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2008年12月23日 (火)

川戦:風雲編④織田信秀の肖像Ⅰ

 織田信秀についてはこれまでも何度か触れており、いくつかの事件の主なる登場人物となってはいます。とはいえ、本稿をはじめるにあたって改めて私流の解釈にて紹介いたします。

 いわずとも知れたことですが、織田信秀は織田信長の父親です。織田家はそもそも越前国にそのルーツがあり、越前・尾張・遠江守護を兼ねた斯波氏の家臣として尾張国に入りました。室町時代の斯波家は管領を出す家柄で、当主は基本的に在京でした。織田氏は守護の代わりに在国し、その留守を守ります。この守護の代わりの役職を守護代とよびます。守護代織田家は戦国時代に入って内訌を起こし、尾張国八郡のは上下に分かれて二人の守護代が尾張国を治めました。北側の上四郡を織田伊勢守家が、下四郡を織田大和守家が担当することになります。斯波家は戦国時代に入って家運が傾き、越前国を朝倉氏に、遠江国を今川氏に奪われました。永正年間に在京をやめて尾張に腰をすえた斯波義達は遠江奪還を志します。この頃に織田信秀が生まれました。尾張下四郡守護代には三名の奉行衆がついております。因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家の三家です。信秀はこのうちの弾正忠家の出です。弾正忠家は信秀の父の信定の代に津島・勝幡を領しておりました。

 斯波義達は西条吉良家と結び、遠江に自ら出陣します。しかし、遠江国を支配する今川氏親のまえに、あえなく失敗。捕虜となり、尾張国に送り返されます。勝者となった今川氏親は、支族がいた那古屋に自らの末子を養子に送り込みます。養子といってもただ一人で送り込まれたわけではなく、近侍する家臣達に役目が与えられていたと思われます。尾張国守護斯波義達の監視です。斯波家はこれ以後身動きがとれなくなり、家運を衰えさせます。それに替わって頭角を現したのが尾張国下四郡守護代織田大和守達勝でした。彼は尾張守護斯波義達を戴いて清洲に根拠地をもち、上四郡守護代伊勢守を圧倒し始めます。達勝の手足となって戦働きをしたのが、三奉行でした。1526年(大永六年)までに織田弾正忠信定は、上四郡守護代伊勢守から奪い取った春日井郡の守山に館を建て、そこに桜井松平信定を入れました。桜井松平信定の妻は織田弾正忠信定の娘です。これは主人である織田大和守達勝も同意のことで、三河の松平家を吉良家と同様に取り込もうとした動きとして解釈できます。

 1527年(大永七年)管領細川高国が桂川原の合戦に敗れて将軍足利義晴とともに京都を脱出して近江国朽木に逃れます。それが織田大和守達勝にとっての一つの転機となりました。ここまでの斯波家・織田家ははっきり言えば、今川氏に圧倒されていた負け組です。しかし新たに泉州堺に幕府を開いた足利義維に与する事で失地回復の目が見えてきたのです。足利義維の母は一説によると斯波家の出ということだそうですから、参陣すれば受け入れてもらえそうです。しかし、織田達勝には堺に向かう手段がありませんでした。京には幕府は存在せず、湖西の朽木には足利義晴が、南近江には六角氏がおり、京に入ることすらおぼつきません。そこに援助の手を差し伸べたのは山科本願寺です。

 山科本願寺は細川政元とのつながりは深かったのですが、細川高国政権下では逼塞を余儀なくされておりました。それが高国の都落ちを機に堺にいる細川晴元と誼を通じたのです。1530年(享禄三年)細川高国は備前を勢力下におく浦上宗村と同盟して上洛軍を催し、東征を始めます。その進軍ルートには播磨国英賀がありました。美濃・尾張・三河三カ国の国の本願寺教団門徒を束ねる三河国土呂本宗寺の実円は播磨国英賀にも本徳寺という水砦寺院をもっていました。そこにあろうことか、細川高国が入ったのです。実円は播磨奪還を望んでいたと思われます。細川晴元も高国の東征に対策を撃たねばなりませんでした。そこで京を守っていた義維派の柳本賢治に迎撃を命じます。柳本賢治の京都出立の直前に織田大和守達勝が上洛するのです。本願寺は大津・堅田に拠点をもっており、堅田衆は湖上水運を一手に引き受けておりました。湖西や湖南の陸路は押さえられていても、江北からであれば、船で軍勢を通すことも可能です。はっきりした証拠はありませんが、織田達勝は三千の兵を率いて柳本賢治の軍に合流したと思われます。しかしこの柳本賢治は細川・浦上連合軍との対陣中に暗殺されて、撤兵を余儀なくされます。

 細川・村上連合軍は播磨を越えて摂津に入り、京都が危機に陥るのですが、ここで今度は本願寺教団が分裂して加賀門徒が親高国派に転じます。1531年(享禄四年)実円は三河兵を動員してこれの鎮圧を図ります。その折、三河門徒兵が尾張領を通過できたのはこの時の貸しによるものだと思われます。その間に細川高国と浦上宗村は三好元長に完敗して戦死しました。加賀門徒の反乱も無事鎮圧されます。しかしその翌年の1531年(天文元年)、今度は織田達勝をかつて援けた本願寺門徒が足利義維を堺から追い出し、奈良に乱入するという暴挙に走ってしまいます。これは末端の暴走で、法主証如やそれを補佐する連淳や実円にも統御が利かなかったというせいもあるのですが、このせいで本願寺は細川晴元を敵に回してしまいます。細川晴元は義維にかわって朽木の足利義晴と和睦し、本願寺討伐を命令します。丁度この頃、父信定から家督を継いだのが信秀でした。

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