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2008年11月27日 (木)

川戦:下克上編⑧第一次小豆坂合戦のまぼろし

 本稿では三河物語を重要史料に位置づけて考察を進めております。入手が容易ですし、現代語訳本も出ています。大久保彦左衛門忠教の原著は当て字がはなはだしく、判読もかなり難しいので、そういう点で重宝しているのですね。また、江戸時代の比較的早い段階で成立した史料であるので、後年の徳川幕府による徳川将軍家創業記録の礎となっております。徳川実紀などを読んでみても三河物語からの引用はかなりされております。(徳川実紀の引用は都合によって筆が曲がることがままありますので、正しい意味での引用とは言いがたいところはあります)
 但し、大久保彦左衛門忠教とて正確な歴史を記そうとしてこの本を書いたわけではありません。子孫に将軍家への忠節を教えるために書いたとあり、『門外不出』とキッパリ記されております。タテマエではあるのですけどね。実際にはこの本は江戸時代のかなり早い時期から流布本が流通しております。そのあたりの事情は安彦良和氏が描いた『マンガ日本の古典 三河物語』でわかりやすく説明されております。簡単に要約すると、一心太助が隠居爺である大久保彦左衛門にこの本を門外不出とするのは惜しい、志を同じくする者にも読ませるべきと口説き落として、内緒で市中に出回らせた。それを彦左衛門は薄々知って、というか見て見ぬ振りしたのですね。各巻の後書きには門外の読者に対する言い訳が書き連ねてあって、それが笑いをさそいます。『この本は我が子孫のために書いた門外不出の書である。だから自分の一族のことしか書いていないことを責めてはいけない。あなた達も、自分の一族のことを本を書いて残してはいかが』(一心太助が口説くところは安彦良和氏の創意です。念のため)

 三河物語とは大久保家の、それも大久保彦左衛門忠教の武士道観が随所に散見される、主観的な歴史記述です。大久保忠彦は1560年(永禄三年)生まれであり、彼が描く広忠の美談は彼自身が体験したことではありません。おそらくは一族の家記や主家の記録に基づいて書かれたものなのでしょう。
 いずれにせよ、徳川家の歴史を研究するに当たって、三河物語は重要史料であることは間違いのないところです。

 閑話休題。安祥合戦や小豆坂合戦は松平広忠と織田信秀との間の抗争です。三河物語が徳川家・大久保家の視点からこれらの事件を取り上げているのと同様に、織田家の側から見たこれらの事件を記述している史料があります。それが大田牛一の『信長公記』であり、小瀬甫庵の『信長記』です。大田牛一も小瀬甫庵も織田信長と豊臣秀吉に仕えた人物です。特に大田牛一は織田信長の側近として身近にいた人物なので
織田信長の事跡を調べる上で『信長公記』の史料価値は極めて高いものです。それに比べると小瀬甫庵の『信長記』は大田牛一本をベースにして、読み物としてより面白くなるようにアレンジメントを加えています。彼の手によって、桶狭間合戦は奇襲攻撃になったり、墨俣に一夜城が築かれたり、長篠合戦で鉄砲三段撃ちとなったり大田牛一本に書かれていないことがしるされており、その典拠となる史料がどこにもないことから、近年これらは創作であると見なされております。ただ読み物として甫庵本は牛一本より面白いことは確かで、そのせいでこれらの本がでた江戸期以降、甫庵本は牛一本より広く流布されることになりました。
 三河物語は言います。信長記は誤りが多い。全てのことが間違いとは言えわないが、全体の三分の一が本当にあったこと、三分の一がそのままではないが似たようなことがあった。残り三分の一はまったくなかったことである、と。これはおそらく、甫庵本のことを言っているものかと思われます。

 牛一本『信長公記』は小豆坂合戦を取り上げています。ところがこの内容は三河物語がいう小豆坂合戦とは様相を異にしております。
 先ほど『信長公記』は信憑性が高いと書きましたが、必ずしもそうではない部分もあります。それは首巻の部分です。首巻においては、織田家の成り立ちから織田信長が足利義昭を奉じて上洛するまでのことが描かれていますが、1560年(永禄三年)の桶狭間合戦を天文二十一年の事にするなど、結構ミスが目立ちます。とはいえ、三河物語のこの辺りの記述にしても不整合な部分はままありますので、ある程度の精度を確保している複数の史料をつき合わせることが重要だと思います。
 小豆坂合戦については、信長公記も三河物語もあまり詳しい書き方をしていません。共通点を抜き出すならば、三河国に入って西上する今川軍と安祥から東下する織田軍が遭遇して戦ったというところですね。勝ち負けを別にすると、野戦を行って織田勢が安祥に引き上げたところまでは共通しております。
 詳細の異同はたくさんあるのですが、主だった相違点は、合戦時期です。三河物語自体には合戦時期に関する記述はありませんが、1548年(天文十七年)七月朔日付朝比奈籐三郎宛今川義元の感状に三月十九日に織田信秀と小豆坂で合戦に及んだとあります。三河物語は竹千代六歳時(1547年・天文十六年)の拉致事件に端を発して今川の援軍動員、小豆坂合戦という流れで描写しておりますので、今川義元の感状の言う小豆坂での戦闘を三河物語の小豆坂合戦に比定することができます。
 対して信長公記はこれを八月のこととしております。三河物語と同じく、それがいつの年かは明記されていないのですね。三月と八月の相違を重視して異なる合戦であることを強調する研究者が多いのですが、信長公記の記事の最後に興味深い文面があります。『是れより駿河衆人数打ち入れ候なり』と。つまり、以後三河国に今川勢が進駐したと書かれています。それが実現するのは早くとも1547年(天文十六年)以降です。すなわち、月の異同はあってもどうやら同じ合戦のことをいっている、少なくとも駿河勢が三河に入った前後の話をしているようなのです。

 但し、その解釈をとって信長公記を読むとやや困ったことになります。というのはこの戦いで活躍したはずの織田信秀の弟、織田与次郎信康が1548年(天文十七年)以前におこった(天文十六年説と天文十三年説があり)斎藤道三との戦いにおいて戦死しているからです。
 この矛盾を解決するために、小豆坂合戦は1542年(天文十一年)と1548年(天文十七年)の二回起こったという説が出てきました。信長公記の小豆坂合戦は1542年(天文十一年)であるとし、三河物語の小豆坂合戦とは別の合戦であるということです。第一次小豆坂合戦というわけですね。
 この小豆坂合戦を天文十一年とした根拠になるのが小瀬甫庵本『信長記』です。これだと、織田与次郎信康の死亡時期の矛盾や、合戦時期の異同をうまく説明できます。但し、甫庵本に書かれていて牛一本に書かれていないことの多くは小瀬甫庵の創作であるケースがままあります。同時代に生きた武功で成り上がった人々には受けがよかったかもしれませんが、このスタイルは後世の歴史研究家からはあまり受けがよろしくありません。
 第一、小豆坂合戦を天文十一年説では1542年(天文十一年)の段階で駿河勢が三河進出していないことを説明できませんし、1548年(天文十七年)三月十一日付の北条氏康が織田信秀に送った書状の中に、信秀が安祥城を攻め落としたのは去年のことであるという言及に矛盾が生じます。信長公記では、安祥城には織田信広を入れていたことが明記されているのですが、1547年(天文十六年)まで安祥城を松平勢が保っていたとすれば、それは事実ではないことになりるでしょう。

 結局の所どの史料をどのように読むかによって解釈の分かれるところです。私としては、創作要素の多い小瀬甫庵本『信長記』には信をおかず、後から家の記録を調べて書かれたものであろう信長公記の首巻と三河物語上巻(1542年(天文十一年)の時点で大田牛一は十五歳、大久保忠教はまだ生まれていません)は信はおくものの同時代史料としては見なさず、日付のついた書状を優先したいと思います。
 その場合、1542年(天文十一年)に起こったとされる小豆坂合戦はまぼろしとなり、それに先行して1540年(天文九年)に陥落したとされる安祥城は1547年(天文十六年)まで後ろずれするということになります。安祥落城1540年(天文九年)説はどうも東栄鑑という史料によるところらしいです。これもまた史料としての価値は低いとされています。おそらくは、小瀬甫庵本『信長記』の記述をもとにそれに整合性をとるようにして書かれた年代史なのだろうと推察します。

 つまるところ、1542年(天文十一年)に起こったとされる第一次小豆坂合戦は小瀬甫庵本『信長記』の断定を受け入れられるか否かにつきる。私はそう考えます。

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