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2008年12月16日 (火)

川戦:風雲編②華麗なる水の一族Ⅰ

水野家という家があります。この家は尾張と三河の国境に流れる境川という川沿いに、緒川(小河)、刈谷に根拠地をもっておりました。尾張国は斯波家が没落し、織田守護代家や、織田弾正忠家の勃興があり、西三河においても、細川家から吉良家、松平家と勢力地図が目まぐるしく変転する中、緒川から知多半島にかけて勢力を伸張させております。知多半島には既に戸田氏、佐治氏がいて、水野氏はその後になって頭角を現してきたものなのですが、水野家が勢力を伸ばしていった原因として、水野忠政の代あたりにおいての世渡りの上手さというのがあったのかと推察します。

 水野家というと平家物語や太平記にも名前が出てくるほど有名な家系であり、その登場人物に連なる系図も残っております。ただし、忠政の家系は清忠以前には同時代史料に記述が無く、詳しいことはわかりません。清忠も永正五年に下野守という官位を得ていたらしい、ということが実隆公記という公家の日記に記されています。永正五年八月四日の記述です。

 水野右衛門大夫(下野守に任じられたという)、礼と称し(太刀を携えて)来たる。大隅が引導なり。対面しおわんぬ。

 翌日にも水野の名前が出てきますから同一人物でしょう。こんな感じの文章がありました。

 五日辛未晴、早朝。水野の太刀遣わすを許しおわんぬ。(中略)水野、一荷を送る。鯉等の思いがけない心遣い也。禁裏より鯨荒巻十本これに下され、武家より進ぜられるという。

 刈屋の土豪、水野清忠は内大臣三条西実隆に直接面会して礼をを申し述べることが許されている立場なのですね。そして三条西実隆は彼の事を下野守=下野国国司と呼んでいます。これは朝廷が与える官職と呼ばれるもので、下野国守護などといった室町殿の統治機構である幕府の役職とは別物です。

 例えば、細川政元なんかを例にとりますと、彼は幕府から管領という役職を貰っていると同時に、朝廷から右京大夫という官職を頂いております。右京大夫というのは京職という職分の一種であり、京職とは都に関わる行政・治安・司法一切を統括する役目です。右京大夫はその京都を左右に分けて、その右側の京職を統括する役目です。この役職は律令制の初期には機能していましたが、やがて機能不全を起こします。桓武天皇が令外官として検非違使という役職を置き、右京大夫の職掌を引き継いだ後は単なる名誉職となってしまっております。
 しかし、室町殿も征夷大将軍を朝廷からもらっており、足利家の家臣の身で、朝廷から官職をもらえることは武家にとっては名誉なことでもありました。故に細川政元は右京大夫という官職を得ていたわけです。この右京大夫を中国風に言うと(これを唐名といいます)京兆と呼びます。細川家は数多くの分家を有していて、区別が大変なので管領家である細川家のことを右京兆家と呼んで区別することがあります。
 水野清忠が得ていたという下野守も同様に何の実際的な権限も付随しない役名に過ぎないのですが、どうやら下野守という名乗りが許されていたらしい。時の内大臣である三条西実隆が彼の事をそう書き記しているのですから、この尾三国境に勃興した小領主が下野守の官職を得ていたことは確からしいのです。
 実はこれと同じ年に流れ公方であった足利義材(義植)が復帰に成功し、その折、時の今川家の当主、氏親が遠江守護を貰っています。これはそれまで遠江守護を出していた斯波家の勢力を駆逐した後の追認のようなものでもありました。とはいえ、この時点で守護は『活きている役職』です。今川氏親は治部大輔、上総介という朝廷の官職をもっていましたが、治部省の役人として裁判権をもっていたり、上総国国司としての支配権をもっていたわけでもありません。

 水野清忠が幕府の奉公衆であり、朝廷官位・官職について室町殿の推挙を得ていたということもありえなくもないのですが、奉公衆は明応の政変で足利義材(義植)が細川政元に京を追い出された折に、事実上解体されております。復帰を期に奉公衆再編ということはありえなくもないのですが、そうなると室町殿である足利義材(義植)と緒川、刈屋の領主である水野清忠との間にどんな関係があるのかが首を捻らされます。下野守の官職が正式なものであるから、水野清忠は室町殿の推挙を受けて武家官職を得ていたはずである。であるならば、水野清忠は足利義材(義植)から正式な武家の役職を貰っていたはずであると論理を積み上げるのはやや厳しい。本稿においてはここはミッシングリングとして扱うこととします。但し、この当時は室町殿が任ずる武家の役職なしに朝廷の官職を得ても何の実利もないはずなのです。なので室町殿と水野清忠との間に何らかの関係があると見たほうが自然ではあるのですが、調査力不足でわかりません。

 武家に対する朝廷官職の任免権は室町殿が持っていたのですが、室町幕府の崩壊過程で官職任免手続きが滞り、守護大名や戦国大名、もしくは国人・土豪が自分の裁量で部下に名乗らせたり、自ら名乗ったりしたようです。これを僭称官職と言います。もはや朝廷も室町殿も陪臣の官位を一々チェックする余裕などありませんし、朝廷の官職自体に実体がありませんので、戦国時代においてはこの手の名乗りが横行します。
 しかし、もし水野清忠の下野守が武家の正式な手続きを踏まずに勝手に名乗った僭称官職であったとしても、朝臣であり内大臣でもある三条西実隆がニセの官職名を日記に記すとも思えないのですね。

 もともと武家に与えられる朝廷の官職に実体はないのですが、時代が下るにつれてそれに実利を求める流れとなります。その先鞭をつけた者の一人のが本稿でも度々とりあげている織田信秀です。彼は『三河国の支配者』としての三河守を得るために莫大な費用を朝廷に献じたといわれています。ただ、そんな風になるためには京都に室町殿が不在で事務の滞りが発生したり、朝廷が困窮して地方の実力者に官職を売ることを思いつくなどのプロセスが必要です。
 水野清忠の時代にはまだ室町殿は顕在で、武家は室町殿を通して官職の名乗りを許されていました。彼が何を考えて下野守の名乗りを許されたのかは不明ですが、戦国時代の武家に対する官位・官職を考えるに当たり、もっと調べてゆきたいなと思うテーマではあります。

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