« 川戦:下克上編⑥三傑誕生 | トップページ | 川戦:下克上編⑧第一次小豆坂合戦のまぼろし »

2008年11月25日 (火)

川戦:下克上編⑦天文九年の安祥城陥落説

 歴史の分野においては研究が進むことによって、年表が書き換えられるということがままあったりします。例えば、今川氏豊が織田信秀に那古屋城を奪われた年代ですが、『那古屋城合戦記』という古文書には1530年(天文元年)とされていたために、長くこのことが信じられていたのですが、近年公家の日記の研究が進むにつれて矛盾が指摘されるようになっております。公家の山科言継と飛鳥井某が1532年尾張に下向して勝幡城で蹴鞠の芸を披露した時、那古屋城から今川氏豊が招待されて見物していた旨が記されております。『那古屋城合戦記』は書名が示すとおり、戦記ものですね。本書に限らず戦記物や軍記物は話を面白くするための脚色や誇張、史実と異なる編集がされているケースがままあります。対して、公家の日記は公家が子孫に同じ仕事をこなせるようにと書かれた業務日報のようなものであり、子孫はそれを代々受け継いだ仕事の手本としました。これを有職故実といいます。また、同時代を生きた者によるリアルタイムな記録であることから一次史料と呼ぶことが出来、その信憑性は高いものと言えるでしょう。加えるなら、公家の日記においてはこの時点で今川氏豊は元服すらしていません。よって、『那古屋城合戦記』の記述を信じるにせよ、実際に織田信秀が那古屋城を乗っ取ったのはもっと後のこと指摘されています。
 松平広忠の流亡の帰還において、三河物語は二つ間違いを犯しています。一つは流亡の開始の時期。守山崩れのあった同じ月に松平仙千代は岡崎を出ているはずです。広忠の生年を考えればこの時十歳でなければならないのに十三と書いています。また、帰還の年次も十七の春としています。この十三歳というのは、清康が松平家を相続した年齢と間違えたとも考えられるのですが、そうすると帰還は十五歳の春となるはずです。ところが、信光明寺文書の判物写しに三河物語にも書かれている大窪忠俊らへの松平千代松(仙千代=広忠)による感状があるのですが、その日付は天文六年十月二十三日なのですね。
 単純に広忠の生年と年齢に照らしあわせてみると、広忠十七の春とは、1541年(天文十年)にあたります。この年、広忠は水野忠政の娘、於大と結婚していますので、広忠の岡崎帰還という慶事に、婚姻と言う慶事で繋いだのかもしれません。とはいえ、於大と結婚したと書いてすぐ、水野氏の離反で離縁したと続け、そのすぐ後段で戸田氏より後妻を迎えた話をしております。於大との間に竹千代が生まれたことを簡単に記し、農作業に従事する重臣近藤と広忠との心温まる交流エピソードを長々と記されています。
 信定の死は広忠の岡崎帰還の翌年のはずですが、この慶事記事のあとになっています。要するに三河物語は広忠の代における事件の並びは必ずしも年代順になってないようです。以下、三河物語のいて松平広忠が岡崎に復帰してから、死ぬまでの流れを書き出します。

 ①広忠岡崎復帰。
 ②広忠、水野の娘と結婚。竹千代誕生。後に離婚。後妻に戸田の娘を迎える。近藤の話
 ③佐久間斬り
 ④桜井信定の病死
 ⑤安祥陥落
 ⑥松平忠倫離反。
 ⑦酒井将監、大原左近右衛門、近藤伝次郎離反。
 ⑧松平信孝、放逐される。
 ⑨松平忠倫暗殺。
 ⑩竹千代、戸田の岳父に拉致され、織田家に送られる。
 ⑪今川義元、広忠の要請により援軍を出す。
 ⑫松平信孝、戦死。
 ⑬小豆坂合戦
 ⑭広忠の死
 ⑮太原崇孚、安祥城を攻め取り竹千代、駿府に送られる。

 ①から④は広忠にとっての良いニュースです。そして⑤から⑮までは松平家崩壊に繋がる悪いニュースです。時系列ではなく、広忠の代における良い記事と悪い記事をまとめて語るという構成をとっているわけです。また、三河物語はあまり年号を使わず、松平家当主が何歳の頃、これこれこういう事件が起こったという書き方をします。ところが、その他の史料とつき合わせてみると結構異同があるのですね。後世の歴史家がその整合性を埋めようとした結果、史書が一度しか触れていない事件が二度三度おこったり、発生年次が大幅に前後にずれ込んだりするという解釈になっています。
 それが安祥合戦だったり小豆坂合戦だったりするのです。

 いわゆる安祥合戦というのは、織田信秀が1540年(天文九年)に安祥城が陥落させることに端を発した安祥城の攻防戦で、1545年(天文十四年)の第二次合戦を経て、1549年(天文十八年)に今川軍の太原崇孚が織田信広の守る安祥城を陥落させて決着するまで、三次に渡る合戦が繰り返されたことをさします。
 但し、三河物語には安祥陥落の年次は記されていないですし、1545年(天文十四年)の第二次安祥合戦については言及されていません。ところが、平野明夫氏の『三河松平一族』によると1548年(天文十七年)三月十一日付の北条氏康が織田信秀に送った書状の中に、信秀が安祥城を攻め落としたのは『去年』のことであるという言及があるらしいのです。1548年(天文十七年)の時点での『去年』を『きょねん』と解釈すれば、1547年(天文十六年)となります。これを『さるとし』と解釈すれば単純に過去を指す事にもなるのですが、1540年(天文九年)からは実に七年前のことになるのですね。この書状は時事めいたことを書いているので、『さるとし』と解釈するのはやや不自然に感じます。三河物語を含め、安祥合戦を扱う史料のほとんどは後年になって書かれたものです。この書状は同時代に起こったニュースについて極めて早い段階で言及されたものであり、史料としての価値は極めて高いといえるでしょう。(別項にて詳しく解説いたします)

 もし、これが事実とすればではなぜ安祥城陥落が1540年(天文九年)と特定されたのか。それが何に基づいたものなのかを考えておく必要があるでしょう。その事情は小豆坂合戦にあり、というのが私の見解です。その件については次項に触れます。

|

« 川戦:下克上編⑥三傑誕生 | トップページ | 川戦:下克上編⑧第一次小豆坂合戦のまぼろし »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/42995450

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:下克上編⑦天文九年の安祥城陥落説:

« 川戦:下克上編⑥三傑誕生 | トップページ | 川戦:下克上編⑧第一次小豆坂合戦のまぼろし »