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2008年11月18日 (火)

川戦:下克上編⑤桜井信定の蹉跌Ⅳ

 手詰まり状況の信定に対し、攻めに転じていたのが仙千代を擁する阿部定吉でした。彼は伊勢へと逃れた後、遠江の今川領に入り、それから三河で東三河の国人の下で遊説を始めます。この時点で阿部定吉は今川家と接触して奪還の戦略設計図を描いていたのかもしれません。
 当主の今川義元は武田家との婚姻とそれが原因となる北条氏との対立に忙しく、三河国に直接介入することは出来なかったと思われます。今川義元が松平仙千代と阿部定吉を後援したのは、次善の外交戦術だったのでしょう。仙千代の父親である『松平清康』の名を利用して、東三河の国人達を今川方に靡かせる手段にでます。
 かつて松平清康は尾三連合の一翼である西条吉良家の名代として東三河に派兵し、当地の国人領主達を服属させました。しかし、東三河の国人達にしてみれば今川からの離反は不安なはずです。今川氏は永正年間には三河国に侵入し、牧野氏を討ち、諸族を平らげて岡崎にまで迫ったのですから。
 そんな今川氏に服属し、その後松平家=西条吉良家に靡いてしまった以上、再び今川氏につく彼らの行動は裏切りとそしられかねません。しかし、東三河の国人達を服属させた松平氏が内訌した結果、仙千代が今川家のお墨付きを得ているならば話は別です。彼らが服属したのは松平であって西条吉良家ではないという言い訳がなりたつのですから。

 そして東条吉良家までがこれに加担します。東条吉良家は西条吉良家の対立勢力でしたが、当主の東条吉良持広はこの頃までに西条吉良家に事実上屈服しています。彼には嫡男がいるにもかかわらず、西条吉良家から養子をとって跡継ぎとせねばならないところまで追い込まれていました。
 東条吉良持広は一発逆転を狙って仙千代の支援に加わったと見てよいでしょう。東条吉良持広は松平仙千代を領地の牟呂に入れて保護します。
 牟呂は吉良家家老の富永氏の城です。富永氏の旧領、野田を支配する菅沼氏と関係が深く、野田菅沼氏が松平仙千代を支持したことに呼応したのだろうと思います。
 この野田菅沼氏は一度西条吉良家と結び、宇利の熊谷氏を追い出してそこに一族の者を入れておりました。宇利は今川領と接する土地であるだけに、野田菅沼氏は今川氏の反撃に備えねばなりませんでした。そのプレッシャーは並々ならぬものだったでしょう。そんな野田菅沼家の当主、定則にとって、今川家のお墨付きを得ている松平仙千代が東三河に来ていたのは、事実上の宗主を西条吉良から今川へと乗り換える好機だったと思われます。

 この事態に西条吉良家は本気になって東条吉良家を潰しにかかり、戦争を仕掛けます。その戦闘の経緯は詳らかではありませんが、それから間もなく東条吉良家持広は亡くなり、息子の吉次は織田信秀の人質になって尾張に送られ、東条吉良家は西条吉良義郷の弟義安が継ぐことにより、完全に乗っ取られた形になります。
 そのタイミングで桜井松平信定も牟呂に兵を出し、松平仙千代を攻めに行きます。西条吉良家の意向に従ったものでしょう。三河物語ではただの小競り合いのような描かれ方をされていますが、仙千代を保護した東条吉良持広がその同時期にどんな目にあっているかを考えると、東条吉良持広の没落と桜井松平信定の牟呂攻撃は連動していたとみるのが妥当だと思われます。
 桜井松平信定は大窪忠俊を先陣に仰せ付け、牟呂を攻撃させますが、大窪忠俊は真面目に戦っていなかったようです。三河物語では矢文を交わして偽りの攻撃であることを真の主人に告げたとされています。それでも西条吉良家の攻撃に東条吉良持広が屈服したため、仙千代方は牟呂を自焼きして吉田(今橋)に撤退しました。
 一時的な勝利を桜井信定は得ましたが、結局それは自らが松平家臣団を掌握出来ていないことを再確認したことに過ぎなかったのです。その雰囲気は一門の者にも波及しました。桜井松平家が安祥家に取って代わったことで、損を蒙った人物が仙千代方に内通を始めたのです。それは合歓木(ねむのき)松平信孝でした。彼は清康の弟であり、信定よりも血縁的に仙千代に近い。清康の弟、仙千代の叔父という立場は桜井信定が松平一門を統括することにより、桜井家の一党に移ることになるでしょう。信孝は信定の甥ではありますが、以前よりは肩身が狭くなっていたと思われます。現在、叔父から広忠がいない岡崎城の留守を預かっていますが、広忠の運動が失敗したことが明確になって余裕が出来れば、あるいは信定が追い詰めれられて岡崎城を他人にまかせられなくなれば、岡崎城を取り上げられるのは明白です。そして、その時には松平一門の庶流の一つとしてしか扱われなくなるでしょう。
 桜井松平信定は合歓木松平信孝に対しても後手を踏むことになりました。合歓木松平信孝が大窪忠俊と通じて城を空け、その隙に大窪忠俊が岡崎城を乗っ取ったのです。対抗して戦いを挑まなかった理由についてはいくつか考えられるでしょう。
 一つは、兵をだしても彼らが本気で戦わなかったため、桜井松平信定に安祥家家臣団を御する力がないことが一門衆をはじめとした大衆の目にさらされたこと。もう一つは、天文一揆で敗北した本願寺教団が戦いを禁じていたことです。清康がやったような松平家を二分するような争いは出来なかった。清康が松平家を相続した頃とは違い、仙千代の背後には今川がいました。これを叩けば次には今川義元が直接出張ってくるでしょう。自らの背後には織田信秀がいるとはいえ、そうなれば西三河が織田と今川との戦いの地となります。
 桜井松平信定はいずれそうなると見通していたのではないでしょうか。松平仙千代が岡崎に帰還した後、信定は自ら清康と阿部定吉のいる岡崎城に出仕します。一門の長老である長親のとりなしもあったとは思われますが、桜井信定はその場で赦されます。信定が清康を殺したと仙千代が考えていたなら、もっと報復的な処断が下されたと思われるのですが、せいぜい信定の弟である青野松平義春との一門内での序列をあいまいにして諍いの種を残した程度です。事の発端の清康暗殺事件は阿部弥七郎の愚かな誤解による不幸な事故として処理されました。桜井信定は結局、清康を殺した安祥家家臣達の罪を問うことは出来ませんでした。
 その代償は尾三連合の霧散。松平家は吉良家ではなく、今川家につくことになりました。それだけではなく、西条吉良家を除く三河国の大半が今川家に靡く結果となったといっていいでしょう。西条吉良家もこの期間の戦いで当主西条吉良義郷を失っています。

 翌年、松平信定はなくなります。死因は不明ですが、彼は自分の能力と役割を自覚し、それ以上のことに踏み切れなかった。そのために家臣団を掌握できなかったのが最大の敗因でしょう。ある種聡い人物ではありますが、その聡さゆえの限界が露呈した形になりました。そこが自らの限界を超えて動き、英雄として名を成した松平清康との違いがそこにあったと言えるでしょう。

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