扶植し、一時は三河全土を征服したことそのものが、下克上とも言えなくはないのですが、その征服戦争を支えた家臣団が突出して、松平一門を圧倒したのがこの時期だと私は考えております。

 川の戦国史は、近年の歴史研究の成果に私自身のバイアスを加えて構成しております。それ故、巷間言われている歴史とは少し違った解釈となっております。
 その一環として、本稿においては1540年(天文九年)にあったとされる安祥城の陥落と、信長記に1542年(天文十一年)と記されている(第一次)小豆坂合戦はなかったこととしております。勝手にそうしているわけではなく、歴史研究家の平野明夫氏が『三河松平一族』という著書において示されている説に従ったもので、その説には当然の事ながら根拠があります。
 平野説を採用し、安祥合戦と小豆坂合戦の発生年次をぐっと後ろに押し下げた時、視野に入ってくるものがあります。それは松平家における一門衆と家臣団との抗争であり、家臣達が我が世の春を謳歌した時代です。そこが私の手で加えたバイアスの部分です。
 三河物語や松平記などの史書は徳川一族を主君として仰ぎ見る視点で書かれているため、主君より家臣の方が強かったこの時代における松平家臣達の実相は不明な部分が多いです。それでも阿部、大窪、酒井、石川らの諸家を中心とした連合体が結束して幼君広忠を支えます。その結果として、それまで安祥松平家を守護してきた一門衆は排除されてゆくことになります。それは決して珍しいことではありません。江戸時代の大商家や、戦前戦後の財閥において経営から創業者一族が締め出され、実力派の番頭が看板を守ってゆくようになる過程を想起すればよいでしょう。松平広忠は大叔父、叔父を排除し、一門の長老も老齢により失います。非安祥系の諸家とも疎遠になり、家臣なしに生きられない主人となりました。これが三河物語で『お家の犬』として描かれた家臣の実態ではなかったか。そういう問いかけを本稿で試みたいと思います。

1534年(天文 三年) 五月 十二日 織田吉法師(信長)、生誕。
1537年(天文 六年) 二月  六日 木下日吉丸(豊臣秀吉)、生誕。
1538年(天文 七年)十一月二十七日 松平信定、没。
          この年     織田信秀、今川氏豊の那古屋城奪取。
1539年(天文 八年)東条吉良持広、死去。義安が家督を相続。吉次、織田家の人質になる。
          この年     織田信秀、古渡城に移る。
1541年(天文 十年)        水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年) 七月 十二日 水野忠政、没。
           八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年) 八月二十二日 松平長親、死去。
           九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
           この月    松平広忠、お大を離縁。
          十一月     織田信秀、美濃大垣を攻囲する。
                  織田信秀、織田達勝が古渡城を焼いた為、大垣撤退。
1545年(天文十四年)        織田信秀、守護代と和睦。末森城を築き、居城を移す。
                  織田信秀、以後備後守を名乗る。
1546年(天文十五年)十一月 十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。

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