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2008年12月18日 (木)

川戦:風雲編③華麗なる水の一族Ⅱ

 岡崎に帰城し、元服した松平仙千代改め松平広忠と、その家臣団の台頭。同時に起こった東条・西条両吉良家の潰し合いによって『尾三同盟』は霧散しました。
 清康が征服した東三河の国人達は永正の昔に還って今川家に服するようになります。そのきっかけを作ったのは他ならぬ広忠でした。
 尾張国は弱体化した守護斯波氏から織田達勝らの守護代が実権を掌握した時代を経て、風雲児織田信秀が暴れ回る時代となっております。その織田信秀に親しかった桜井松平家の力は当主信定の死によって大きく削がれます。
 東三河と尾張が岡崎松平家の勢力圏から抜けることにより、その力は大きく減じることになります。しかし、考えようによっては清康が松平家を継いだころとあまり違いはないのですね。
 むしろ、織田家や尾張国と距離を離して付き合えるようになった分、松平家臣団にとってはフリーハンドののりしろが多く取られるようになりました。
 目を東に転じれば、今川義元は武田信虎と同盟を結んだことが禍してかつて家臣だった北条家と敵対するようになります。玄広恵探(げんこうえたん)に先んじて家督を継ぐための結んだ同盟ではありましたが、その対価はきっちり取り立てられていたということです。今川家と北条家は武田家を巻き込んで1545年(天文十四年)まで富士川以東の地域を巡って戦いました。これを河東の乱と言います。
 その間、西三河の国人・土豪達は幼君を担いだ体制強化を図っております。その一翼を担った家がありました。水野家です。水野家は緒川・刈谷を本拠地としており、三河国と尾張国の丁度中間に位置しています。
 以下に、水野家の略系図を示します。

岡崎松平信貞娘     +――信元(緒川→刈谷)
  ∥         |   ∥
  ∥         |  桜井松平信定娘
  ∥         |
 水野忠政―――――――+―― 女
  ∥         |   ∥
  ∥         |  松平家広(形原)
  ∥         |
 お富(華陽院)    +――信近
            |
            +――忠守(緒川)
            |
            +――於大
            |   ∥
            |   +――徳川家康
            |   ∥
            |  松平広忠(岡崎)
            |
            +――妙西尼
            |   ∥
            |   +――石川家成
            |   ∥
            |  石川清兼(小川)
            |
            +―― 女
            |   ∥
            |  水野豊信
            |
            +――近信
            |
            +―― 女
            |   ∥
            |  中山勝時(岩滑)
            |  
            +―― 女
            |   ∥
            |  水野大膳亮忠守
            |
            +――忠分(布土)―― 女
            |           ∥
            |          松平家忠(深溝)
            |
            +――忠重(鷲塚→刈谷)

 彼には二人の妻がいました。一人は岡崎松平信貞の娘。もう一人は大河内元綱の養女お富。松平信貞は岡崎城を領し、永正三河乱後に台頭する安祥家に異を唱え、安祥家以外の一門衆の一人として時の安祥松平信忠を隠居に追い込みました。その直後、安祥家を継いだ清康の反撃を食らって大草へ退去します。清康が一門衆に対する反撃の相手に選んだのがこの人物です。大草に退去するまでは松平一門衆に対する発言力も高かったと思われます。その人物の娘を水野忠政は娶ったわけです。
 もう一人の妻、お富はもともとは尾張国の出身で美人の評判があった娘です。水野家も三河と尾張をつなぐ要衝の地を根拠地としておりましたから、斯波氏としても吉良氏としても押さえたい地であったのではないでしょうか。それゆえ、吉良家家臣の『大河内元綱の娘』という箔をつけて水野家に送り込んだのではないかと想像します。お富は一時松平清康の妻にもなったという説もあるそうなのですが、そうしてしまうと忠政の末の子供達の母親が別人だったことになりますので、それはありえないと考えていいでしょう。
 永正年間の後半、大河内氏は遠江国で今川氏に敗北し、大永に入って岡崎松平信貞は安祥松平清康に敗れました。その都度フォローが必要となった水野忠政ですが、次にターゲットとしたのが、桜井松平信定でした。信定の娘を息子の信元の嫁にとっております。あわせて形原松平家広に娘を嫁がせていますね。その信定は松平家の実権を一時握りましたが、家臣達のクーデターによって、広忠に仕えざるを得なくなりました。そこで広忠に娘を嫁がせます。家康の母となる於大の方です。
 水野忠政は松平家の実権を誰が握っているのかを注視し続け、その動きに合わせて姻戚関係をむすんでいるのですね。最初は岡崎松平、次に桜井松平と形原松平、そして新たなる岡崎松平氏の広忠と続きます。

 水野忠政はかように松平氏との縁戚関係を取り結びましたが、その動きにイレギュラーなものが入ってきます。於大の妹である妙西尼(出家後の号であり俗名は別にあると思います)が石川清兼に嫁いでいるのですね。これは次々に変転する松平家の実力者に外れ籤を引かされ続けた水野家が保険として松平家の有力家臣にも触手を伸ばしたようにも見えます。
 妙西尼に関しては二つ興味深い事実があります。まず、石川清兼との間に石川家成をもうけますが、彼の生年没年を考えると於大の妹というよりは、どうやら姉らしいというのです。
 もう一つの興味深い事実は彼女の宗旨です。三河の本願寺教団は後に徳川家康の弾圧にあうのですが、その弾圧下において、石川清兼の妻として門徒達の指導的な立場に立つことになります。石川家成の母の立場で関東入り直前の徳川家康と交渉し、本願寺系寺社の復興を認めさせているのですね。
 実家である水野家の宗旨は曹洞宗です。水野家は三河一向一揆において家康に援軍を送り、本願寺教団に対して弾圧を加える側に立ちます。石川一族も数正や家成などは浄土宗に改宗しており表面上は本願寺教団は息の根を止められた形になっていたのですが、影では脈々と本願寺教団への信仰は続いていたようです。石川数正は織田信長の死後、羽柴秀吉の下に出奔し、結局本願寺教団に宗旨を戻しているので、どうやら改宗は便宜的なものだったと考えられます。さりながら、石川清兼が三河門徒の柱石であったとしても、家に入った他宗の女が婚家の宗旨に改めるというのは普通にありそうですが、門徒達を指導する立場に立つということにやや不自然さを感じるのですね。おそらくは清兼は既になく、家成は掛川に、数正は秀吉の下に出奔して、岡崎にいる石川一門の中で残された最上位者は彼女だったと言えるかもしれません。でも、そうなるとなぜ彼女は掛川ではなく、岡崎にいたのか。主家の城ということになると、この時家康は駿府にいましたので、そこにいなければならないことになります。岡崎には姉である於大がいるので、その関係だとも考えられるのですが、そうであれば今度は於大が岡崎にいる理由について首を傾げなければならなくなってしまいます。このあたりは個人的に実に実に興味をもっていることではありますが、本稿ではこの程度にしておきます。

 ともあれ、水野家は西三河の諸族の動向に非常に敏感であり、その動きに応じて婚姻政策という手を次々に打っています。松平家や石川家にしても水野家と結ぶことに何かのメリットがあるとみているのでしょう。しかし、水野家と松平家の関係は織田家と今川家の対立が深まる中で、ともに戦わざるを得ない所まで追い込まれてゆきます。それは次稿以降で述べてゆきたいと思います。

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