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2008年12月 2日 (火)

川戦:下克上編⑨一門衆vs家臣団

 前稿で1542年(天文十一年)に有ったといわれる小豆坂合戦が1548年(天文十七年)の一回だけだったこと。前々稿で1540年(天文九年)にあったとされる安祥城の織田信秀の攻略が1547年(天文十六年)にあったと思われることを記しました。牛一本『信長公記』も、三河物語も小豆坂合戦における織田軍進軍の起点を安祥城においているのですから、小豆坂合戦が起こる前提として、安祥城が織田方の手に落ちていないと成立しないわけです。三河物語は結婚やライバルだった大叔父の死の記事などの広忠にとってのグッドニュースのあとにいきなり安祥城の陥落をもってきて、その後は広忠の死にまで至る苦難の歴史が綴られています。
 さりながら、安祥城の陥落が1540年(天文九年)ではなく、1547年(天文十六年)であったとするならば、松平広忠が岡崎城に帰還した1537年(天文六年)から安祥城陥落の1547年(天文十六年)までの十年間は黄金時代だったといえるのではないでしょうか。誰にとっての黄金時代かといえば、松平家臣団にとってのです。実質的に一門衆を妥当した松平家臣団は西三河に地歩を固めます。主家である松平氏とともに攻め取った東三河の地は結果的に今川家の影響下に入ることになりましたが、逆に家臣団が松平一門と張り合うことが可能なサイズに松平家が縮小したとも言うことができます。この期間、阿部定吉、石川清兼、酒井正親らが幼君を守り立てる形で結束し、西三河の地をおさめておりました。
 広忠は父清康の代に比べて領地が小さくなったことを家臣近藤に詫びます。それと引き換えに家族主義的な主従関係が復活したエピソードを述べて家臣たちが幼君を守り立てようとしたことを強調します。
 しかし、その十年の間に桜井松平信定、青野松平義春、合歓木松平信孝、長老格である大樹寺の道閲(安祥松平長親)、信光明寺超誉存牛ら、松平一門の有力者達が退場を余儀なくされております。
 三河物語は建前としては、筆者である大久保忠教が子孫達に対して主家への忠節の大切さをくどいほどの述べたものですが、松平一門の当主である広忠を自家薬籠中に収めた家臣団が一門衆を圧倒したこの十年は大久保忠教にとってもあまり深く触れられたくない十年だったのではないか。そんな風に思っています。

 松平仙千代は岡崎復帰後、元服をして松平広忠と名を改めました。一門衆として広忠を支持したのは、岡崎明け渡しに内応した合歓木松平信孝、そして青野松平義春でした。青野松平義春は松平信忠、桜井松平信定の弟にあたります。桜井家が織田家と関係が深いように、青野家は所領が東条吉良家の勢力下にある関係で東条吉良家とは関わりが深かったようです。伝承では、東条吉良義藤の子持常(持広の父)の後見となり自ら東条松平を名乗ったという話もあるそうですが、これはどうやら家康の代になって子孫が東条吉良家の主城である東条城に入った関係でつくられた付会のようです。(義春という
このころは足利一門でなもければ名乗れなかった義のつく立派な諱もそうかもしれません。三河物語では甚太郎と呼ばれています)
 松平仙千代の流亡は東条・西条両吉良家の抗争の引き金となり、仙千代を保護した東条吉良義持は嫡子を織田信秀の人質としてとられ、西条吉良義安を養子に迎えざるを得なくなるほど追い込まれ、西条吉良家当主だった義郷も抗争の中討ち取られてしまいます。また、東三河国人や松平家も親今川に奔ってい、結果として両吉良家は大きく弱体化しました。その混乱の中で東条吉良家と縁のあった青野松平義春にとって、西条吉良家とつながりの深い織田家と姻戚関係をもつ桜井松平信定は疎ましいものに映っていたのだと思われます。

 桜井松平信定は大樹寺に隠棲している一門の長老、松平道閲(俗名長親)のとりなしで広忠への帰順が赦されます。そして今度は帰順した桜井松平信定の処遇を巡って信定と義春との間で対立を生じます。信定の立場からしますと、兄弟の序列は弟である義春よりも上なのだから、上座に座ることが当然です。先代であった清康の後見をした自負もあります。義春に言わせると、信定は主君を裏切って放逐し、主君の復帰に当たっては逆に追放されてもしかるべきところを赦された物です。言うならば帰り新参であり、流亡中も仙千代=広忠を支えていた自分が兄信定より上座に座るは当然だと主張したわけです。この一門間の対立は一触即発なもので、いつ戦いになってもおかしくないものだったと三河物語は言います。但し、もし一戦あれば、その勝敗は明らかに義春の方に利があると予測されております。信定は既に家臣団の支持を失っております。いわば死に体の状況でした。主家の一門と言えど、家臣の支持がなければ影響力を行使できない、そんな状況となっていたわけです。桜井松平信定と青野松平義春との対立は相前後して両者が死ぬことによって自然消滅します。時に松平広忠十四歳。幼君を中心に家臣団が結束して主人を守る理想形が現出したわけです。

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