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2008年11月20日 (木)

川戦:下克上編⑥三傑誕生

 流亡の松平仙千代が岡崎に帰還し、元服して広忠と名乗った年である1537年(天文六年)の二月六日に尾張中村にて豊臣秀吉が生まれております。もっともこの時点で豊臣家などは影も形もありません。秀吉の生年を含め、彼の前半生を追った同時代史料はありませんので、確定的なことは不明です。豊臣秀吉が天下人になった後に作られた伝記の記述から推察するしかありません。
 豊臣秀吉に織田信長と徳川家康を加えた三名をまとめて戦国の三傑と呼ぶことがあります。彼らは天下に覇を唱え、百五十年前後続いた戦国時代を終結させて、後に続く三百年の泰平をもたらした英傑達です。本稿ではこの時期、天文年間に誕生した戦国三傑の誕生シチュエーションを素描してみたいと思います。

 三傑のうち、一番早く生まれたのが織田信長です。1534年(天文三年)五月十二日と言いますから、織田信秀が織田達勝と争って和睦した翌年にあたります。京においては天文の一向一揆まっただなかで、乱世が一つのピークを迎えた頃でした。生まれたのは勝幡城です。那古屋合戦記という読み物に1532年(天文元年)にここの城主だった今川氏豊が織田信秀に城を追われたという話があったため、信長は那古屋城で生まれたという説が信じられていたのですが、1533年(天文二年)に山科言継が尾張に下向した折に勝幡城で今川竹王丸(氏豊)にであったという記事が彼の日記に載っていることが確認されたため、この時点で織田信秀は那古屋城を奪取していないことが明らかになっております。それどころか今川氏豊は元服すらしていないのですね。よって、信長は信秀の所領である勝幡で生まれたということになりました。
 織田信秀は人生において何度か居城を変えています。最初が父親である信定から譲られた勝幡城、次に今川氏豊から奪った那古屋城。さらにその城を息子である吉法師(信長)に譲って古渡に遷り、その古渡の城が美濃遠征中に織田彦五郎に焼かれたために、新たに末盛に築きました。
 息子の信長も那古屋城を皮切りに清洲城、犬山城、岐阜城、安土城と城を転々としています。この信長の居城の転出を城下の家臣集住のきっかけであり、兵農分離へと繋がったなどの話をききますが、その伝でゆくと兵農分離の嚆矢は父親の信秀であるということも可能になるのですね。
 彼は嫡男として那古屋城で四人の付家老の撫育を受け、帝王学を学びながら成長します。織田信秀は何が財源だったのか不勉強ゆえに良くわかりませんが、とにかく大金持ちでした。だから、最新鋭の兵器である鉄砲も信長の為に鉄砲指南ごと買い与え、その操作法を学ばせたりしております。それらの情景は大田牛一の信長公記に素描されております。幼少期の信長は早熟で覇気がありあまった若武者でした。それが過ぎてうつけと呼ばれることもママありましたが、彼はかれの信念で戦闘集団を作ろうとしていたのではないかと思われるフシもあるのですね。ともあれ、そう遠からず信長の活躍は本稿でも扱うことになるだろうと思います。

 次に秀吉ですが、尾張国中村のなかという百姓の娘から生まれます。百姓といっても専業農民のことではありません。百姓が農民をさすようになるのは江戸期に入って、武士階級に系図買いが横行して自らの姓を源平藤橘のどれかになってしまった以降の話なのですね。百姓という言葉のそもそもの意味は源平藤橘以外の姓を持つ者、転じてこの時代では高い身分を持っていない者くらいの意味に落ち着いております。この当時の百姓は武装農民といっていいでしょう。農閑期に領主の号令にしたがって鎧櫃と槍をかついで城に参上するという情景も普通にあったようです。
 父親は木下弥兵衛という富農だったという説もあるのですが、諸説入り乱れており、秀吉が太閤となった時に彼の出生譚は大きく捻じ曲げられてしまったせいで、その実相はうかがい知れません。
 木下弥兵衛父親説に従うと、彼は間もなく死んで、未亡人となったなかは、竹阿弥という男と再婚しました。この竹阿弥と日吉丸(のちの豊臣秀吉)とは折り合いが悪く、早々に遠江に家出します。そこから彼の『武士』としてのキャリアが始まるわけです。

 三人目の家康については、詳細を別稿で論じたいと思います。ただし、私の見るところ松平家とその家臣団は内外に様々な形を抱えており、三河物語をはじめとする徳川創業期を記した諸書がいうような麗しい君臣の愛情の交流などはなかったと考えています。但し面白いことに、松平家臣団は当主が幼君である間は一致団結してこれを守ります。それが年を経て自らの判断で家臣達を動かすようになると話が変わってくるのですね。それは、信忠や清康が体験してきたこと、そして広忠がこの後体験するだろうことです。竹千代は松平広忠の息子として生まれましたが、松平家、ことに安祥家の累代の歴史をさかのぼるとそれは決して祝福されるような状況ではなかったことがうかがえます。桜井信定が松平家を統括できなかったことによって安祥―岡崎松平家には一つのパターンが出来上がってしまいます。それが後の徳川家康の家康の前半生における苦難として待ち構えることになるのです。

 桜井信定が死んだ同じ年、尾張国で織田信秀が今川氏豊から那古屋城を分捕ります。時期的にみて、妹婿が今川義元の実力に屈服されられた事に対する仕返しのようにも見えなくもありません。
 今川氏豊は宗家より斯波家の監視を仰せつかっていました。斯波家は既に復帰の見込みの無いほど没落しており、実権は守護代織田大和守家に移っていました。那古屋今川家の役目はすでに終わっていた
とみてよかったかもしれません。但し、その目的を考えるならば氏豊は引き続き那古屋にいて台頭する織田家の動向を見張るべきだったでしょう。松平家が親今川に傾くことによって尾張本国が駿河国の今川家の射程に入ってきたのですから。そこに先手をとったのが織田信秀でした。機を見るに敏とは彼のためにある言葉かもしれません。
 信秀は奪った那古屋城を嫡男の吉法師に与え、自らは近傍の古渡に城をこしらえてそこに移りました。そこを押さえておけば、伊勢湾沿岸の主要な港である熱田を押さえられます。津島だけではなく、熱田を求め、流通を押さえにかかったのだと思われます。これによって信秀は大きな財力を得ることができました。そして、征服事業に乗り出してゆくのです。

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