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2008年12月30日 (火)

川戦:風雲編⑥織田信秀の肖像Ⅲ

 本願寺の生き残りはおそらくは織田信秀にとって計算外のことだったと思われます。本願寺がなくなるもしくは、その力が大きく削がれるのならば、三河の門徒衆の団結は相当弱められます。そこに桜井信定が入り込む余地が生じます。しかし、現実には地元の善興寺の統制を織田大和守達勝が石山本願寺に依頼するなど、本願寺は実効力を伴った統制の根源として存在していました。
 私の『説』においては大窪忠俊も、阿部定吉も門徒衆ということになっております。石山本願寺と細川晴元との関係修復はなり、今川義元も名前の『義』の地を足利義晴からもらいうけるという形で、本願寺と幕府と今川家の連携が成立したのです。織田信秀は手詰まりでした。

 織田信秀は救援する手立てもなく、岡崎城に仙千代は帰ってきました。一門衆の合歓木松平信孝まで巻き込んだ家臣団一揆によるものです。信定はこれと戦わず、道閲(長親)の仲介で帰順します。幕府は今川義元を支持し、その義元の庇護を受けた仙千代です。門徒家臣達も信定を支持しない背景には、本山の石山本願寺の意向もあったでしょう。西条吉良家も東三河国人衆と松平家は親今川家に靡いてしまい、戦闘力を失っております。ここに事実上『尾三連合』は解体されてしまいました。
 そしてその翌年桜井松平信定は死にます。失意の死といっていいかもしれません。信秀は妹嫁と三河国に対する足掛かりを喪うことになります。
 また、今川義元は今は後北条家との戦いに明け暮れていますが、幕府の後ろ盾をもった存在です。それに対して期待をかけた斯波家の血をひく足利義維も阿波に去ってしまって既にいません。
 このまま失意に流されて自滅するパターンもありうるのですが、織田信秀は諦めません。まず、那古屋の今川氏豊から那古屋城を奪い取ります。反今川の旗幟を鮮明にしたという所でしょう。この時、氏豊は命乞いして助命されたといいます。駿河に帰らず京都に移り住んだといいますが、その辺の事情はよくわかりません。斯波氏の没落によって遠江支配は確定し、その役目は終わったということなのかもしれません。那古屋城は嫡男吉法師に与えました。そこに林、平手、青山、内藤の乙名衆四名をつけ、自らは古渡に城を立ててそこに住みました。
 津島の財力を集めつつ、那古屋や清洲に近い場所に拠点を移したわけです。古渡のすぐ南には熱田神宮があります。熱田は津田より東にあり、同じく海に面した港です。一応長島願証寺から離れるという形になっております。
 そこまでやっても信秀としては攻めに転じるきっかけが欲しかった。凋落しているとは言え、幕府の威光は本願寺を屈服させられる程度には健在です。それをバックに今川氏と対抗するためには、起死回生の大博打を打つ必要がありました。
 次項でそれについて触れてゆきたいと思います。

1510年(永正 七年) 織田信秀、海東郡勝幡城主・織田信定の長男として生まれる。
1513年(永正 十年) 尾張下四郡守護代の織田達定、主君の尾張守護斯波義達と争い、殺害される。
           尾張下四郡守護代家は織田達勝が継ぐ。
1515年(永正十二年) 斯波義達、今川軍と遠江で戦い捕虜となり、剃髪の上尾張に帰還。
1521年(大永 元年) 斯波義達、死去。斯波義統が家督相続。
1526年(大永 六年) 桜井松平信定、この頃までに守山を領有
           八月 今川氏親没。氏輝が家督相続
1527年(大永 七年) 織田信秀、家督を譲られて織田弾正忠家当主となる。
1530年(享禄 三年) 織田達勝、守護の斯波氏の代理として兵を率い上洛。
1532年(天文 元年) 織田信秀、尾張下四郡守護代家は織田達勝と争う。のち和睦。
1533年(天文 二年) 山科言継と飛鳥井雅綱が勝幡城で織田信秀らに蹴鞠指導。今川氏豊も出席。
1535年(天文 四年) 織田信秀、守山崩れに乗じ、井田野で松平広忠と戦う?
1538年(天文 七年) 織田信秀、今川氏豊を那古野城から追う。
1539年(天文 八年) 織田信秀、古渡城に移る。
1541年(天文 十年) 織田信秀、三河守に任官?
1544年(天文十三年) 織田信秀、道三の居城・稲葉山城を攻撃したが、敗退。(加納口の戦い)。
           織田信秀、斉藤道三の大垣城を攻囲するが、織田彦五郎に古渡城を焼かれる。
1545年(天文十四年) 織田信秀、守護代と和睦。末森城を築き、居城を移す。
1547年(天文十六年) 織田信秀、安祥城を奪取。
1548年(天文十七年) 小豆坂合戦。
1549年(天文十八年) 織田信秀、子の信長と斎藤道三の娘・濃姫を政略結婚させる。

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2008年12月25日 (木)

川戦:風雲編⑤織田信秀の肖像Ⅱ

 織田信秀が受け継いだ勝幡の西には木曽川・揖斐川・長良川の三川の河口に面した津島湊がありましたが、その河口の中州(輪中という)に伊勢国長島願証寺があります。ここには幕府からの攻撃を受けて避難してきた蓮淳がいました。尾張上四郡守護代の力は織田弾正忠家が領する津田湊が稼ぐ財力によっています。その津田湊の発展は対岸の伊勢長島、即ち願証寺の発展と機を一にしているのです。そこを領する織田信秀は情報分析も尾張国の誰よりも早かったと見てよいでしょう。本願寺の敗北を察知して、主家に幕命に従うことを主張したのだと思われます。それが入れられなかったため、織田信秀は織田大和守達勝に戦を挑みました。この時、一年ばかり戦って和議が成ります。少なくとも、この時に織田達勝も本願寺に積極的な協力はしないというところで話がついたものと思われます。これと同時期に機内においても、三好千熊丸(三好元長の遺児)の仲介で幕府と本願寺が一時的に和解をしていますので、それに応じたものように見えます。しかし、この講和は末端の暴走によってすぐに破られる事になります。

 この頃隣国三河の松平清康は広瀬・伊保の三宅氏・足助の鈴木氏の襲撃を受けています。幕府より本願寺の与同勢力への攻撃命令を帯びたものと推察されます。その清康を尾張勢が援けたという話はありません。松平清康は加賀の小一揆討伐に対する実円の派兵に協力していたと思われます。いわば織田達勝と同じ、本願寺教団の協力者という立場にたっていました。それがあろうことか、1533年(天文二年)に品野の勢力と戦うことになるのですね。品野は桜井松平信定の終わりにおける所領の一つとされています。これが信秀の指示によるものだとすれば、桜井松平信定に本願寺勢力討伐の実績を作らせて、三河松平家との連合存続を策したものとも考えられます。まあ、他にも色々ケースが考えられるので、ここで確定的なことはいえません。

 幕府と本願寺との争いにおいて、本願寺敗北がほぼ確定となった時、信秀としては三河から尾張領を蚕食している松平清康に変えて、信定を松平家当主にしたいと考えていたと思われます。松平勢は尾張上四郡を攻撃勢力の一角として活躍していました。その対価として守山や品野を桜井松平信定に与えていましたが、松平家家督の清康はその領地を本願寺勢の進軍通路として使っているわけです。本願寺の敗北が確定した後、本願寺兵が尾張国を通過することを許す理由はなく、いわんや松平清康は隣国を統一して戦国大名化しようとしていました。
 結果として清康は自滅しました。ところが今度は松平家の家臣達が十を過ぎて間もない仙千代を担いで岡崎城に籠ります。信定と同じく信秀の目から見てもこれが『誤解から生まれた不幸な事故』には見えなかったことでしょう。事情聴取のために信定を大樹寺にやるとともに信定の身の安全のために、兵をつけてやったものだと思われます。侵略に見えなくもないですが織田家は三河勢に尾張領を通過させる便宜をはかっております。その逆をやっても文句を言われる筋合いはないでしょう。それに、うかうかしていると広瀬の三宅氏、足助の鈴木氏と矢作川上流域の反松平勢力が南下してくる恐れがありました。空白期間を置かずに岡崎を押さえる必要があったものと思われます。

 桜井軍とその後詰の織田軍は井田野で抵抗にあいましたが、岡崎城を確保しました。ただ、そのどさくさに紛れて阿部定吉が仙千代をつれて岡崎城を脱出します。信定による追放説も考えられるのですが、阿部定吉のような行動を取る者を野に放ちつつ、仙千代を桜井信定の目の届かない所に追放するというのはありえないと思います。その年の暮れに阿部定吉の父道音が死にますが、これは井田野合戦のせいか、息子や孫の不始末の責任を取らせたと見るべきでしょう。しかし、それは後の祭りでした。
 流亡の仙千代は東条吉良家・今川家と結び、遠江から東三河を遊説し、その一帯を親今川に染め替えてしまったのです。織田家はここに介入できません。なぜなら、それが今川家の介入の口実になりかねないからです。実際は今川義元が武田信虎と結んだせいで北条家との関係が険悪になって行く過程にあり、出兵の余力はなかったものと思われますが、仙千代が今川義元と結んだことは信秀にとっての充分な牽制となっていました。頼りとなるのは西条吉良義郷です。かれは東条吉良持広を圧倒し、おそらくは身柄の拘束までしたと思われます。その嫡男吉次は織田家に人質となっています。しかし、荒川義広らの反撃にあって、義郷は戦死。吉良家は徒に消耗したにすぎませんでした。
 桜井信定も牟呂まで来た仙千代を大窪忠俊らに攻めさせますが、本気で戦っていませんでした。東条吉良の敗北に前後した頃と思われますが、牟呂を退去し東三河で再度力を蓄えます。

 その背後で織田大和守達勝は摂津石山に遷った本願寺と連携を深めてゆきます。本願寺は敗北後、伊勢長島願証寺に籠っていた蓮淳が中心となって、細川晴元に改めて誓約を交わし幕命に従うことを約します。その盟約に従って、今度は比叡山延暦寺と組んで都に跋扈する日蓮宗宗徒を攻撃しました。一向宗門徒を倒して勝ちに乗じて調子に乗りすぎたという面もあります。また、熱心な日蓮宗信者である三好氏(この時の当主は三好千熊丸)への牽制という意味合いもあったのかもしれません。ともあれ、京都の主要なる日蓮宗寺院二十一寺は悉く襲撃され、京の町は応仁乱以上に壊滅的な破壊を受けたといいます。石山本願寺は細川晴元に従うことで生き残りを許されたのでした。細川晴元は煮込んだ走狗をもう一回ウサギ狩りに使ったりするお茶目な人物だったようです。

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2008年12月23日 (火)

川戦:風雲編④織田信秀の肖像Ⅰ

 織田信秀についてはこれまでも何度か触れており、いくつかの事件の主なる登場人物となってはいます。とはいえ、本稿をはじめるにあたって改めて私流の解釈にて紹介いたします。

 いわずとも知れたことですが、織田信秀は織田信長の父親です。織田家はそもそも越前国にそのルーツがあり、越前・尾張・遠江守護を兼ねた斯波氏の家臣として尾張国に入りました。室町時代の斯波家は管領を出す家柄で、当主は基本的に在京でした。織田氏は守護の代わりに在国し、その留守を守ります。この守護の代わりの役職を守護代とよびます。守護代織田家は戦国時代に入って内訌を起こし、尾張国八郡のは上下に分かれて二人の守護代が尾張国を治めました。北側の上四郡を織田伊勢守家が、下四郡を織田大和守家が担当することになります。斯波家は戦国時代に入って家運が傾き、越前国を朝倉氏に、遠江国を今川氏に奪われました。永正年間に在京をやめて尾張に腰をすえた斯波義達は遠江奪還を志します。この頃に織田信秀が生まれました。尾張下四郡守護代には三名の奉行衆がついております。因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家の三家です。信秀はこのうちの弾正忠家の出です。弾正忠家は信秀の父の信定の代に津島・勝幡を領しておりました。

 斯波義達は西条吉良家と結び、遠江に自ら出陣します。しかし、遠江国を支配する今川氏親のまえに、あえなく失敗。捕虜となり、尾張国に送り返されます。勝者となった今川氏親は、支族がいた那古屋に自らの末子を養子に送り込みます。養子といってもただ一人で送り込まれたわけではなく、近侍する家臣達に役目が与えられていたと思われます。尾張国守護斯波義達の監視です。斯波家はこれ以後身動きがとれなくなり、家運を衰えさせます。それに替わって頭角を現したのが尾張国下四郡守護代織田大和守達勝でした。彼は尾張守護斯波義達を戴いて清洲に根拠地をもち、上四郡守護代伊勢守を圧倒し始めます。達勝の手足となって戦働きをしたのが、三奉行でした。1526年(大永六年)までに織田弾正忠信定は、上四郡守護代伊勢守から奪い取った春日井郡の守山に館を建て、そこに桜井松平信定を入れました。桜井松平信定の妻は織田弾正忠信定の娘です。これは主人である織田大和守達勝も同意のことで、三河の松平家を吉良家と同様に取り込もうとした動きとして解釈できます。

 1527年(大永七年)管領細川高国が桂川原の合戦に敗れて将軍足利義晴とともに京都を脱出して近江国朽木に逃れます。それが織田大和守達勝にとっての一つの転機となりました。ここまでの斯波家・織田家ははっきり言えば、今川氏に圧倒されていた負け組です。しかし新たに泉州堺に幕府を開いた足利義維に与する事で失地回復の目が見えてきたのです。足利義維の母は一説によると斯波家の出ということだそうですから、参陣すれば受け入れてもらえそうです。しかし、織田達勝には堺に向かう手段がありませんでした。京には幕府は存在せず、湖西の朽木には足利義晴が、南近江には六角氏がおり、京に入ることすらおぼつきません。そこに援助の手を差し伸べたのは山科本願寺です。

 山科本願寺は細川政元とのつながりは深かったのですが、細川高国政権下では逼塞を余儀なくされておりました。それが高国の都落ちを機に堺にいる細川晴元と誼を通じたのです。1530年(享禄三年)細川高国は備前を勢力下におく浦上宗村と同盟して上洛軍を催し、東征を始めます。その進軍ルートには播磨国英賀がありました。美濃・尾張・三河三カ国の国の本願寺教団門徒を束ねる三河国土呂本宗寺の実円は播磨国英賀にも本徳寺という水砦寺院をもっていました。そこにあろうことか、細川高国が入ったのです。実円は播磨奪還を望んでいたと思われます。細川晴元も高国の東征に対策を撃たねばなりませんでした。そこで京を守っていた義維派の柳本賢治に迎撃を命じます。柳本賢治の京都出立の直前に織田大和守達勝が上洛するのです。本願寺は大津・堅田に拠点をもっており、堅田衆は湖上水運を一手に引き受けておりました。湖西や湖南の陸路は押さえられていても、江北からであれば、船で軍勢を通すことも可能です。はっきりした証拠はありませんが、織田達勝は三千の兵を率いて柳本賢治の軍に合流したと思われます。しかしこの柳本賢治は細川・浦上連合軍との対陣中に暗殺されて、撤兵を余儀なくされます。

 細川・村上連合軍は播磨を越えて摂津に入り、京都が危機に陥るのですが、ここで今度は本願寺教団が分裂して加賀門徒が親高国派に転じます。1531年(享禄四年)実円は三河兵を動員してこれの鎮圧を図ります。その折、三河門徒兵が尾張領を通過できたのはこの時の貸しによるものだと思われます。その間に細川高国と浦上宗村は三好元長に完敗して戦死しました。加賀門徒の反乱も無事鎮圧されます。しかしその翌年の1531年(天文元年)、今度は織田達勝をかつて援けた本願寺門徒が足利義維を堺から追い出し、奈良に乱入するという暴挙に走ってしまいます。これは末端の暴走で、法主証如やそれを補佐する連淳や実円にも統御が利かなかったというせいもあるのですが、このせいで本願寺は細川晴元を敵に回してしまいます。細川晴元は義維にかわって朽木の足利義晴と和睦し、本願寺討伐を命令します。丁度この頃、父信定から家督を継いだのが信秀でした。

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2008年12月18日 (木)

川戦:風雲編③華麗なる水の一族Ⅱ

 岡崎に帰城し、元服した松平仙千代改め松平広忠と、その家臣団の台頭。同時に起こった東条・西条両吉良家の潰し合いによって『尾三同盟』は霧散しました。
 清康が征服した東三河の国人達は永正の昔に還って今川家に服するようになります。そのきっかけを作ったのは他ならぬ広忠でした。
 尾張国は弱体化した守護斯波氏から織田達勝らの守護代が実権を掌握した時代を経て、風雲児織田信秀が暴れ回る時代となっております。その織田信秀に親しかった桜井松平家の力は当主信定の死によって大きく削がれます。
 東三河と尾張が岡崎松平家の勢力圏から抜けることにより、その力は大きく減じることになります。しかし、考えようによっては清康が松平家を継いだころとあまり違いはないのですね。
 むしろ、織田家や尾張国と距離を離して付き合えるようになった分、松平家臣団にとってはフリーハンドののりしろが多く取られるようになりました。
 目を東に転じれば、今川義元は武田信虎と同盟を結んだことが禍してかつて家臣だった北条家と敵対するようになります。玄広恵探(げんこうえたん)に先んじて家督を継ぐための結んだ同盟ではありましたが、その対価はきっちり取り立てられていたということです。今川家と北条家は武田家を巻き込んで1545年(天文十四年)まで富士川以東の地域を巡って戦いました。これを河東の乱と言います。
 その間、西三河の国人・土豪達は幼君を担いだ体制強化を図っております。その一翼を担った家がありました。水野家です。水野家は緒川・刈谷を本拠地としており、三河国と尾張国の丁度中間に位置しています。
 以下に、水野家の略系図を示します。

岡崎松平信貞娘     +――信元(緒川→刈谷)
  ∥         |   ∥
  ∥         |  桜井松平信定娘
  ∥         |
 水野忠政―――――――+―― 女
  ∥         |   ∥
  ∥         |  松平家広(形原)
  ∥         |
 お富(華陽院)    +――信近
            |
            +――忠守(緒川)
            |
            +――於大
            |   ∥
            |   +――徳川家康
            |   ∥
            |  松平広忠(岡崎)
            |
            +――妙西尼
            |   ∥
            |   +――石川家成
            |   ∥
            |  石川清兼(小川)
            |
            +―― 女
            |   ∥
            |  水野豊信
            |
            +――近信
            |
            +―― 女
            |   ∥
            |  中山勝時(岩滑)
            |  
            +―― 女
            |   ∥
            |  水野大膳亮忠守
            |
            +――忠分(布土)―― 女
            |           ∥
            |          松平家忠(深溝)
            |
            +――忠重(鷲塚→刈谷)

 彼には二人の妻がいました。一人は岡崎松平信貞の娘。もう一人は大河内元綱の養女お富。松平信貞は岡崎城を領し、永正三河乱後に台頭する安祥家に異を唱え、安祥家以外の一門衆の一人として時の安祥松平信忠を隠居に追い込みました。その直後、安祥家を継いだ清康の反撃を食らって大草へ退去します。清康が一門衆に対する反撃の相手に選んだのがこの人物です。大草に退去するまでは松平一門衆に対する発言力も高かったと思われます。その人物の娘を水野忠政は娶ったわけです。
 もう一人の妻、お富はもともとは尾張国の出身で美人の評判があった娘です。水野家も三河と尾張をつなぐ要衝の地を根拠地としておりましたから、斯波氏としても吉良氏としても押さえたい地であったのではないでしょうか。それゆえ、吉良家家臣の『大河内元綱の娘』という箔をつけて水野家に送り込んだのではないかと想像します。お富は一時松平清康の妻にもなったという説もあるそうなのですが、そうしてしまうと忠政の末の子供達の母親が別人だったことになりますので、それはありえないと考えていいでしょう。
 永正年間の後半、大河内氏は遠江国で今川氏に敗北し、大永に入って岡崎松平信貞は安祥松平清康に敗れました。その都度フォローが必要となった水野忠政ですが、次にターゲットとしたのが、桜井松平信定でした。信定の娘を息子の信元の嫁にとっております。あわせて形原松平家広に娘を嫁がせていますね。その信定は松平家の実権を一時握りましたが、家臣達のクーデターによって、広忠に仕えざるを得なくなりました。そこで広忠に娘を嫁がせます。家康の母となる於大の方です。
 水野忠政は松平家の実権を誰が握っているのかを注視し続け、その動きに合わせて姻戚関係をむすんでいるのですね。最初は岡崎松平、次に桜井松平と形原松平、そして新たなる岡崎松平氏の広忠と続きます。

 水野忠政はかように松平氏との縁戚関係を取り結びましたが、その動きにイレギュラーなものが入ってきます。於大の妹である妙西尼(出家後の号であり俗名は別にあると思います)が石川清兼に嫁いでいるのですね。これは次々に変転する松平家の実力者に外れ籤を引かされ続けた水野家が保険として松平家の有力家臣にも触手を伸ばしたようにも見えます。
 妙西尼に関しては二つ興味深い事実があります。まず、石川清兼との間に石川家成をもうけますが、彼の生年没年を考えると於大の妹というよりは、どうやら姉らしいというのです。
 もう一つの興味深い事実は彼女の宗旨です。三河の本願寺教団は後に徳川家康の弾圧にあうのですが、その弾圧下において、石川清兼の妻として門徒達の指導的な立場に立つことになります。石川家成の母の立場で関東入り直前の徳川家康と交渉し、本願寺系寺社の復興を認めさせているのですね。
 実家である水野家の宗旨は曹洞宗です。水野家は三河一向一揆において家康に援軍を送り、本願寺教団に対して弾圧を加える側に立ちます。石川一族も数正や家成などは浄土宗に改宗しており表面上は本願寺教団は息の根を止められた形になっていたのですが、影では脈々と本願寺教団への信仰は続いていたようです。石川数正は織田信長の死後、羽柴秀吉の下に出奔し、結局本願寺教団に宗旨を戻しているので、どうやら改宗は便宜的なものだったと考えられます。さりながら、石川清兼が三河門徒の柱石であったとしても、家に入った他宗の女が婚家の宗旨に改めるというのは普通にありそうですが、門徒達を指導する立場に立つということにやや不自然さを感じるのですね。おそらくは清兼は既になく、家成は掛川に、数正は秀吉の下に出奔して、岡崎にいる石川一門の中で残された最上位者は彼女だったと言えるかもしれません。でも、そうなるとなぜ彼女は掛川ではなく、岡崎にいたのか。主家の城ということになると、この時家康は駿府にいましたので、そこにいなければならないことになります。岡崎には姉である於大がいるので、その関係だとも考えられるのですが、そうであれば今度は於大が岡崎にいる理由について首を傾げなければならなくなってしまいます。このあたりは個人的に実に実に興味をもっていることではありますが、本稿ではこの程度にしておきます。

 ともあれ、水野家は西三河の諸族の動向に非常に敏感であり、その動きに応じて婚姻政策という手を次々に打っています。松平家や石川家にしても水野家と結ぶことに何かのメリットがあるとみているのでしょう。しかし、水野家と松平家の関係は織田家と今川家の対立が深まる中で、ともに戦わざるを得ない所まで追い込まれてゆきます。それは次稿以降で述べてゆきたいと思います。

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2008年12月16日 (火)

川戦:風雲編②華麗なる水の一族Ⅰ

水野家という家があります。この家は尾張と三河の国境に流れる境川という川沿いに、緒川(小河)、刈谷に根拠地をもっておりました。尾張国は斯波家が没落し、織田守護代家や、織田弾正忠家の勃興があり、西三河においても、細川家から吉良家、松平家と勢力地図が目まぐるしく変転する中、緒川から知多半島にかけて勢力を伸張させております。知多半島には既に戸田氏、佐治氏がいて、水野氏はその後になって頭角を現してきたものなのですが、水野家が勢力を伸ばしていった原因として、水野忠政の代あたりにおいての世渡りの上手さというのがあったのかと推察します。

 水野家というと平家物語や太平記にも名前が出てくるほど有名な家系であり、その登場人物に連なる系図も残っております。ただし、忠政の家系は清忠以前には同時代史料に記述が無く、詳しいことはわかりません。清忠も永正五年に下野守という官位を得ていたらしい、ということが実隆公記という公家の日記に記されています。永正五年八月四日の記述です。

 水野右衛門大夫(下野守に任じられたという)、礼と称し(太刀を携えて)来たる。大隅が引導なり。対面しおわんぬ。

 翌日にも水野の名前が出てきますから同一人物でしょう。こんな感じの文章がありました。

 五日辛未晴、早朝。水野の太刀遣わすを許しおわんぬ。(中略)水野、一荷を送る。鯉等の思いがけない心遣い也。禁裏より鯨荒巻十本これに下され、武家より進ぜられるという。

 刈屋の土豪、水野清忠は内大臣三条西実隆に直接面会して礼をを申し述べることが許されている立場なのですね。そして三条西実隆は彼の事を下野守=下野国国司と呼んでいます。これは朝廷が与える官職と呼ばれるもので、下野国守護などといった室町殿の統治機構である幕府の役職とは別物です。

 例えば、細川政元なんかを例にとりますと、彼は幕府から管領という役職を貰っていると同時に、朝廷から右京大夫という官職を頂いております。右京大夫というのは京職という職分の一種であり、京職とは都に関わる行政・治安・司法一切を統括する役目です。右京大夫はその京都を左右に分けて、その右側の京職を統括する役目です。この役職は律令制の初期には機能していましたが、やがて機能不全を起こします。桓武天皇が令外官として検非違使という役職を置き、右京大夫の職掌を引き継いだ後は単なる名誉職となってしまっております。
 しかし、室町殿も征夷大将軍を朝廷からもらっており、足利家の家臣の身で、朝廷から官職をもらえることは武家にとっては名誉なことでもありました。故に細川政元は右京大夫という官職を得ていたわけです。この右京大夫を中国風に言うと(これを唐名といいます)京兆と呼びます。細川家は数多くの分家を有していて、区別が大変なので管領家である細川家のことを右京兆家と呼んで区別することがあります。
 水野清忠が得ていたという下野守も同様に何の実際的な権限も付随しない役名に過ぎないのですが、どうやら下野守という名乗りが許されていたらしい。時の内大臣である三条西実隆が彼の事をそう書き記しているのですから、この尾三国境に勃興した小領主が下野守の官職を得ていたことは確からしいのです。
 実はこれと同じ年に流れ公方であった足利義材(義植)が復帰に成功し、その折、時の今川家の当主、氏親が遠江守護を貰っています。これはそれまで遠江守護を出していた斯波家の勢力を駆逐した後の追認のようなものでもありました。とはいえ、この時点で守護は『活きている役職』です。今川氏親は治部大輔、上総介という朝廷の官職をもっていましたが、治部省の役人として裁判権をもっていたり、上総国国司としての支配権をもっていたわけでもありません。

 水野清忠が幕府の奉公衆であり、朝廷官位・官職について室町殿の推挙を得ていたということもありえなくもないのですが、奉公衆は明応の政変で足利義材(義植)が細川政元に京を追い出された折に、事実上解体されております。復帰を期に奉公衆再編ということはありえなくもないのですが、そうなると室町殿である足利義材(義植)と緒川、刈屋の領主である水野清忠との間にどんな関係があるのかが首を捻らされます。下野守の官職が正式なものであるから、水野清忠は室町殿の推挙を受けて武家官職を得ていたはずである。であるならば、水野清忠は足利義材(義植)から正式な武家の役職を貰っていたはずであると論理を積み上げるのはやや厳しい。本稿においてはここはミッシングリングとして扱うこととします。但し、この当時は室町殿が任ずる武家の役職なしに朝廷の官職を得ても何の実利もないはずなのです。なので室町殿と水野清忠との間に何らかの関係があると見たほうが自然ではあるのですが、調査力不足でわかりません。

 武家に対する朝廷官職の任免権は室町殿が持っていたのですが、室町幕府の崩壊過程で官職任免手続きが滞り、守護大名や戦国大名、もしくは国人・土豪が自分の裁量で部下に名乗らせたり、自ら名乗ったりしたようです。これを僭称官職と言います。もはや朝廷も室町殿も陪臣の官位を一々チェックする余裕などありませんし、朝廷の官職自体に実体がありませんので、戦国時代においてはこの手の名乗りが横行します。
 しかし、もし水野清忠の下野守が武家の正式な手続きを踏まずに勝手に名乗った僭称官職であったとしても、朝臣であり内大臣でもある三条西実隆がニセの官職名を日記に記すとも思えないのですね。

 もともと武家に与えられる朝廷の官職に実体はないのですが、時代が下るにつれてそれに実利を求める流れとなります。その先鞭をつけた者の一人のが本稿でも度々とりあげている織田信秀です。彼は『三河国の支配者』としての三河守を得るために莫大な費用を朝廷に献じたといわれています。ただ、そんな風になるためには京都に室町殿が不在で事務の滞りが発生したり、朝廷が困窮して地方の実力者に官職を売ることを思いつくなどのプロセスが必要です。
 水野清忠の時代にはまだ室町殿は顕在で、武家は室町殿を通して官職の名乗りを許されていました。彼が何を考えて下野守の名乗りを許されたのかは不明ですが、戦国時代の武家に対する官位・官職を考えるに当たり、もっと調べてゆきたいなと思うテーマではあります。

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2008年12月14日 (日)

川戦:風雲編①プロローグ

 実は当初、前稿の下克上編は風雲編と題して1538年(天文七年)から1546年(天文十五年)までの西三河における主要な出来事をまとめて記すつもりでした。その前提として安祥合戦と小豆坂合戦の年次を後年であることを示す必要がありました。そこで最初にみえるものは、松平家臣達が一門衆に対して手にした優位と、幼君推戴の体質です。そのあたりを書き進めるに当たって、紙幅が足りなくなり、戦国の風雲児である織田信秀について触れるスペースがなくなってしまいました。私自身が評価するに、信秀は信長の雛形、プロトタイプと言っていい資質をもっております。両者の違いはスタート地点が尾張国守護代の奉行であるところか、尾張国第一の実力者の正嫡であるかの所にあるのではないかと思っています。前稿を風雲編とつけようとした意図は、そんな織田信秀の生涯を追いかけることにありました。
 ともあれ、前編は色々盛り込みすぎたので、織田信秀の部分は大幅にカットし、下克上編と改題しております。そして本編につきましては風雲編と題し、織田信秀を中心に松平広忠帰還後の三河国周辺の諸事情を描いてゆきたいと思います。

1534年(天文 三年)  五月  十二日 織田吉法師(信長)、生誕。
1537年(天文 六年)  二月   六日 木下日吉丸(豊臣秀吉)、生誕。
1538年(天文 七年)十一月二十七日 松平信定、没。
                この年     織田信秀、今川氏豊の那古屋城奪取。
1539年(天文 八年)      この年          東条吉良持広、死去。義安が家督を相続。
                この年     東条吉良吉次、織田家の人質になる。
                      この年     織田信秀、古渡城に移る。
1541年(天文 十年)               水野忠政娘お大、松平広忠に嫁す。
1542年(天文十一年)十二月二十六日 松平竹千代(徳川家康)、生誕。
1543年(天文十二年)  七月  十二日 水野忠政、没。
               八月二十七日 松平信孝、追放。三木城が没収される。
1544年(天文十三年)  八月二十二日 松平長親、死去。
               九月二十二日 織田信秀、美濃国井口城を攻め大惨敗を喫す。
              この月          松平広忠、お大を離縁。
              十一月       織田信秀、美濃大垣を攻囲する。
                         織田信秀、織田彦五郎が古渡城を焼いた為、大垣撤退。
1545年(天文十四年)            織田信秀、守護代と和睦。末森城を築き、居城を移す。
1546年(天文十五年) 十一月 十五日 松平広忠、今川義元の命により、吉田城攻めに参陣。

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2008年12月11日 (木)

川戦:下克上編⑫道閲入寂Ⅱ

 清康が安祥家を継いだのは、信忠と同じ十三歳の頃でした。安祥松平家の家臣達はまた新たな幼主を得たわけです。清康には信忠にはなかったとされた将器がありました。しかし、成年である信定ではなく、十三歳の少年が家督を継ぐということは、将器を期待されての相続ではなかったことが窺えます。永正井田野合戦の時と同じく、松平家の危機的状況にあって安祥家の家督を幼君が担い、松平一門の団結を示そうとしたのではないかと思われます。但し、その直後、一門衆である岡崎松平親貞と安祥家との戦いに入ったことを考え合わせると、この時の幼君推戴の主体となったのは松平長親ではなく、家臣団だったのではなかったかと思われます。長親にとっては家督を継ぐ者が、松平清康でも桜井松平信定でもそう大差はないだろうと思われます。その反面、安祥に詰める安祥家家臣団にとっては桜井の分家を主人に迎えることになるのですから、それを嫌ったということではないでしょうか。逆に当主が幼君であることによって、家臣団はより大きな自由度をもてることになります。
 それから間もなく、松平一門は尾張国斯波家・織田家と結んだ西条吉良家に従って、永正以来今川氏の勢力下にあった東三河の国人領主達を服属させます。織田・斯波・吉良の連合は本願寺と接触し、上洛ルートも確保します。ところが本願寺の門徒が暴走して本願寺は堺幕府を敵に回してしまいます。ここまで順調だった清康の征服事業は清康自身の命を奪う結果となってしまいました。
 すると今度は家臣達が、新たな幼君の下に結束しようとします。安祥家家臣以外の松平一門にとって清康の死が『誤解による不幸な事故』では済まないのは当然のことで、織田信秀が率いたとされる尾張勢(その実体は桜井松平軍)がまず大樹寺に入ったのは、岡崎城の家臣達に清康の死の責任を取らせることを認めさせることに他ならなかったでしょう。しかし、阿部定吉はそれより先に、仙千代を拉致して岡崎を出奔します。そして、結局信定は松平家の家臣達を従わせることはできませんでした。家臣達が必要としたのは、信定のような家臣達を統率しようと試みる実力者ではなく、家臣達の結束のシンボルとなる幼主だったわけです。その家臣団と信定との和議が道閲が行った最後の仕事となりました。

 道閲が大樹寺に入って三人の家督が交代しました。信忠、清康、広忠。いずれも、十三歳前後で家を継いだ幼君です。信忠の時は今川軍の侵攻を食い止め、清康の頃は負け知らずの戦を戦い抜きました。松平家、そして家臣達にとって幼主を立てるということは吉例となっていたのではないでしょうか。そして、信忠と清康は彼らが選んだ路線が孕む矛盾に立ち往生した時に退場を余技なくされています。それが可能だったのは、安祥家の長老として道閲がいたからではなかったかと思うのです。この後広忠の松平家は崩壊の過程を突き進むことになります。織田信秀が攻め込んできて一門は親織田と親今川に分裂するのですね。信定のいた桜井家、信孝の合歓木家、忠倫の佐々木松平家が広忠を敵とします。その事実を鑑みるに道閲の存在は決して小さくなかったと言えるでしょう。

 道閲の晩年、彼の身近に一人の老僧がおりました。超誉存牛です。彼は道閲の弟であり、岩津にある信光明寺の住持でした。1527年(大永七年)まで京都の知恩院の住持を努め、後柏原天皇の崩御に際して善智識を伝えたと言われております。後柏原天皇は戦国の混乱と貧窮の中、二十二年も即位の礼を執り行えず、天皇の義務である大嘗祭も結局主宰できませんでした。戦乱の明け暮れの中誰も天皇を見ない中、この超誉存牛は京都の帝への食い込みを図った人物です。ちなみに後柏原天皇の二十二年目の即位の礼のスポンサーは当時山科にあった本願寺だったりしますから、天皇家の困窮を宗勢伸張の機会としたのは、浄土宗鎮西派白旗流だけではありません。超誉存牛が道閲の晩年に信光明寺にいたのは偶然ではないと思います。おそらくは、道閲は自らの後継として超誉存牛を松平一門の長老に据えようと画策していたのではないでしょうか。非安祥系の松平諸家とは疎遠になり、安祥系松平家も当主広忠と対立して脱落するなか、京の威光を利用しようとしたとみるのは決して不自然ではないと思います。
 但し、超誉存牛にその気はなかったようです。道閲の服喪があけた1545年(天文十四年)、彼は信光明寺の住職を辞して高月院に隠棲しました。ここは松平郷にある源姓松平初代の親氏、二代泰親墳墓の地です。松平家の長老が住むに相応しいゆかりの場所ではあるのですが、大樹寺と比べるとやはり立地が辺鄙すぎて一門に影響力を及ぼすに相応しい場所とも思えません。そこに引き篭もった後、1549年(天文十八年)入寂しております。奇しくもこの年に松平広忠も没しているのですね。同じ年に阿部定吉も死んでいます。これをもって一時代は終わったと言って良いでしょう。
 その終わり方がどんなものだったか、については次編以降にて触れてゆきたいと思います。

1455年(康正 元年)松平長親誕生
1488年(長享 二年)長親発行文書の初出
1501年(文亀 元年)長親、この時までに出家。家督を信忠に譲る?
1501年(文亀 元年)松平親忠没
1503年(文亀 三年)信忠(当時十三歳)、称名寺の為に禁制発行。惣領の証拠?
1508年(永正 五年) 永正の井田野合戦。
1521年(永正十八年)信光明寺の超誉、知恩院に転昇。
1523年(大永 三年)清康(当時十三歳)、家督継承。(明大寺)岡崎親貞と戦争を始める。
1527年(大永 七年)超誉、知恩院を辞山。信光明寺の住持に復帰。
1537年(天文 六年)広忠(当時十二歳)、岡崎城復帰。

1549年(天文十八年)超誉、逝去。

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2008年12月 9日 (火)

川戦:下克上編⑪道閲入寂Ⅰ

 前稿で合歓木松平信孝の追放について述べました。その事件について、もう一つ付け加えることがあります。信孝放逐の決定プロセスは家臣団の憂慮に端を発し、家臣達が広忠を説得することで始まりました。そして、信孝は調停者として外部勢力である今川義元を選んでいます。今川家は強力な武力を有していますから、今川義元は確かに頼みにするに値する人物であるとは思います。でも、信孝がその行動を取る前にもう一つ、取るべきプロセスがあったはずなのです。それは――信孝の祖父である大樹寺の道閲に調停を依頼することです。
 道閲は安祥松平家第二代松平長親のことです。本稿を初め、数ある歴史書では彼のことを長親と呼び習わしておりますが、実は同時代史料に長親と名乗った史料はなく、長忠か道閲と名乗っていました。
 松平信忠が押籠を食らった時、家督を清康が継ぐか、信定が継ぐかの選択がなされましたが、その選択のキーパーソンとなったのが道閲です。
 清康の死の直後、岡崎に迫った尾張勢は真っ先に大樹寺を占拠しております。そこに隠棲していたのが道閲です。そして、仙千代が岡崎に帰還したときに、桜井家と仙千代(広忠)との和解をとりなしたのが道閲でした。信孝が放逐されるに至る際、信孝は宗家に対して詫びさえ入れていますが、それは受け入れられませんでした。ここで道閲に仲介を頼まなかったのは不自然に思えます。実は信孝追放の翌年、1544年(天文十三年)道閲は入寂しているのですね。信孝追放の時点で道閲は齢九十を越しております。なのでもしかしたら、もはや起居できないほど衰えていたのかもしれません。もしくは、安祥松平の家臣団は、合歓木松平家信孝を実力で放逐できるだけの力をもってしまいました。信孝は松平一門のもともとの宗家である岩津家所領すら手中におさめています。広忠の家臣団はその信孝を圧倒できるほどの力を持ってしまったわけです。道閲が号令して一門の力で家臣団を抑えようとしても、もはや家臣達に対抗できるだけの動員が出来なくなってしまった。ということではないでしょうか。
 以下、私流の解釈による彼の生涯をおさらいします。

 道閲は安祥松平家初代の親忠の嫡男として生まれました。親忠は安祥の城を持っておりましたが、年老いた父信光に代わって松平一門の家政を取り仕切っておりました。兄や甥が主家である伊勢氏のいる京都に常駐していたからです。ただし、弟の身で本家の家政の前面にでるのは色々さしさわりがあったのでしょう。出家して西忠と号しました。安祥の城よりも岩津に近い鴨田の地に立てた寺、大樹寺に住み、そこから父信光のいる本家に通ったようです。西忠が岩津と大樹寺を往復している間、安祥の城は長親が見ていたと思われます。岩津本家の当主、安祥家の当主、その跡継ぎと玉突きのように収まるべきところがズレているのがこの時代の特徴であったと思われます。これは決して珍しいことではなく、各国の守護は京都に常駐しておりました。その間在地の守護代が守護に変わって国の政務をみることになっていたのですね。
 安祥には石川氏によって組織された門徒武士が入っております。もともとが信光が奪った城ですので、そこには譜代と呼べる家臣はおりません。門徒には本願寺法主というもう一人の主人がおりましたから、主従関係は三河物語が形容した『お家の犬』といった絶対的なものではなく、もっと緩やかな協力関係ではなかったかと推察します。
 信光と親忠が亡くなった時、岩津宗家の当主はどうも三河に帰ってきていなかったようです。そこで安祥家の跡継ぎが引き続き一門の家政を見ることになったと思われます。その結果、西忠(親忠)の変わりに法体となって大樹寺に入りました。長親が家督を継いですぐに隠居したことに首をかしげる向きもあるのですが、分家の身で宗家の代行として一門の家政を見るに当たって父親の例に倣ったと考えればうなずけるところです。長親自らは大樹寺あって、法体で宗家の家政を担当しつつ、安祥家家督は子孫に残してゆきました。基本的に惣領は終身ですので、信忠・清康・広忠の三代は安祥家家督であって、完全な意味の惣領とは言えないという見方もできるでしょう。彼は一門と安祥家家臣団の間に立って、両者の利害を調整しました。それまで長親が入っていた安祥の城には信忠が入りました。信忠が安祥城主としての最初の仕事をしたのは1503年(文亀三年)、信忠十三歳の頃でした。家督を継ぐには幼な過ぎる年齢です。また、今川氏親が伊勢宗瑞に三河侵攻をさせた時、当時十八歳の信忠に変わって安祥から長親自らが兵を率いて迎撃しました。このことから私は家督譲渡が即ち惣領権の譲渡を意味していないことを表していると思います。但し、永正年間の今川氏侵攻という危急の事態に対して、安祥城の城主としての信忠の姿が見えないということは、城主としてのリーダーシップが充分ではなかったとも言えるでしょう。言い換えるなら、家臣達のフォローがあって始めて信忠は城主でいられたということです。安祥の城は家臣が城主を盛り立てて始めて機能したといえるでしょう。
 この後、信忠は一門衆と家臣団を統御することに腐心しますが、結果としては両者から離反されます。この責任の一端は道閲のミス(大樹寺を安祥系松平諸家の菩提寺に定めたことにより、非安祥系松平諸家の反発を受けた)にもあると思われますが、信忠も強情であったことが嫌われました。信忠はもはや幼君ではなく、自らの判断でことを動かそうとした結果、押籠められる事となります。この信忠の事例が後代にまで影響を及ぼすことになったのではないかと思われます。

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2008年12月 4日 (木)

川戦:下克上編⑩松平信孝放逐

 この家臣団優位の体制にあって、利を得ていた一門の者がいました。合歓木松平家の信孝です。彼は広忠の叔父、すなわち清康の弟で、合歓木郷を領しておりました。彼は仙千代放逐後、主人のいなくなった岡崎城の城番を努めました。松平一門の総帥が安祥家嫡流から桜井家に遷ることを快く思っていなかったのでしょう。大窪新八郎忠俊始め、安祥家家臣達の説得に応じ、岡崎城を故意に留守にしてクーデターを起こすきっかけを作ってやります。いわば広忠の岡崎復帰の功労者の一人でした。そういう事情もあって、広忠はこの叔父を大事に思ったことだと思われます。対する信孝も自ら進んで広忠と争うことはせず、むしろ桜井松平信定や青野松平義春亡き後の広忠の後見人としてこれを支えます。その過程で岩津松平家の継嗣が絶え、その旧領を信孝が継承したと、松平記には書かれています。その後、1542年(天文十一年)信孝の弟である三木松平康孝が没します。生年は不詳ですが、もう一人の兄である清康の生年から類推するに、二十代後半くらいの若死にだったようです。彼は三木(みつぎ)を領しておりましたが、この所領も信孝が引き取り、ここを自らの拠点としました。これによって、松平宗家である安祥家よりも規模的に大きい分家が誕生します。しかも、彼はかつて松平清康に対する桜井松平信定と同じ宗家の後見人の立場にありました。
 また、この前年の1541年(天文十年)、松平広忠は於大との間に嫡男竹千代を設けています。松平家家臣達の脳裏に一つの不安がよぎります。もし、竹千代が成人する前に広忠が死んだならどうなるのかと。桜井松平信定がそうしたように、今度は合歓木松平信孝が岡崎城を乗っ取り、竹千代を放逐することにはなりはしないかと。家臣達は自分たちの懸念を広忠に吹き込んだものと思われます。この年、松平広忠は十八歳です。子供はかわいいだろうし、自らの苦難の記憶もまだ冷めてはいないでしょう。それと自分の子をそれと同じ目に遭わせたいと思う親はいないでしょう。

 松平広忠は家臣の言を入れ、1543年(天文十二年)正月に今川家への使いに信孝をやり、そしてその留守の間に信孝の領地に攻め込み、代官を置いて直轄化しました。まぁ、信孝に不正があったと仮定しても、非道な行動です。信孝はこの非道を今川義元に訴えます。今川義元も和談の仲介に乗り出しますが、安祥松平家も本多忠高、酒井正親、石川清兼、阿部定吉、植村氏明と重臣衆を次々送り込み、信孝の非を訴え介入を拒否します。結果、今川家は仲介しないこととなりました。
 もし、今川義元に成敗権があるならば、和議は強引に推し進められたか、信孝か安祥家家臣達のどちらかが罰せられたでしょう。1542年(天文十一年)に小豆坂合戦があったなら、そこには駿河衆がいたはずであり、不満分子を野に放つとも思えないのですね。それは桶狭間合戦の直前に行った鳴海城主の山口教継に対する躊躇ない処断を見れば相当な違いがあると判るでしょう。

 放逐された信孝はそれでも旧領で挙兵を試みますが、自らに付けられた家臣達は先手を売って広忠の元に帰参しておりました。大窪忠俊の弟である忠員、忠久も帰参組でした。信孝はこれを恨んで大窪家領を襲いますが、先手をとって大窪家では妻子を勝鬘寺に匿ってもらったとあります。勝鬘寺は本願寺教団の拠点である三河三箇寺の一つで、この時領主も入れない不入の権を得ておりました。寛正の頃ならいざ知らず、既に室町幕府にはその不入権を担保する能力は現実にはないのですが、それでも信孝の攻勢を避けえたというのは、勝鬘寺自体がそれだけの実力を備えていたということでしょう。
 もっとも、信孝が大窪家の領地を襲ったのは、これは安祥城落城後のことかもしれません。大窪家の妻子が勝鬘寺に籠ったのは三河物語によれば一、二年のこととなっております。
 天文九年安祥落城説が正しければ、信孝放逐後、大窪家の根拠地である上和田は松平一門の一人(どこの系統の松平氏からわかりませんが、佐々木を根拠地にしていたようです)松平忠倫が織田信秀の命令で砦を作っています。この松平忠倫が広忠勢に打倒されるのが1547年(天文十六年)。合歓木松平信孝が戦死するのが1548年(天文十七年)になります。1543年(天文十二年)に大窪家の妻子が避難を始めたとするならば、上和田から避難の元凶がとりのぞかれるのは五年後ということになります。信孝が蜂起し、忠倫が上和田に砦を作るのが1547年(天文十六年)とすれば、この一、二年という数字は丁度当てはまることになります。
 天文十二年から天文十六年の四年間、松平信孝はかつての仙千代と同じように流亡の運命に直面していたのではないか。そんな風に考えております。

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2008年12月 2日 (火)

川戦:下克上編⑨一門衆vs家臣団

 前稿で1542年(天文十一年)に有ったといわれる小豆坂合戦が1548年(天文十七年)の一回だけだったこと。前々稿で1540年(天文九年)にあったとされる安祥城の織田信秀の攻略が1547年(天文十六年)にあったと思われることを記しました。牛一本『信長公記』も、三河物語も小豆坂合戦における織田軍進軍の起点を安祥城においているのですから、小豆坂合戦が起こる前提として、安祥城が織田方の手に落ちていないと成立しないわけです。三河物語は結婚やライバルだった大叔父の死の記事などの広忠にとってのグッドニュースのあとにいきなり安祥城の陥落をもってきて、その後は広忠の死にまで至る苦難の歴史が綴られています。
 さりながら、安祥城の陥落が1540年(天文九年)ではなく、1547年(天文十六年)であったとするならば、松平広忠が岡崎城に帰還した1537年(天文六年)から安祥城陥落の1547年(天文十六年)までの十年間は黄金時代だったといえるのではないでしょうか。誰にとっての黄金時代かといえば、松平家臣団にとってのです。実質的に一門衆を妥当した松平家臣団は西三河に地歩を固めます。主家である松平氏とともに攻め取った東三河の地は結果的に今川家の影響下に入ることになりましたが、逆に家臣団が松平一門と張り合うことが可能なサイズに松平家が縮小したとも言うことができます。この期間、阿部定吉、石川清兼、酒井正親らが幼君を守り立てる形で結束し、西三河の地をおさめておりました。
 広忠は父清康の代に比べて領地が小さくなったことを家臣近藤に詫びます。それと引き換えに家族主義的な主従関係が復活したエピソードを述べて家臣たちが幼君を守り立てようとしたことを強調します。
 しかし、その十年の間に桜井松平信定、青野松平義春、合歓木松平信孝、長老格である大樹寺の道閲(安祥松平長親)、信光明寺超誉存牛ら、松平一門の有力者達が退場を余儀なくされております。
 三河物語は建前としては、筆者である大久保忠教が子孫達に対して主家への忠節の大切さをくどいほどの述べたものですが、松平一門の当主である広忠を自家薬籠中に収めた家臣団が一門衆を圧倒したこの十年は大久保忠教にとってもあまり深く触れられたくない十年だったのではないか。そんな風に思っています。

 松平仙千代は岡崎復帰後、元服をして松平広忠と名を改めました。一門衆として広忠を支持したのは、岡崎明け渡しに内応した合歓木松平信孝、そして青野松平義春でした。青野松平義春は松平信忠、桜井松平信定の弟にあたります。桜井家が織田家と関係が深いように、青野家は所領が東条吉良家の勢力下にある関係で東条吉良家とは関わりが深かったようです。伝承では、東条吉良義藤の子持常(持広の父)の後見となり自ら東条松平を名乗ったという話もあるそうですが、これはどうやら家康の代になって子孫が東条吉良家の主城である東条城に入った関係でつくられた付会のようです。(義春という
このころは足利一門でなもければ名乗れなかった義のつく立派な諱もそうかもしれません。三河物語では甚太郎と呼ばれています)
 松平仙千代の流亡は東条・西条両吉良家の抗争の引き金となり、仙千代を保護した東条吉良義持は嫡子を織田信秀の人質としてとられ、西条吉良義安を養子に迎えざるを得なくなるほど追い込まれ、西条吉良家当主だった義郷も抗争の中討ち取られてしまいます。また、東三河国人や松平家も親今川に奔ってい、結果として両吉良家は大きく弱体化しました。その混乱の中で東条吉良家と縁のあった青野松平義春にとって、西条吉良家とつながりの深い織田家と姻戚関係をもつ桜井松平信定は疎ましいものに映っていたのだと思われます。

 桜井松平信定は大樹寺に隠棲している一門の長老、松平道閲(俗名長親)のとりなしで広忠への帰順が赦されます。そして今度は帰順した桜井松平信定の処遇を巡って信定と義春との間で対立を生じます。信定の立場からしますと、兄弟の序列は弟である義春よりも上なのだから、上座に座ることが当然です。先代であった清康の後見をした自負もあります。義春に言わせると、信定は主君を裏切って放逐し、主君の復帰に当たっては逆に追放されてもしかるべきところを赦された物です。言うならば帰り新参であり、流亡中も仙千代=広忠を支えていた自分が兄信定より上座に座るは当然だと主張したわけです。この一門間の対立は一触即発なもので、いつ戦いになってもおかしくないものだったと三河物語は言います。但し、もし一戦あれば、その勝敗は明らかに義春の方に利があると予測されております。信定は既に家臣団の支持を失っております。いわば死に体の状況でした。主家の一門と言えど、家臣の支持がなければ影響力を行使できない、そんな状況となっていたわけです。桜井松平信定と青野松平義春との対立は相前後して両者が死ぬことによって自然消滅します。時に松平広忠十四歳。幼君を中心に家臣団が結束して主人を守る理想形が現出したわけです。

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