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2008年12月25日 (木)

川戦:風雲編⑤織田信秀の肖像Ⅱ

 織田信秀が受け継いだ勝幡の西には木曽川・揖斐川・長良川の三川の河口に面した津島湊がありましたが、その河口の中州(輪中という)に伊勢国長島願証寺があります。ここには幕府からの攻撃を受けて避難してきた蓮淳がいました。尾張上四郡守護代の力は織田弾正忠家が領する津田湊が稼ぐ財力によっています。その津田湊の発展は対岸の伊勢長島、即ち願証寺の発展と機を一にしているのです。そこを領する織田信秀は情報分析も尾張国の誰よりも早かったと見てよいでしょう。本願寺の敗北を察知して、主家に幕命に従うことを主張したのだと思われます。それが入れられなかったため、織田信秀は織田大和守達勝に戦を挑みました。この時、一年ばかり戦って和議が成ります。少なくとも、この時に織田達勝も本願寺に積極的な協力はしないというところで話がついたものと思われます。これと同時期に機内においても、三好千熊丸(三好元長の遺児)の仲介で幕府と本願寺が一時的に和解をしていますので、それに応じたものように見えます。しかし、この講和は末端の暴走によってすぐに破られる事になります。

 この頃隣国三河の松平清康は広瀬・伊保の三宅氏・足助の鈴木氏の襲撃を受けています。幕府より本願寺の与同勢力への攻撃命令を帯びたものと推察されます。その清康を尾張勢が援けたという話はありません。松平清康は加賀の小一揆討伐に対する実円の派兵に協力していたと思われます。いわば織田達勝と同じ、本願寺教団の協力者という立場にたっていました。それがあろうことか、1533年(天文二年)に品野の勢力と戦うことになるのですね。品野は桜井松平信定の終わりにおける所領の一つとされています。これが信秀の指示によるものだとすれば、桜井松平信定に本願寺勢力討伐の実績を作らせて、三河松平家との連合存続を策したものとも考えられます。まあ、他にも色々ケースが考えられるので、ここで確定的なことはいえません。

 幕府と本願寺との争いにおいて、本願寺敗北がほぼ確定となった時、信秀としては三河から尾張領を蚕食している松平清康に変えて、信定を松平家当主にしたいと考えていたと思われます。松平勢は尾張上四郡を攻撃勢力の一角として活躍していました。その対価として守山や品野を桜井松平信定に与えていましたが、松平家家督の清康はその領地を本願寺勢の進軍通路として使っているわけです。本願寺の敗北が確定した後、本願寺兵が尾張国を通過することを許す理由はなく、いわんや松平清康は隣国を統一して戦国大名化しようとしていました。
 結果として清康は自滅しました。ところが今度は松平家の家臣達が十を過ぎて間もない仙千代を担いで岡崎城に籠ります。信定と同じく信秀の目から見てもこれが『誤解から生まれた不幸な事故』には見えなかったことでしょう。事情聴取のために信定を大樹寺にやるとともに信定の身の安全のために、兵をつけてやったものだと思われます。侵略に見えなくもないですが織田家は三河勢に尾張領を通過させる便宜をはかっております。その逆をやっても文句を言われる筋合いはないでしょう。それに、うかうかしていると広瀬の三宅氏、足助の鈴木氏と矢作川上流域の反松平勢力が南下してくる恐れがありました。空白期間を置かずに岡崎を押さえる必要があったものと思われます。

 桜井軍とその後詰の織田軍は井田野で抵抗にあいましたが、岡崎城を確保しました。ただ、そのどさくさに紛れて阿部定吉が仙千代をつれて岡崎城を脱出します。信定による追放説も考えられるのですが、阿部定吉のような行動を取る者を野に放ちつつ、仙千代を桜井信定の目の届かない所に追放するというのはありえないと思います。その年の暮れに阿部定吉の父道音が死にますが、これは井田野合戦のせいか、息子や孫の不始末の責任を取らせたと見るべきでしょう。しかし、それは後の祭りでした。
 流亡の仙千代は東条吉良家・今川家と結び、遠江から東三河を遊説し、その一帯を親今川に染め替えてしまったのです。織田家はここに介入できません。なぜなら、それが今川家の介入の口実になりかねないからです。実際は今川義元が武田信虎と結んだせいで北条家との関係が険悪になって行く過程にあり、出兵の余力はなかったものと思われますが、仙千代が今川義元と結んだことは信秀にとっての充分な牽制となっていました。頼りとなるのは西条吉良義郷です。かれは東条吉良持広を圧倒し、おそらくは身柄の拘束までしたと思われます。その嫡男吉次は織田家に人質となっています。しかし、荒川義広らの反撃にあって、義郷は戦死。吉良家は徒に消耗したにすぎませんでした。
 桜井信定も牟呂まで来た仙千代を大窪忠俊らに攻めさせますが、本気で戦っていませんでした。東条吉良の敗北に前後した頃と思われますが、牟呂を退去し東三河で再度力を蓄えます。

 その背後で織田大和守達勝は摂津石山に遷った本願寺と連携を深めてゆきます。本願寺は敗北後、伊勢長島願証寺に籠っていた蓮淳が中心となって、細川晴元に改めて誓約を交わし幕命に従うことを約します。その盟約に従って、今度は比叡山延暦寺と組んで都に跋扈する日蓮宗宗徒を攻撃しました。一向宗門徒を倒して勝ちに乗じて調子に乗りすぎたという面もあります。また、熱心な日蓮宗信者である三好氏(この時の当主は三好千熊丸)への牽制という意味合いもあったのかもしれません。ともあれ、京都の主要なる日蓮宗寺院二十一寺は悉く襲撃され、京の町は応仁乱以上に壊滅的な破壊を受けたといいます。石山本願寺は細川晴元に従うことで生き残りを許されたのでした。細川晴元は煮込んだ走狗をもう一回ウサギ狩りに使ったりするお茶目な人物だったようです。

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