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2008年11月11日 (火)

川戦:下克上編③桜井信定の蹉跌Ⅱ

 外征は尾三連合の枠を大きく雄飛させます。それは山科本願寺の意向でした。その意向を受けて土呂本宗寺の実円らが三河兵を動員します。この動員には、松平家、織田家、そしておそらくは美濃国の斎藤家ら進軍ルート上の諸国の領主の支持と協力があったと私は考えています。その目的は京を落ち延びた細川高国の打倒です。信定はこれに協力する形で上野、品野を領します。また、織田弾正忠家、大給松平家、水野家と縁戚になって基盤を固めます。上洛ルートの確保は清康にとっては十年後の天下人への道に見えたと思われます。事実、似たような立場の三好長慶が二十年後に畿内一帯に王国を作り上げましたから、あながち夢と言い捨てられない話です。しかし、西三河の矢作川流域で戦い続けていた信定にとっては想定の範囲外であり、危うさ孕んでいるように見えたでしょう。戦いに行った門徒達はおそらくは桟敷の席を譲らなかった安祥家家臣と同類にみえていたかもしれません。信定は画期的な壮挙に入れ込む甥の行く末を案じつつも、なりゆきを見守る以外に選択肢はなかったものと思われます。
 本願寺教団の三河兵は松平家が守る岡崎から守山までのルートをたどって、上洛します。しかし、信定の不安は的中しました。畿内で門徒達が暴走し、幕府の討伐を受けることになります。
 尾張国では織田弾正忠信秀が守護代織田大和守達勝と戦っております。どちらが本願寺に敵対する立場かを考えるに、やはりこの後三河と美濃に侵攻する主体となった信秀の方と考えるのが妥当でしょう。しかし、この時の対立は決着がつかないまま和睦となり、尾張の織田家は不戦の方向へと舵をきります。
 本願寺内部でも実円・下間頼秀らから蓮淳への権力移行がありました。実円・下間頼秀らも実は講和の道を探っており、本願寺の手で殺害した三好元長の遺児、千熊丸を仲介にして講和を結びました。しかし、本願寺側の統率が末端まで及ばず、講和が破れた経緯があります。蓮淳はその責任を下間頼秀らに負わせて破門し、講和遂行の邪魔になると判断したときには暗殺すらしました。
 三河国の本願寺教団の統括者はもともと土呂本宗寺でしたが、講和実現の過程で三河三ヶ寺のうち、本証寺と勝鬘寺に書状を送って伊勢国長島願証寺の配下に組み替えています。蓮淳の方針はとにかく戦争をやめること。その為に、手段を選ばないということでした。そのタイミングで松平清康は死にます。

 事情はどうあれ、守山の松平家臣が主人であり、松平一門を総攬する清康を殺害したという事実は、桜井信定をして松平一門の危機であることを認識させます。そればかりか、守山の清康家臣達が大急ぎで岡崎に戻って仙千代を後継に擁立する動きをしました。全ては阿部弥七郎の誤解による不幸な事故と説明されても、信定には言い訳としか響かなかっただろう事は容易に想像できます。
 また、今回の仙千代擁立は、松平信忠の押籠を連想させる事件でもあります。当主は無理やり退場に追い込まれ、その後を幼君が擁立されるという構図はそっくりです。前回は信忠は殺されていなかったので、清康の後見人になるという条件で妥協しましたが、今回は清康が家臣に直接殺害されていますし、安祥家臣団と信定との関係も必ずしもよくありません。さらに言えば松平家臣団の一部は三河を出て畿内の戦いにかり出されていた可能性が高いです。清康は本願寺の戦争が終わった後、帰ってくる三河兵たちを待っていたのかもしれません。
 清康の家臣達が岡崎に集結したことは桜井信定にとってのチャンスでもありました。清康の死後十日もたたない間に信定が兵を率いて大樹寺に入ったと思われます。安祥松平家の当主が没したのですから、分家筋の桜井松平信定が安祥系松平一門の菩提寺である大樹寺に向かうことは当然のことですが、史料上には織田信秀が来た事になっております。おそらくは彼も来ていた可能性はなくもないのですが、それは後詰としての参陣だったのだろうと考えられます。
 信定は一門の長老となっていた長親に迫って、清康殺しの処罰を要求したのでしょう。それは既に報復として斬り殺されている阿部弥七郎だけの問題ではなく、主君を守るべき家臣達対し、主君を死なせてしまった責任を問うものだったのでしょう。阿部弥七郎が織田や桜井の刺客であった可能性も排除はできないのですが、桜井信定には安祥家の家臣たちを断罪する名分を有していたのだと思います。
 天文の井田野合戦は桜井信定が岡崎城に入城するための合戦であり、安祥家の家臣団がどんなに頑張ってもそれを阻止することはできませんでした。

 当然、桜井信定によって戦後処理は行われたと思います。松平仙千代が信定の処分に配流になったのか、桜井信定の評定が下る前に岡崎城を脱出したのかは不明です。しかしながら、後者の場合だとしてもわずか十歳の童子にその判断が出来るとは思えません。岡崎城を脱出して再起を図ることを決めた阿部定吉に連れられたのではないかと考えるのが一番自然だと思います。
 配流説を考えた場合、阿部定吉が自由に動けすぎているのですね。桜井松平信定が一番最初に排除すべきは仙千代という幼君の操り手です。また、清康の死が家臣団の言う、誤解から起こった不幸な事故であることを信定が信じたとしても、弥七郎の父親である阿部定吉を松平家から遠ざけようとすると思われます。阿部定吉を野に放ったまま、自分の目の届かない所に仙千代を置くということは考えにくい。にもかかわらず、阿部定吉は仙千代の流亡中、ずっと仙千代と行動をともにしているのですね。あまり良くない言い方ですが、阿部定吉は仙千代をさらって逃げたのではないかと考えています。仙千代が岡崎を離れた直後、天文四年の十二月の暮れ、阿部定吉の父親である阿部道音が亡くなっております。寿命と考えるにはタイミングがよく、井田野合戦での戦傷死ということもありえなくはないのですが、阿部定吉逐電の責任をとらされたのだとみるのが自分的に一番しっくり来ます。

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