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2008年11月 4日 (火)

川戦:下克上編①プロローグ

 本稿、下克上編では当初1538年(天文七年)から1544年(天文十三年)までの出来事を扱う予定です。下克上といえば、松平郷の名主に過ぎなかった松平親氏の子孫が矢作川一体に一大勢力を扶植し、一時は三河全土を征服したことそのものが、下克上とも言えなくはないのですが、その征服戦争を支えた家臣団が突出して、松平一門を圧倒したのがこの時期だと私は考えております。

 川の戦国史は、近年の歴史研究の成果に私自身のバイアスを加えて構成しております。それ故、巷間言われている歴史とは少し違った解釈となっております。
 その一環として、本稿においては1540年(天文九年)にあったとされる安祥城の陥落と、信長記に1542年(天文十一年)と記されている(第一次)小豆坂合戦はなかったこととしております。勝手にそうしているわけではなく、歴史研究家の平野明夫氏が『三河松平一族』という著書において示されている説に従ったもので、その説には当然の事ながら根拠があります。
 平野説を採用し、安祥合戦と小豆坂合戦の発生年次をぐっと後ろに押し下げた時、視野に入ってくるものがあります。それは松平家における一門衆と家臣団との抗争であり、家臣達が我が世の春を謳歌した時代です。そこが私の手で加えたバイアスの部分です。
 三河物語や松平記などの史書は徳川一族を主君として仰ぎ見る視点で書かれているため、主君より家臣の方が強かったこの時代における松平家臣達の実相は不明な部分が多いです。それでも阿部、大窪、酒井、石川らの諸家を中心とした連合体が結束して幼君広忠を支えます。その結果として、それまで安祥松平家を守護してきた一門衆は排除されてゆくことになります。それは決して珍しいことではありません。江戸時代の大商家や、戦前戦後の財閥において経営から創業者一族が締め出され、実力派の番頭が看板を守ってゆくようになる過程を想起すればよいでしょう。松平広忠は大叔父、叔父を排除し、一門の長老も老齢により失います。非安祥系の諸家とも疎遠になり、家臣なしに生きられない主人となりました。これが三河物語で『お家の犬』として描かれた家臣の実態ではなかったか。そういう問いかけを本稿で試みたいと思います。

1534年(天文 三年) 五月 十二日 織田吉法師(信長)、生誕。
1537年(天文 六年) 二月  六日 木下日吉丸(豊臣秀吉)、生誕。
1538年(天文 七年)十一月二十七日 松平信定、没。
          この年     織田信秀、今川氏豊の那古屋城奪取。
1539年(天文 八年)東条吉良持広、死去。義安が家督を相続。吉次、織田家の人質になる。
          この年     織田信秀、古渡城に移る。
1541年(天文 十年)        水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年) 七月 十二日 水野忠政、没。
           八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年) 八月二十二日 松平長親、死去。
           九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
           この月    松平広忠、お大を離縁。
          十一月     織田信秀、美濃大垣を攻囲する。
                  織田信秀、織田達勝が古渡城を焼いた為、大垣撤退。
1545年(天文十四年)        織田信秀、守護代と和睦。末森城を築き、居城を移す。
                  織田信秀、以後備後守を名乗る。
1546年(天文十五年)十一月 十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。

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