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2008年12月11日 (木)

川戦:下克上編⑫道閲入寂Ⅱ

 清康が安祥家を継いだのは、信忠と同じ十三歳の頃でした。安祥松平家の家臣達はまた新たな幼主を得たわけです。清康には信忠にはなかったとされた将器がありました。しかし、成年である信定ではなく、十三歳の少年が家督を継ぐということは、将器を期待されての相続ではなかったことが窺えます。永正井田野合戦の時と同じく、松平家の危機的状況にあって安祥家の家督を幼君が担い、松平一門の団結を示そうとしたのではないかと思われます。但し、その直後、一門衆である岡崎松平親貞と安祥家との戦いに入ったことを考え合わせると、この時の幼君推戴の主体となったのは松平長親ではなく、家臣団だったのではなかったかと思われます。長親にとっては家督を継ぐ者が、松平清康でも桜井松平信定でもそう大差はないだろうと思われます。その反面、安祥に詰める安祥家家臣団にとっては桜井の分家を主人に迎えることになるのですから、それを嫌ったということではないでしょうか。逆に当主が幼君であることによって、家臣団はより大きな自由度をもてることになります。
 それから間もなく、松平一門は尾張国斯波家・織田家と結んだ西条吉良家に従って、永正以来今川氏の勢力下にあった東三河の国人領主達を服属させます。織田・斯波・吉良の連合は本願寺と接触し、上洛ルートも確保します。ところが本願寺の門徒が暴走して本願寺は堺幕府を敵に回してしまいます。ここまで順調だった清康の征服事業は清康自身の命を奪う結果となってしまいました。
 すると今度は家臣達が、新たな幼君の下に結束しようとします。安祥家家臣以外の松平一門にとって清康の死が『誤解による不幸な事故』では済まないのは当然のことで、織田信秀が率いたとされる尾張勢(その実体は桜井松平軍)がまず大樹寺に入ったのは、岡崎城の家臣達に清康の死の責任を取らせることを認めさせることに他ならなかったでしょう。しかし、阿部定吉はそれより先に、仙千代を拉致して岡崎を出奔します。そして、結局信定は松平家の家臣達を従わせることはできませんでした。家臣達が必要としたのは、信定のような家臣達を統率しようと試みる実力者ではなく、家臣達の結束のシンボルとなる幼主だったわけです。その家臣団と信定との和議が道閲が行った最後の仕事となりました。

 道閲が大樹寺に入って三人の家督が交代しました。信忠、清康、広忠。いずれも、十三歳前後で家を継いだ幼君です。信忠の時は今川軍の侵攻を食い止め、清康の頃は負け知らずの戦を戦い抜きました。松平家、そして家臣達にとって幼主を立てるということは吉例となっていたのではないでしょうか。そして、信忠と清康は彼らが選んだ路線が孕む矛盾に立ち往生した時に退場を余技なくされています。それが可能だったのは、安祥家の長老として道閲がいたからではなかったかと思うのです。この後広忠の松平家は崩壊の過程を突き進むことになります。織田信秀が攻め込んできて一門は親織田と親今川に分裂するのですね。信定のいた桜井家、信孝の合歓木家、忠倫の佐々木松平家が広忠を敵とします。その事実を鑑みるに道閲の存在は決して小さくなかったと言えるでしょう。

 道閲の晩年、彼の身近に一人の老僧がおりました。超誉存牛です。彼は道閲の弟であり、岩津にある信光明寺の住持でした。1527年(大永七年)まで京都の知恩院の住持を努め、後柏原天皇の崩御に際して善智識を伝えたと言われております。後柏原天皇は戦国の混乱と貧窮の中、二十二年も即位の礼を執り行えず、天皇の義務である大嘗祭も結局主宰できませんでした。戦乱の明け暮れの中誰も天皇を見ない中、この超誉存牛は京都の帝への食い込みを図った人物です。ちなみに後柏原天皇の二十二年目の即位の礼のスポンサーは当時山科にあった本願寺だったりしますから、天皇家の困窮を宗勢伸張の機会としたのは、浄土宗鎮西派白旗流だけではありません。超誉存牛が道閲の晩年に信光明寺にいたのは偶然ではないと思います。おそらくは、道閲は自らの後継として超誉存牛を松平一門の長老に据えようと画策していたのではないでしょうか。非安祥系の松平諸家とは疎遠になり、安祥系松平家も当主広忠と対立して脱落するなか、京の威光を利用しようとしたとみるのは決して不自然ではないと思います。
 但し、超誉存牛にその気はなかったようです。道閲の服喪があけた1545年(天文十四年)、彼は信光明寺の住職を辞して高月院に隠棲しました。ここは松平郷にある源姓松平初代の親氏、二代泰親墳墓の地です。松平家の長老が住むに相応しいゆかりの場所ではあるのですが、大樹寺と比べるとやはり立地が辺鄙すぎて一門に影響力を及ぼすに相応しい場所とも思えません。そこに引き篭もった後、1549年(天文十八年)入寂しております。奇しくもこの年に松平広忠も没しているのですね。同じ年に阿部定吉も死んでいます。これをもって一時代は終わったと言って良いでしょう。
 その終わり方がどんなものだったか、については次編以降にて触れてゆきたいと思います。

1455年(康正 元年)松平長親誕生
1488年(長享 二年)長親発行文書の初出
1501年(文亀 元年)長親、この時までに出家。家督を信忠に譲る?
1501年(文亀 元年)松平親忠没
1503年(文亀 三年)信忠(当時十三歳)、称名寺の為に禁制発行。惣領の証拠?
1508年(永正 五年) 永正の井田野合戦。
1521年(永正十八年)信光明寺の超誉、知恩院に転昇。
1523年(大永 三年)清康(当時十三歳)、家督継承。(明大寺)岡崎親貞と戦争を始める。
1527年(大永 七年)超誉、知恩院を辞山。信光明寺の住持に復帰。
1537年(天文 六年)広忠(当時十二歳)、岡崎城復帰。

1549年(天文十八年)超誉、逝去。

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