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2008年12月 9日 (火)

川戦:下克上編⑪道閲入寂Ⅰ

 前稿で合歓木松平信孝の追放について述べました。その事件について、もう一つ付け加えることがあります。信孝放逐の決定プロセスは家臣団の憂慮に端を発し、家臣達が広忠を説得することで始まりました。そして、信孝は調停者として外部勢力である今川義元を選んでいます。今川家は強力な武力を有していますから、今川義元は確かに頼みにするに値する人物であるとは思います。でも、信孝がその行動を取る前にもう一つ、取るべきプロセスがあったはずなのです。それは――信孝の祖父である大樹寺の道閲に調停を依頼することです。
 道閲は安祥松平家第二代松平長親のことです。本稿を初め、数ある歴史書では彼のことを長親と呼び習わしておりますが、実は同時代史料に長親と名乗った史料はなく、長忠か道閲と名乗っていました。
 松平信忠が押籠を食らった時、家督を清康が継ぐか、信定が継ぐかの選択がなされましたが、その選択のキーパーソンとなったのが道閲です。
 清康の死の直後、岡崎に迫った尾張勢は真っ先に大樹寺を占拠しております。そこに隠棲していたのが道閲です。そして、仙千代が岡崎に帰還したときに、桜井家と仙千代(広忠)との和解をとりなしたのが道閲でした。信孝が放逐されるに至る際、信孝は宗家に対して詫びさえ入れていますが、それは受け入れられませんでした。ここで道閲に仲介を頼まなかったのは不自然に思えます。実は信孝追放の翌年、1544年(天文十三年)道閲は入寂しているのですね。信孝追放の時点で道閲は齢九十を越しております。なのでもしかしたら、もはや起居できないほど衰えていたのかもしれません。もしくは、安祥松平の家臣団は、合歓木松平家信孝を実力で放逐できるだけの力をもってしまいました。信孝は松平一門のもともとの宗家である岩津家所領すら手中におさめています。広忠の家臣団はその信孝を圧倒できるほどの力を持ってしまったわけです。道閲が号令して一門の力で家臣団を抑えようとしても、もはや家臣達に対抗できるだけの動員が出来なくなってしまった。ということではないでしょうか。
 以下、私流の解釈による彼の生涯をおさらいします。

 道閲は安祥松平家初代の親忠の嫡男として生まれました。親忠は安祥の城を持っておりましたが、年老いた父信光に代わって松平一門の家政を取り仕切っておりました。兄や甥が主家である伊勢氏のいる京都に常駐していたからです。ただし、弟の身で本家の家政の前面にでるのは色々さしさわりがあったのでしょう。出家して西忠と号しました。安祥の城よりも岩津に近い鴨田の地に立てた寺、大樹寺に住み、そこから父信光のいる本家に通ったようです。西忠が岩津と大樹寺を往復している間、安祥の城は長親が見ていたと思われます。岩津本家の当主、安祥家の当主、その跡継ぎと玉突きのように収まるべきところがズレているのがこの時代の特徴であったと思われます。これは決して珍しいことではなく、各国の守護は京都に常駐しておりました。その間在地の守護代が守護に変わって国の政務をみることになっていたのですね。
 安祥には石川氏によって組織された門徒武士が入っております。もともとが信光が奪った城ですので、そこには譜代と呼べる家臣はおりません。門徒には本願寺法主というもう一人の主人がおりましたから、主従関係は三河物語が形容した『お家の犬』といった絶対的なものではなく、もっと緩やかな協力関係ではなかったかと推察します。
 信光と親忠が亡くなった時、岩津宗家の当主はどうも三河に帰ってきていなかったようです。そこで安祥家の跡継ぎが引き続き一門の家政を見ることになったと思われます。その結果、西忠(親忠)の変わりに法体となって大樹寺に入りました。長親が家督を継いですぐに隠居したことに首をかしげる向きもあるのですが、分家の身で宗家の代行として一門の家政を見るに当たって父親の例に倣ったと考えればうなずけるところです。長親自らは大樹寺あって、法体で宗家の家政を担当しつつ、安祥家家督は子孫に残してゆきました。基本的に惣領は終身ですので、信忠・清康・広忠の三代は安祥家家督であって、完全な意味の惣領とは言えないという見方もできるでしょう。彼は一門と安祥家家臣団の間に立って、両者の利害を調整しました。それまで長親が入っていた安祥の城には信忠が入りました。信忠が安祥城主としての最初の仕事をしたのは1503年(文亀三年)、信忠十三歳の頃でした。家督を継ぐには幼な過ぎる年齢です。また、今川氏親が伊勢宗瑞に三河侵攻をさせた時、当時十八歳の信忠に変わって安祥から長親自らが兵を率いて迎撃しました。このことから私は家督譲渡が即ち惣領権の譲渡を意味していないことを表していると思います。但し、永正年間の今川氏侵攻という危急の事態に対して、安祥城の城主としての信忠の姿が見えないということは、城主としてのリーダーシップが充分ではなかったとも言えるでしょう。言い換えるなら、家臣達のフォローがあって始めて信忠は城主でいられたということです。安祥の城は家臣が城主を盛り立てて始めて機能したといえるでしょう。
 この後、信忠は一門衆と家臣団を統御することに腐心しますが、結果としては両者から離反されます。この責任の一端は道閲のミス(大樹寺を安祥系松平諸家の菩提寺に定めたことにより、非安祥系松平諸家の反発を受けた)にもあると思われますが、信忠も強情であったことが嫌われました。信忠はもはや幼君ではなく、自らの判断でことを動かそうとした結果、押籠められる事となります。この信忠の事例が後代にまで影響を及ぼすことになったのではないかと思われます。

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