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2008年11月 6日 (木)

川戦:下克上編②桜井信定の蹉跌Ⅰ

 少し長くなりますが、前稿のおさらいです。阿部定吉や大窪忠俊が本願寺教団の門徒だというのは、現時点では全くのヨタではあるのですが、それを前提にした文章を書きたくなりましたので。この可能性については、今後も検証してゆきたいと思っております。

 松平仙千代が大窪親八郎忠俊の策に助けられて岡崎城に復帰した翌年、1538年(天文七年)十一月二十七日に桜井松平内膳信定は死去します。死因は良くわかりません。暗殺から病死までいろいろなケースが考えられると思いますが、本稿ではその辺りの考察は敢えて避けたいと思います。
 それよりも、松平信定の敗因について考えてみたいと思います。彼は『強毅』と言われた松平信忠よりもバランス感覚を持ち合わせており、猪武者のような力戦を好んだ松平清康よりも戦いの呼吸を知悉しておりました。そして幼い松平仙千代よりも判断力があったことは言うまでもありません。

 信定の祖父、安祥家初代の親忠が没した時、兄である信忠はわずか十一歳でした。松平信定は生年不詳ですが、信忠の弟であることは確かなので、十一歳に満たぬ童子であったことは間違いないでしょう。信忠の名は親忠の遺言状の中に出てきます。親忠の葬儀の出席は早々に安祥の城に帰れという指示でした。この時点で将来の家督と目されていたということでしょう。
 父親の長親はそれから間もなく大樹寺に隠棲し、信忠に安祥の城を譲ります。しかし、この体制は長親の引退を意味したものではなさそうです。もともと親忠は安祥城を父信光から受け継ぐのですが、安祥の近隣には本願寺教団の大刹上宮寺があり、門徒との折り合いをつけながらこの新領地を運営せねばならないという事情がありました。また、老齢となった信光に代わって惣領を継ぐべき兄岩津の親長は上洛して不在です。そこで弟の親忠が松平一門の家政を見ることになりました。親忠は信光から安祥を譲られる以前に鴨田に領地を持っておりました。交通の便を考えれば、安祥よりも岩津に近いその地にいた方が都合がよかった。その場所には大樹寺という浄土宗の寺が建てられました。そこで親忠が死ぬわけですが、その死の直前、安祥にいた長親は出家して道閲と名乗って大樹寺に入ります。残った安祥には長男の信忠を入れました。つまり、親忠から長親に、長親から信忠へ代替わりをさせて同じ体制を引き継いだのですね。役割分担としては、一門の面倒を大樹寺でみて、安祥家の家政は安祥で行うということでしょうか。永正五年に伊勢宗瑞率いる今川軍が井田野まで来襲し、松平一門が危機に陥った時には長親自らが兵を率いて戦っております。
 長親は信定に桜井の城を与えます。桜井は安祥と同じく本願寺教団の大刹の一つ本証寺に程近い土地であり、近隣の小川には三河門徒を統括する石川家の本拠地がある場所です。安祥並みに本願寺教団の門徒衆との協調を必要とされる場所ですね。
 永正井田野合戦で岩津松平家は弱体化し、替わって長親・信忠の安祥家が台頭します。桜井信定も安祥家分家としてこれを支える立場でした。但し、安祥家は一つの失策をします。親忠の子孫は男女を問わず大樹寺を奉じなければならないという家訓です。見ようによっては安祥家の松平一門からの独立や乗っ取りを策したようにも見えます。安祥家の宗旨を規定したものなのですから。私はこれが信忠押籠の主原因だと考えております。
 信忠が押籠められそうになったとき、信定はその後継候補筆頭でした。それは一門の分裂を回避する融和路線だったのでしょうが、選ばれたのは甥の清康であり、彼のもとで強硬路線がとられました。山中城を根拠としていた岡崎松平家との戦いとなって、岡崎親貞は大草に追いやられます。
 考察すべきは信定がここで安祥家を継がなかった理由です。私が思うに安祥家家督の立場はあまり居心地が良くなかったのではないでしょうか。穏健路線をとった場合は安祥には父長親がいて、岡崎に親貞、大給に乗親ら一門衆にも気を使わねばならない。あまり自由にはなりません。まずは甥の清康を立てて一門衆と戦い、安祥家の主導権を確保した方が一門衆の介入がなくなる分楽になります。そして、父長親はこの時六十八です。おのずと清康を後見する立場になることは間違いありません。なんと言っても清康は未だ十三歳の少年なのですから、実質的に家政をみるのは信定となるでしょう。その目論見で清康に座を譲ったのは正しい判断だったと思われます。長親にしてみても、危機的状況にあって、十三歳の清康を安祥家督にすえたことは、永正の昔、信忠が十三歳だった頃に時計の針を戻したのと同じような感覚だったのではないかと思います。故に、安祥家は一枚岩になって一門衆に戦いを挑めたのではないでしょうか。清康はそれに勝利し、後見人たる信定が松平一門を総攬する立場になったわけです。
 信定の誤算は戦力として利用していた安祥家家臣達の実力を過小評価していたことでしょう。幼君清康を立ててフリーハンドを得ていたのは信定だけではなく、家臣団も同じだったわけです。三河物語に書かれている能の桟敷のエピソードでにも書かれているように、家臣達は信定の権威をことさら低く見ようとしました。清康が家臣側についたことを大久保彦左衛門が讃えたのも、大久保家(当時は宇津もしくは大窪家)が清康の家臣であったことと無関係ではなかったでしょう。
 但し、利害が一致している部分は団結してこれに当たりました。それが尾三連合・西条吉良家の意向に従った戦いであり東三河を平定するという偉業を成し遂げました。しかし、東三河の黒人達から見ると、清康は吉良家の名代でしかなかったかもしれません。だから清康は吉良家と同じ源氏の姓である世良田を名乗ったりするわけではありますが、どれほど効果があったかはうかがい知れません。ただ、この遠征によって後に仙千代が援けを受けるという余禄を得ることになります。

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