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2009年1月29日 (木)

川戦:崩壊編②真・安祥城陥落Ⅰ

 1548年(天文十七年)織田信秀のもとに相模小田原の北条氏康から書状が届きます。本稿のキモであるので全文引用します。引用元は東京堂出版刊『戦国遺文 後北条氏編第一巻』百八頁所載の『○三二九北条氏康書状写 ○古証文六』です。

>如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、
>去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、
>殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、
>因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、
>近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、
>何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、

>十七年
>三月十一日
>氏康 在判
>織田弾正忠殿
>御返報

 見事に漢字ばかりですねぇ。そこ、逃げないでw! 古文・漢文は赤点ではありましたが、読み解きを試みたいと思います。赤点なので間違っていたらごめんなさいです。

>如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、
(読み下し)来札の如く近年は遠路ゆえ、通じ申し候わざるところ、懇切に示し給いし候は祝着に候。
『如来札』の札は手紙の意。『頂いた手紙にあるとおり』という意味になります。
『祝着』はめでたいですね。
 返信の手紙であること。信秀・氏康間でそれまで手紙のやりとりは無かったことがうかがえます。

>仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、
(読み下し)よりて三州の儀、駿州に相談なく、去年彼国に向けこの軍を起こし、安城の要害を即時に破られしの由に候、
 『三州』は三河国。『駿州』駿河国を指します。『彼国』はかの国=三河ですね。
 『去年』を『きょねん』とか『こぞ』と読めば1547年(天文十六年)の事件と言うことになるのですが、『さるとし』と読めば過去一般となります。ただ文脈からそう読めるかどうかがキモでしょう。

>毎度御戦功、奇特候、
(読み下し)毎度の御戦功、奇特に候。
 氏康、褒めてます。『奇特』は平たく言うと『凄い!』という意味ですね。

>殊岡崎之城自其国就相押候、
(読み下し)殊に岡崎の城を其国より押しあいとなり候。
 ここは重要な部分なのですが、解釈が難しいところです。安祥城と岡崎城は矢作川を挟んだ両岸にあります。駿州に相談なく安祥を攻め落とした結果、岡崎城が今川・織田両勢力の角逐の場となっていることが示されています。『其国』の解釈ですが、この書簡では『彼国』と『其国』という二種類の国を指した三人称指示語が使われています。信秀と氏康のこの書簡において三人称が使われるべき国は駿河国と三河国の二つしかなく、『彼国』は安祥城のある三河国であることは明らかなので、『其国』は駿河国であり、使い分けをされていると思われます。
 『相押』をどう読むかがさらに悩み所です。とりあえず『押しあい』とよんで、岡崎城を巡って駿河国との角逐の場となった解釈しておりますが、岡崎城が駿河にとって織田勢に対する最前線の『押さえ』となったことを言っているのかもしれません。

>駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、
(読み下し)。駿州にも今橋にて本意を致され候、それ以後、よろず其国に相違の刷候や?
 駿州の今橋は織田信秀の安祥と対になっておりますね。『刷』は刷新の『刷』でしょう。情勢認識を新たにすべき事件は起こっていないかと聞いているわけですね。

>因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、
(読み下し)ここによりて彼国は詰めあわされるの由、承たまわり候。余儀なき題目に候。
 今橋を今川が、安祥を織田が取った結果、三河国は両勢力に分割されたことを北条氏康はやむを得ず認めております。

>就中、駿州此方間之儀、預御尋候、
(読み下し)なかんずく、駿州この方間の儀、お尋ね預かり候。
 信秀は、今川家と北条家の関係を確認したいようです。1546年(天文十四年)まで両勢力は駿河国河東領域を巡って戦いを繰り広げておりました。休戦中ではありましたが、敵の敵である北条家は味方になるのか否か、それによって戦略も変わってくるのですね。

>近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、
(読み下し)近年、一和を遂げ候えども、彼国より疑心止むこと無きに候らはば、迷惑に候。
 ここでの『彼国』は駿河に変わっていますのでご注意を。というのはこの一つ前に同日付の本文書の草稿とおぼしきものがあり、三河国の件をはずして、問い合わせの回答が全く同じ表現で書かれているからです。

>抑自清須御使并預貴札候、忝候、
(読み下し)そも清須よりの御使い並びに貴札預かり候は、かたじけなきことに候。
 礼使派遣のお礼文。定型文です。

>何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、
(読み下し)何様御禮をこれより申し入れるべく候。委細は使者演説あるべき候。恐々謹言。
 ここも定型文。詳細を使者が語るのはこの時代の常識のようです。

 大意を超訳にて記します。

 いただいたお手紙に書かれていた通り、私のいる相模とあなたのいる尾張国は遠路なので、近年は行き来もありませんでした。にもかかわらず、このたびご丁寧にも使者を送っていただいたことは、喜ばしいことです。あなたの手紙に書かれている三河国の件についてですが、駿河の今川義元に相談もなく、昨年三河国に対し軍を起こし、安城の要害を即時にやぶられたそうですね。あなたの戦功についてはいつも聞き及んでおりますが、このたびの軍功も凄いものだと思います。
 とりわけ岡崎城は駿河勢との角逐の場となってしまいました。その駿河勢も今橋(現在の吉田)を占領して本意を遂げています。それ以後の駿河国の情勢に変りはないでしょうか。ここに三河国は尾張と駿河の二勢力の詰め合いの場と成ったと、承りました。仕方の無いことだと思います。
 駿河の情報の中でも我々北条との関係についてのお問い合わせの件にお答えします。近年駿河国とは確かに講和を結びましたが、駿河国に対する疑心は止むことがなく、迷惑な思いをしております。
 ともあれ清洲からの使いとお手紙いただいたことはありがたいことです。お礼をこれより申し入れたいと思います。委細は使者に述べさせます。恐々謹言。

 この返書に先立つ織田信秀書状の中身が気になるところですが、第一が安祥城を破ったことの報告。第二が今川家と北条家の関係についての問いただしです。
 氏康の返答は第一については素直に褒めているので入るのですが、攻め入るに当たって今川氏と相談のなかったこと。三河国が織田と今川の両勢力の角逐の場となったことを言い立て、三河国に織田勢は入ることは承認しているものの、『余儀なき』ことと婉曲に非難しているように読めなくもありません。
 第二点については駿河国の好戦性に迷惑な思いをしていると言っています。氏康にとっては三河の角逐は歓迎できるものではなかったようです。信秀としては北条氏康を味方に抱きこんで今川家の背後をつくことを期待しているようですが、北条としては織田家を敵に回すわけではないものの、戦いに参加することについては消極的なようです。

 『去年』がいつを指すかについての考察ですが、いくつかのポイントがあります。1540年(天文九年)説にたった場合、いくつか文脈が不自然になる部分があるのですね。
 第一に『毎度御戦功、奇特候』。北条氏康は織田信秀の優れた軍才についての評判はすでに耳に入っております。故に、安祥陥落の武功を『毎度』とそれまでの戦功に追加して褒め称えた表現となったものと思われます。初めての手紙に自己紹介がてら七年も昔の武功を記したのなら、返書には安祥攻めの武功は当国にも鳴り響いている。くらいの表現になるかと思われます。
 第二に『因茲(これによって)』三河国が二勢力の角逐の場となったという表現です。これとは、信秀の安祥奪取と今川義元の今橋奪取の二つが考えられます。義元の今橋(吉田)奪取は1546年(天文十五年)です。1540年(天文九年)から信秀が安祥を持っていたのなら、この文面に今川家の今橋奪取についての詳細が書かれていても良さそうにも思えます。よって、『去年』は『きょねん・こぞ』と読むべきであり、『さるとし』と読む場合においても1546年(天文十五年)からそうずれていない時期であろうと思われます。今々の印象においては、1547年(天文十六年)説で組み立てたくはあるのですが、別説にも若干含みを残しておきます。理由は次稿で述べます。

 本当は1540年(天文九年)なのにさも最近のことのように読ませようとした信秀の駆け引きであるという説もあるそうですが、文面を検討してどのようなシチュエーションでそのような説ができるのか、少し疑問である。ということで本考察の結論としたいと思います。

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2009年1月27日 (火)

川戦:崩壊編①プロローグ

 長々と続けてまいりました、『川の戦国史』の記事ですが、本編にて一端区切りをつけるつもりです。本編で取り扱う年代は1547年(天文十六年)から1549年(天文十八年)の三年間です。この期間に松平家と三河国は完全に今川家に併呑されます。文字通りの『崩壊』を描く予定です。少しはみ出して永禄年間まで飛ぶこともありますが、一応1549年(天文十八年)の松平広忠の死でしめくくりをしたいと思います。
 とはいえ戦国時代が終わったわけではなく、むしろここからが佳境です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑をはじめ、キラ星のような戦国大名たちが鎬を削る時代がこのすぐ後に待ち構えているのですから。このあたりの話は歴史小説、テレビドラマなどでお馴染みな時代です。そこで何があったのかについては、私よりよく知っている方は掃いて捨てるほどいるでしょう。とはいうものの、ここまで戦国時代の前半部を自分なりの視点で描いてきた手前、そういう人々が語る戦国史とは一味違った三傑の物語が作れるのではないか、という自負らしきものは芽生えておりますし、構想も脳内にあります。ただ、種々の史料と整合するのは大変なことです。この時代を扱って、まともな読み物として通用させるには私はあまりに不勉強です。ここをもって一区切りさせるというのはそういう意図をもっております。

 三河物語は上中下の三巻にて構成されております。三河物語が松平広忠の死をもって上巻の終わりとしていることに従って、私の川の戦国史も1547年(天文十八年)で一度筆を置かせていただこうと思います。とはいってもあと十本くらい書き続けるつもりですのでお付き合いいただければ幸いです。

1547年(天文十六年) 六月   六日 織田信秀、三河国安祥城を奪取。
                        松平忠倫、酒井忠尚らが松平広忠から離反。
              八月   二日 松平竹千代、人質として駿河護送中に尾張国に拉致される。
              九月   五日 今川義元、田原城攻略。田原戸田氏滅亡。
                 二十八日 渡河原の戦闘。松平信孝、広忠を破る。
                        松平広忠、この日までに松平忠倫を暗殺。
1548年(天文十七年) 三月  十九日 小豆坂合戦
              四月  十五日 耳取縄手の戦い。松平信孝、戦死。
1549年(天文十八年) 三月   六日 松平広忠、暗殺される。
              この年      阿部定吉、没
                        東条吉良義安、今川家の捕虜として駿府送り。
                        今川義元の意向により、吉良家は義昭によって統一。
                        三好長慶、細川晴元と足利義晴を京より追い出す。
1550年(天文十九年)  八月 十八日 蓮淳、没。
1554年(天文二十三年)八月 十三日 証如、没。
1557年(弘治 三年)  四月 十七日 顕如、結婚。
                        三条公頼、細川晴元、六角定頼、武田信玄と縁戚になる。
               五月二十九日 正親町天皇の即位式に本願寺、献金する。
1559年(永禄 ニ年)            顕如、門跡に列せられる。
1560年(永禄 三年)            桶狭間合戦。今川義元死去。
1564年(永禄 七年)            三河一向一揆終結。吉良義昭、三河追放。義安、後を継ぐ。

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2009年1月20日 (火)

川戦:風雲編⑫今川西漸

 今川氏が三河国に軍を進める時、最初に標的になる地があります。それが今橋です。永正三河乱においては、そこを領していた牧野古白が時の今川家当主の氏親とその配下の伊勢宗瑞に討たれております。今川氏親はその後間もなく中風で倒れ、伊勢宗瑞も関東争奪戦に専念するようになると、東三河に一時の平和が訪れます。今橋は牧野伝蔵をはじめとする四兄弟で守られるようになりました。
 そこに現れたのが、西条吉良の名代として攻め込んできた松平清康です。1530年(享禄三年)牧野伝蔵ら四兄弟は一所懸命に防衛線を戦いましたが、利あらずことごとく討ち取られます。
 清康は今橋に代官を置きましたが、1531年(享禄四年)に清康が守山崩れで倒れると、代官は岡崎に引き上げ、変わって牧野成敏が今橋に入りました。今川氏や松平氏に攻略された今橋は牧野一族にとって『いまはし』⇒『いまわし』いものでした。その験の悪さを嫌って牧野成敏は今橋を吉田と改名します。それから間もなく、桜井松平信定に岡崎を追い出された松平仙千代が阿部定吉に連れられて吉田に流れてきます。
 牧野成敏がこの流亡の若君をどう扱ったかは判りません。1536年(天文五年)の秋から1537年(天文六年)六月に仙千代が岡崎に復帰するまでの間、三河における岡崎復帰運動の根拠地となておりましたので、おそらくは保護をしていたものと考えられます。この間阿部定吉や松平仙千代は吉田と駿府との間を往復していたとみられます。今川義元と会見し、支持を取り付ける必要があったのですね。
 その甲斐あって、岡崎城でクーデターがあり、仙千代は城主として迎え入れられることとなりました。それと相前後して、牧野成敏は吉田城を失います。大崎の戸田宣光が吉田に攻め込み、牧野成敏を追ったのです。今橋=吉田の地は牧野氏と戸田氏が争奪戦を繰り返した地でした。牧野成敏に油断があったように思われます。
 真喜姫輿入れから察するに、松平家と戸田家との仲は悪くありません。おそらくは仙千代の吉田滞在時、牧野氏と一緒に戸田氏も仙千代支援に動き、東三河国人達に借りを作った形になっています。水野於大を離縁した松平広忠は吉田領有によって高まった戸田氏のプレゼンスを利用することを考えました。はっきり言って東三河まで目が行き届かないというのが実情だったでしょう。
 一方の今川家はそれを当面は黙認しました。今川義元も武田家から妻を娶ったことが、北条家との関係を悪化させ、駿河国河東地域を北条に奪われ、戦争状態になっています。西に目を向ける余力がありませんでした。

 吉田を手に入れ、松平家に娘を輿入れさせた戸田氏の当主は戸田康光といいます。彼は松平広忠の重臣として活躍する阿部定吉の手口を学習しました。松平家臣団は幼主によってまとまるということも。今の広忠は清康に比べると器量不足は否めません。器量の足りない松平家当主がどうなるかは信忠が証明しています。戦国の動乱の中、隙をついて勢力拡大をはかる戦術を取ってきた戸田氏にとっては、実にわかり易くつけ込み易い家風でした。真喜姫を松平広忠の後妻にいれ、来るべき広忠の自滅を待ち、阿部定吉のように立ち回って、主導権を握る。これが戸田康光のシナリオだったのではないかと思われます。
 さりながら今川義元は戸田康光に松平広忠が自滅するまでの時間を許しませんでした。1545年(天文十五年)河東の乱は今川義元が河東地域を取り返す形で和睦を結び、終結しました。この和睦は後の甲相駿三国同盟への流れへと繋がります。東の憂いを取り除き、今川義元は西に目を向けます。父氏親の時代、今川家は遠江を狙っていた斯波氏を駆逐し、勢力を三河国にまで広げておりました。今再びその地を見るに、斯波氏は没落はしていますが織田家が勃興し、監視につけていた今川氏豊は那古屋を追われています。織田家は信秀が優位に立ち、美濃や三河に勢力を伸ばそうとしているところです。今川義元は西に勢力を伸ばすことを決意します。
 その際に通り道になるのは吉田でした。牧野古白は攻め滅ぼしたはずですが、いつのまにか戸田宣成が居座っております。この時までに今川家は分国法を定め、領国に検地を進めるというドラスティックな改革路線です。それを三河国にまで推し進めるためには吉田の地はどうしても自らの掌中に納めておく必要がありました。

 1546年(天文十五年)今川義元は吉田城を攻撃します。これは少し不思議な様相を呈しておりまして、攻撃理由が吉田の戸田宣成が背いたからということですが、具体的な理由が見えてこないのですね。戸田一族も宣成支援に動いていません。そしてあろうことか松平家も今川側としてこの合戦に参陣しているのですね。吉田城はあっけなく陥落。あとに今川の代官を入れて東三河は今川家の支配下にはいってしまいました。この頃、戸田康光は家督を息子の尭光に譲っておりますが、実権は握っていたようです。今川家が吉田に入ったため、戸田康光は身動きがとれなくなりました。一縷の望みは岡崎にいる真喜姫の存在ですが、それも今川支配下ではあまり派手な行動はとれません。
 それに過去の例から今川家の三河進出は長続きしませんし、竹千代も僅か五歳です。広忠の自滅はもう少し先になるはずでした。ここは下手に刺激を与えないことにしたものと思われます。

 しかし、今回の今川家は本気で三河を狙っておりました。太原崇孚は今川義元の片腕として三河攻略のための手を次々に売ってゆきます。その一つ一つが戸田康光を締め上げるものでした。崇孚が見据えていた攻略目標、それは松平氏であり、さらに西にいる織田信秀だったのです。

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2009年1月15日 (木)

川戦:風雲編⑪戸田真喜姫

 斎藤道三の説得も空しく、水野信元は松平広忠と手切れをし、織田信秀と結んだことは、前稿のCの手紙にて明らかであると思われます。その意思の堅きを知った松平広忠は妻の於大を離縁します。二人の間には三歳になる竹千代がおりましたが、それを岡崎に残したままの涙の別離です。
 水野・松平家の手切れと同時に形原松平家広もこれに倣って、水野忠政の娘であり於大の姉の於丈を離縁します。水野忠政の娘たちはこの他に、石川清兼(忠成とも)の妻がいるのですが、清兼はこれを離縁しておりません。一門衆と家臣団には温度差がどうもあるようです。この清兼の妻は三河一向一揆後、さらに後に石川数正の一族が岡崎を出奔した後の西三河本願寺教団門徒の束ねとして、徳川家康との交渉人を勤めております。石川清兼は松平家の家老であると同時に、石川宗家の惣領として西三河本願寺教団門徒を束ねる立場にありました。
 於大、於丈離縁には水野信元の頑なな態度が原因であることは確かですが、それ以上に松平家、形原松平家の今川義元に対する憚りがあったものと思われます。
 石川清兼の場合、摂津石山の本山があてに出来たという事情があるやもしれません。一向一揆は天文一揆で大打撃を受けたものの、壊滅はしませんでしたし、その実力を天下に誇示しております。実円が三河兵を動員できたように、独自に兵を変成する能力ももっており、単に松平家の従属下にあるわけでもありません。そしてこの時期の松平家は家臣の力が主家・一門を凌駕しておりました。石川清兼には主人の意向の外にある独自判断する余地があったものと思われます。水野信元にしてみても、手切れをしたのは松平家とであって、石川家と松平家は別と見ていたのかもしれません。

 於大を離縁した翌年、松平広忠に再婚話が持ち上がります。田原の戸田康光の娘、真喜姫です。戸田氏は渥美半島と知多半島の一部を領する三河の大勢力の一つですが、それぞれの地域に別家が立ち、独立して一族一揆としてのまとまりを失いつつありました。この辺りの状況は松平家と同じと思われます。戸田家と松平家は戸田宗光・松平信光以来の関係を持っており、広忠が流亡中に吉田に滞在していた折、戸田家とも親交をもったものだと考えられます。
 そして、戸田家は松平家のお家騒動の顛末の一部始終を見ておりました。東三河の国人達は斯波・今川・西条吉良・松平・織田と目まぐるしく変わる周辺勢力の変転をいち早くキャッチしてより優位に立つ争いをしておりました。そして今、今川氏が再び西に目を向けようとしています。そうした中、親今川勢力である松平家がどのような状況になっているのかは重要関心事だったろうと思われます。
 その観察の結果、明らかになったことは松平家は幼主を立ててまとまるという事実でした。道閲が大樹寺に入って以降、信忠、清康、広忠と三代の当主が十三歳前後で松平家をついでおります。しかも、世代交代に際しては強引な手段がとられております。信忠は押籠め、清康は暗殺。広忠は先代と比べると明らかに力量が劣っております。これまでの事例を考えるに、広忠の嫡男が長ずれば、広忠が強引に退場させられるという事態は容易に想像できました。そして今、阿部大蔵定吉が家老として広忠に近侍している状況です。もし、広忠がいなければ、天文十四年になっても阿部定吉は浪人のまま諸国を流亡していたことでしょう。松平家を抑えるためには松平家の幼君を掌中に入れておけばいい。それは誰の目にも明らかなことでした。そして、それは家臣達も気づいていたことではありましたが、それが露わになるのはもう少し先のことです。

 1545年(天文十四年)、戸田真喜姫は松平広忠の元に嫁ぎました。岡崎城に入ろうとした真喜姫を広忠が押し止め、本城は竹千代の城であるため、戸田の姫は新城の方に入るべしといってるのですね。城郭構造やら、当時の武家の家族のありようにはよくわからないところがあるのですが、於大はどこにいたのか気になるところです。あるいは、新城は真喜姫のために広忠が新調した廓だったのかもしれません。家臣の考えであるなら、竹千代と真喜姫を隔離しようとする画策かなとも思いますが、あまり意味のない行為だろうと思います。いずれにせよ真喜姫手元には前妻の息子である竹千代がいたことは確かなのですから。同じ年、今川義元は奪われていた駿河国の河東地域を北条氏康から取り戻し、武田晴信の仲介で停戦。九年間続いた河東の乱が終結しております。これによって今川義元は西に目を向けることが可能になりました。
 そして同じ年、織田信秀は平手政秀の仲介によって清洲織田家と和解します。この前後、織田大和守達勝は引退し、守護代の座は織田因幡守家の彦五郎信友が引き継ぎます。信秀の居城古渡を焼いたのは彼ですが、彼との妥協がなったのでしょう。信秀は古渡を棄て、末盛の城に移ります。
 このあと、土岐頼芸、斉藤道三の二人の面子を潰さない形での講和が美濃国と尾張国の間で模索されます。その過程において信秀は東に眼を向ける余裕ができたのです。
 三河国が東西角逐の場になるのは時間の問題でした。

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2009年1月13日 (火)

川戦:風雲編⑩天文十三年Ⅱ

 前稿の②で参照した士林証文天文十三年九月二十五日付長井秀元書状には、関連する二通の書状があります。内容的に一連の文書であり、戦国時代の外交交渉の実相を垣間見えさせる内容となっております。出典は新編岡崎市史所載のものからです。文書の日付はA-B-Cの順ですが、史料はC-A-Bの順に並べられていることもチェック・ポイントです。

A 天文十三年九月二十三日付斉藤左近大夫利政書状写
  差出人:斉藤左近大夫利政(斎藤道三)
  あて先:安心軒、瓦礫軒 
B 天文十三年九月二十五日付長井秀元書状写
  差出人:長井久兵衛秀元(斎藤道三)
  あて先:水野十郎左衛門(水野信元?)
  使者:瓦礫軒
C 天文十三年閏十一月十一日付織田信秀書状
  差出人:織田弾正忠信秀
  あて先:水野十郎左衛門尉(水野信元?)
  使者:林新五郎(林通勝)

 Aの文書は斎藤道三が部下である安心軒、瓦礫軒に対して送った指令書です。内容は一昨日に起こった加納口合戦の勝利の報を『首注文』と一緒に水野信元に届け、これを期に水野は斎藤道三側味方して、現在不和になっている松平広忠との関係を修復することを勧めるべし、という内容です。
 安心軒、瓦礫軒は濃尾国境は織田信秀によって封鎖されていたので、そういう封鎖をかいくぐれる立場をもった人物だったようです。~軒は雅号で僧や連歌師等が名乗っておりました。穿って見れば忍者・乱波の類という解釈も不可能ではありません。さらに穿てば、この書状が出された同じ年宗牧率いる連歌師集団が京から駿河へ興行の旅にでております。その際朝廷から女房奉書を言付かって十一月に織田信秀に勅使として面会しております。その際、宗牧と同行した連歌師達が先触れとして街道筋の国人領主の所に行って連歌興行のセッティングを行っているのですね。信秀と会った宗牧はその後松平広忠にも面会を求めております。なので『勅命』を帯びた連歌師というセンも無きにしも非ずと言う感じです。
 Bは前稿の②の史料です。二十五日付の手紙ですが、二十三日付と同じく加納口合戦を一昨日と表現しています。内容としてはAの史料と同じものですが、差出人と宛て先の名前が異なっています。斎藤道三は何度も名前を変えており、長井秀元は昔の名前のようです。あて先は水野十郎左衛門。本稿では信元と比定しますが、水野家は諸家分立しており、正確には不明です。ともあれ、水野十郎左衛門にたいする使者にAの手紙のあて先人でもある瓦礫軒が立っているのですね。
 Cは織田信秀が林通勝を使者に立てて水野信元送った書状です。この前段に水野信元から在陣中の織田信秀の許へ書状が出ていたようで、その返信です。

『ここに許しの儀、差しつかえの儀、なきの候。御心を安ぜられるべく候。まずもってその表に異儀無き候よし、もっともと存じ候。いよいよご油断なく仰せ付けられるべき儀が肝要に候』

 水野の手紙の内容はこの文面から判断するに、織田信秀に『差しつかえ』、つまり不祥事の報告であり、それに対して『許し』を求めているものであるようです。信秀は差しつかえないので安心するように回答しているのですね。何に対する許しであるかは、史料集に続く二つの文書が語っているでしょう。水野信元と斎藤道三の接触です。信秀は信元対し、異心がないことは信じると言いつつも、これからも油断せずに報告をあげろと釘を刺しています。
 以上は私の解釈です。以下、そのように読んだ理由を申し述べます。

 1541年(天文十年)水野忠政は娘の於大を松平広忠に嫁がせます。水野忠政は松平家の有力者と常に婚姻関係を結ぶよう動いております。自らは岡崎(大草)松平親貞の娘と結婚し、嫡男の信元は桜井松平信定と、そして信元の妹於大は松平広忠といった具合です。そして、その翌年の十二月二十六日、二人の間に嫡男竹千代が生まれます。後の徳川家康です。ところがさらにその翌年、1543年(天文十二年)の七月十二日に水野忠政が死にます。後を継いだのは桜井松平信定の娘を妻とする、水野信元でした。水野信元は松平家と手切れし、織田信秀に味方をするようになります。
 その翌年の1544年(天文十三年)九月に織田信秀が斎藤道三に大敗を喫し、これを好機に斎藤道三が反撃します。十一月上旬、その当時織田方にあった大垣城を囲むのですが、それに対抗して十一月十七日、信秀は濃尾国境を再度越えて意地をみせました。道三は果断に大垣城の包囲を解いて因幡山に戻ると、今度は清洲衆、つまり上四郡守護代の織田大和守家家臣達が織田信秀の居城、古渡城を焼き討ちしたのでした。甫庵版『信長記』では率いていたのは清洲三奉行のうちの因幡守家の彦五郎信友であると言っております。これにはたまらず、信秀は美濃を撤収し、織田彦五郎信友らとの戦いにはいります。どうもこの古渡急襲は斎藤道三の差し金であるようなのですね。なので水野信元もこんな手紙を斎藤道三とやり取りしていたことが知られれば織田信秀にどんな目に合わされるかはしれません。また、水野家が織田方についたのは、ほんの一年前のことに過ぎません。このことが先に織田信秀に知られれば、誅罰されるされることは必定です。なので、先に接触の事実を織田信秀に報せたものと思われます。そして信秀の返書は水野信元が欲しがっていたものでした。これで後々、斎藤道三側からこの件を蒸し返されても、そのことそのものが致命傷になることはありません。織田信秀はその件を知っており、その上で許したからです。この三つの文書が後世にのこされたのは、その証拠としてであると思われます。

 もう一つ肝心なことを申し述べておきます。斎藤道三が水野の手紙の差出人の名前を長井秀元としていることです。斎藤道三が長井姓から斎藤に改めたのは1538年(天文七年)のことでした。A、Bの手紙には斎藤道三と水野家が美濃・尾張両国の確執により長く音信不通だったことが冒頭に述べられているのですが、それがいつからいつのことなのかは書かれていません。しかし、Bの手紙の差出人名が長井姓になっているということは、1538年(天文七年)以前から不通であった可能性があります。天文七年は桜井松平信定が失意の死を遂げた年です。信定の死は尾三連合の終焉と同時に、濃尾対立の端緒であったという見方もできなくはない。それ以前は、長井秀元の美濃と水野忠政の緒川河口域、そして松平清康・信定の西三河エリアは連合体を組んでいたと見ていい証左なのだと私は考えております。

 1544年(天文十三年)十一月(閏ではない)十二日に宗牧一行は大浜につき、その翌日に称名寺住持の案内で鷲塚経由で矢作川を陸路北上して岡崎に向かおうとしますが、岡崎には目当ての阿部大蔵がいませんでした。聞けば『をはりざかい(尾張国境)まで出陣のことありていまた帰らず』とのこと。どうやら斎藤道三の誘いに乗っていたようです。この時点で安祥城が陥落し、矢作川西岸が織田信秀の勢力下にあったなら、尾張国境までの出陣は無理だと思われます。急遽大林寺(この寺は松平清康の墓所です)に宿舎が割り当てられ、阿部定吉の帰りを待つことになりました。大林寺側も急のことなので用意が整わず、宗牧は不快な思いを隠しませんでした。『ここのたびね(旅寝)不弁又その興なり』とか、『軒主馳走おもひもかけぬ煩いどもなり』と不満たらたらです。翌日阿部定吉が帰陣し、石川右近(清兼かその長子の康正と思われます)が茶の湯でもてなしますが、宿舎が大林寺のままであることに加え、石川右近の茶の湯も『ずいぶんなふるまい』とこき下ろしています。宗牧には松平広忠に女房奉書を届ける用があったのですが、どうも広忠本人には会っていない模様です。織田家の平手政秀のもてなしぶりに対する評価と比べると好対照となっています。戦国の風流人宗牧の目でみたこの時代の人々のありようは読んでいて飽きることはありません。

 以上のようにあまり手垢のついていない史料が散見されるのが、この天文十三年の出来事です。研究のし甲斐のある年であると私は感じております。

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2009年1月 8日 (木)

川戦:風雲編⑨天文十三年Ⅰ

 土岐頼芸は織田信秀に庇護を求め、織田信秀は土岐頼芸のために一肌脱ぐことにしました。土岐頼芸はあわせて、かつて越前に放逐した兄頼純(説によっては甥ともいいます)にも働きかけて、朝倉家の名将朝倉宗滴の派兵も得ました。朝倉宗滴は1506年(永正三年)に加賀国一向門徒が三十万の兵力で越前国に攻め込んだ折、僅か一万の兵でこれを撃破した戦歴を持つ勇将です。今回は老骨に鞭打っての参戦でした。朝倉氏は永正年間に領国から本願寺教団門徒を追い出して以来、禁教令を敷いて領国内での一向宗の活動を禁じております。さらには1527年(大永七年)に京を追われた細川高国の支援勢力でもありました。ここで美濃の斎藤道三に向けて出兵するのは、頼純擁立という大義名分もあったかも知れませんが、反本願寺・反細川晴元という部分もあったろうと思われます。

 織田信秀は越前の朝倉宗滴の南下に呼応し、尾張から美濃国稲葉山へと北上します。斎藤道三は稲葉山城を根拠地にしておりましたが、そのふもとの井ノ口に織田勢が殺到します。日中、この町を放火し、日が暮れたので一度夜営地に退却しようとしたところを斎藤道三が急襲して打ち破りました。荒田川の加納口という場所で雌雄は決し、織田信秀は五千の戦死者を出したといいます。この合戦のことを加納口合戦というそうです。

 この合戦は1547年(天文十六年)の事件といわれてきましたが、先行研究者の業績を踏まえて本稿ではこれを1544年(天文十三年)説にて記述してまいりたいと思います。

 やっとこさ、天文十三年の話ができると思うと、心がうきたちます。この年には色々なことが起こっています。にもかかわらず、江戸期の史料でこの年に起こった事件が前後に散らされていますので、一見すると地味な年にしか見えません。
 この年に起こったのは加納口合戦です。小瀬甫庵版『信長記』に加納口合戦は織田信長の元服(1546年(天文十五年))の翌年、すなわち1547年(天文十六年)と書かれております。これを他の史料や同時代史料などと付き合わせると、1544年(天文十三年)のようなのです。

 加納口合戦が天文十三年と考える根拠は三つです。

 ①東国紀行
 >今度於濃州不慮の合戦勝利をうしなひて。弾正忠一人やう々々無事に帰宅。
 >無興散々の折ふしながら早々まかり下るべきのよしの返事あり。

 ②士林証文
 >仍って一昨日辰刻、次郎(土岐頼芸)・朝倉太郎左衛門(教景)・尾州織田衆上下、
 >具足数二万五六千、惣手一同至城下に手を遣り仕り候。此方、無人に候と雖も、罷り出て一戦。
 >織田弾正忠(信秀)手へ切り懸け、数刻相戦う。数百人討ち捕り候。頸注文進ぜ候。
 >此の外敗北の軍兵、木曽川へ二三千溺れ候。

 ③朝倉宗滴話記
 >六十八歳(天文十三年)濃州陣。九月廿二日井之口悉放火

 最初の史料は連歌師宗牧が1544年(天文十三年)に京から駿河へ連歌興行をした折の紀行文です。宗牧は連歌師といっても、朝廷とのコネクションをもっており、この駿河下向は女房奉書と呼ばれる勅書を携えた勅使としての旅でもあったのです。
 第二の資料は武家文書集で、天文十三年九月二十五日付の長井秀元から水野十郎左衛門宛ての文書です。水野十郎左衛門は水野忠政の息子の水野信元のこと、長井秀元は斎藤道三の昔の名前のようで、改名した道三が差出人である水野の認識に合わせて旧名をなのったと思われます。本文書には合戦の様相が克明に記されております。
 第三の文書は朝倉宗滴が子孫に残した訓辞書で、彼の戦歴が記されたものです。②の文書を見ても判るとおり、この合戦には朝倉氏も参加しております。但し、この合戦は②の文書がいうとおり、朝倉・織田軍の大惨敗なのですが、その事は③の文書には書かれていません。牛一版『信長公記』、甫庵版『信長記』ともに織田軍の大惨敗を語っていますので、記述は一致するのです。

 ③の史料をみるに、朝倉宗滴は1544年(天文十三年)に井ノ口を焼いただけとしか書いていません。そして、甫庵版『信長記』には加納口合戦を1547年(天文十六年)としているので、東国紀行等の言う天文十三年の合戦と甫庵版『信長記』の天文十六年の合戦は別の合戦であり、織田信秀と斉藤道三との戦いが二回あったという説もあるのです。が、①②の史料で1544年(天文十三年)に織田軍が大敗を喫したことが明確だし、天文十三年説にあるほどの規模の敗戦が史書に書かれていないことは不自然です。
 ちなみに牛一版『信長公記』にはこの合戦がいつ起こったのかは書かれていません。私自身は牛一版『信長公記』に書かれていなくて甫庵版『信長記』に書かれていることはまず疑ってしかるべきだと思っております。以上の理由をもってこの加納口合戦は1544年(天文十三年)に起こったものと考えております。

 今回の根拠とした士林証文の史料を追うと、興味深いことに斎藤道三と水野家、そして松平家が連携関係にあったことが伺えます。本稿の最初のほうで水野家の描写を長々としたのはその辺の意図がありました。伏線回収の意味で、次稿ではそのあたりについてもう少し深堀りしてゆきたいと思います。

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2009年1月 6日 (火)

川戦:風雲編⑧毒蝮左近大夫

 1531年(享禄四年)、加賀国で加賀三ヶ寺が山科本願寺の決定に逆らって、超勝寺、本覚寺討伐行います。それに対して本願寺が加賀三ヶ寺討伐を行うという大小一揆が勃発しました。三河国土呂本宗寺の実円は山科本願寺派として三河兵を動員、飛騨国白川郷経由で加賀に派兵をしました。三河の兵を加賀に送るためにはルートにあたる各国の領主勢力と話をつけておく必要があります。本稿においては、三河国においては松平清康、尾張国においては織田大和守達勝、飛騨国においては内ヶ島氏を協力者としてあげております。さりながら、それだけでは三河兵を加賀国に送り届けることは出来ません。
 その経路を考えるにもう一つの勢力に兵の通過を求める必要があります。言わずとも地図をみれば一目瞭然ですが、美濃国です。松平清康の守山出兵の前振りとして、美濃三人衆(稲葉良通(一鉄)、安藤守就(道足)、氏家直元(卜全))と呼ばれる美濃国の重鎮達が清康の美濃攻めに先導すると申し出をしたと三河物語には書かれています。雑駁ですが、美濃国の事情をその頃あたりから描写し、信秀とのかかわりにつなげて参りたいと思います。

 美濃国は土岐一族の支配圏でした。鎌倉時代から美濃国に勢力を伸ばし、鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇や足利尊氏に助力した功をもって、土岐頼貞の代に美濃守護となりました。その子頼遠は足利尊氏の北朝方につき、南朝方の北畠顕家が東北から上洛を目指した怒涛の進軍を青野ヶ原の戦いで止めるなどの抜群の戦功を顕したものの、光厳上皇に矢を射掛けるなどバサラ大名らしいお茶目な悪戯をしたために処罰されました。しかし、足利将軍家も観応の擾乱に始まる有力御家人の離反に乗じ、次代の土岐頼康には伊勢・尾張の守護を兼ねたりもしています。その勢力伸張が足利義満ににらまれて頼康の子の康行は美濃国守護の座を奪われました。美濃国守護は別流である西池田土岐氏出身の頼忠が継ぐことになります。土岐一族の末流がいきなり本家となってしまったため、以後の守護家としての土岐氏は一族の指示を充分に得られず、替わりに斎藤氏などの家臣を重用して守護代に起用します。応仁の乱においては、時の守護代家出身で幕府奉公衆となっていた斎藤妙椿が西軍について主家である土岐氏以上
の働きをした結果、守護の土岐氏は斎藤氏の傀儡となりました。戦国時代の相次ぐ内乱で斎藤氏も一度没落するのですが、それを再生したのが松浪庄五郎、後の斎藤道三でした。

 松浪庄五郎は斎藤道三になるまでに、松浪庄五郎>西村勘九郎・新左衛門尉>長井新左衛門尉・左近太夫規秀>斎藤利政と何度も姓名を変えているのですが、途中長井氏を名乗った折にどうやら代替わりしているらしいのです。長井新左衛門尉が父親で長井左近太夫規秀が子供の方らしい。この辺りの事情は不勉強で満足の行く描写はできません。ごめんなさい。

 その斎藤道三が守護代の長井氏に仕えていた1527年(大永七年)に時の守護土岐頼武に対して斎藤氏の支族である長井長弘が頼武の弟頼芸を担いで主家に叛旗を翻します。戦況は概ね長井――土岐頼芸ペースで進んだようです。一方、翌1526年(大永六年)には阿波国に逼塞していた細川晴元が三好元長とともに挙兵。1527年(大永七年)に起こった桂川の合戦で、破れた管領細川高国は足利義晴とともに京を放棄します。その後、土岐頼武は破れて越前国へ亡命します。
 その結果土岐頼芸が美濃国太守となるのですが、実質的には守護代長井長弘の傀儡だったようです。この時点で、松浪庄五郎(父親の方)は長井姓を名乗っていたようです。ややこしいので、以下斎藤道三で統一して当時の呼称は括弧書きの中に入れますね。

 土岐頼芸は斎藤道三(長井新左衛門尉)に自らの愛妾を下賜して抱きこみをはかったといいます。この時愛妾深芳野は妊娠していて、生まれた子供の斉藤義龍は自らの身体に流れる土岐氏の血により、父斉藤道三を討ったというエピソードなんかがあったりします。でも、これは中国の故事である、呂不韋と秦王政(後の始皇帝)のエピソードに似ています。美女を与える側ともらう側の役回りが逆転している以外はほぼ同じですね。なので私はこれは後世の付会だろうと思っております。

 1530年(享禄三年)織田達勝が率いる兵三千がおそらくは美濃領を通過して上洛します。これに前後して土岐頼芸は斉藤道三(長井新左衛門尉)と結託して長井長弘を謀殺します。そして、斎藤道三(長井新左衛門尉)が守護代になって、子の左近太夫(新九郎)規秀に代を譲ります。
 このクーデターの直接の契機は織田達勝上洛にあたり兵の通過を認めるか否かだったのではないか、そんな風に思えるのですね。長井長弘を葬った後、今度は実円が率いる三河兵が小一揆征伐のため、美濃領を通過します。織田達勝の場合は、足利義維、細川晴元を支援するものと解釈できますが、大小一揆は単なる本願寺教団の内訌です。そこに抵抗が生じることを察した斎藤道三(長井規秀)が先手を打ったものだと思われます。それと同時に松平家とのパイプが出来上がりました。この後、松平家は織田家との抗争にあたって、斎藤氏と連携するケースもでてきます。

 この直後、本願寺は幕府と戦争して負けますが、ここは空気を読んで対応したと思われます。松平広忠が流亡している間は大きな動きはありませんが、1538年(天文七年)にもう一人の守護代、斎藤利隆が死んだ折、斎藤道三(長井規秀)は斎藤家の名跡を継いで斎藤左近太夫利政となります。道三は号なのですね。
 土岐頼芸が斎藤道三の野心に気付いたのは、自らの居城である大桑城が斎藤軍に取り囲まれた後だと言います。支える重臣はすでになく、一門親族も自らが放逐したり、斎藤道三が暗殺していたりしておりました。美濃国に彼の味方はどこにもおらず、1542年(天文十一年)尾張国に亡命します。このえげつないお家乗っ取りが諸人の顰蹙をかって、斎藤道三は美濃の蝮(まむし)という二つ名を頂戴することとなります。

 これが織田信秀にとっての転機となりました。

1527年(大永 七年)革手城の戦い。土岐頼芸、兄頼純を越前国へ追放。自ら美濃国守護となる。
1530年(享禄 三年)西村勘九郎、長井長弘を攻め殺す。長井新九郎規秀と名乗る。
1538年(天文 七年)守護代斎藤利隆没。長井規秀、斎藤利政と改名。
1540年(天文 九年)朝倉孝景、美濃国侵入。
1541年(天文 十年)斎藤道三、土岐頼満を毒殺する。
1542年(天文十一年)第一次大桑城の戦い。斎藤道三vs土岐頼芸。頼芸、尾張に亡命。
1544年(天文十三年)加納口合戦
          織田信秀、美濃を再攻撃するも、織田彦五郎が古渡を襲ったため、退却。
1546年(天文十五年)斎藤道三と土岐頼芸・頼純が和睦。
1547年(天文十六年)土岐頼純が病死。
1548年(天文十七年)斎藤道三と織田信秀が政略結婚により和睦。

1552年(天文二十一年)第二次大桑城の戦い。斎藤道三vs土岐頼芸。頼芸、甲斐から上総国に亡命。

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2009年1月 1日 (木)

川戦:風雲編⑦三河守の価値に関する考察

 本稿においては、織田信秀が得た『三河守』という官職の価値についての考察をいたします。本稿は歴史家今谷明氏の著書『戦国大名と天皇』と、以前に読んだ歴史雑誌に掲載された今谷氏の著書に対する反論(著者は多分掘新氏だったと記憶していますが、タイトルを失念)に基づいて構成しております。

 織田信秀の弾正忠家では、嫡男が代々元服して弾正忠、備後守の官途名を名乗っております。その官途名は自分で勝手につけたものではなく、守護の斯波氏が、斯波家内における身分や地位に応じて室町幕府を仲介に朝廷に奏上してもらっていたものである、と考えていいでしょう。織田家や朝倉家が戦国大名化する以前、彼らの主君はあくまで斯波氏です。室町殿からみれば家臣の家臣、つまり陪臣でしかなく、直属の家臣に対して与える『御恩』の一つである官職名を与える必要などありません。しかしながら斯波家が有力な家門であることもあり、織田家、朝倉家のような陪臣にも与えるケースがまま、ありました。戦国時代になると、朝倉家は主君である斯波氏を越前国から追い出して、自ら室町将軍から越前国守護の座や朝廷の官職名をもらうようになります。織田家はそのまま、斯波家の家臣として尾張国守護を支えますが、斯波氏の弱体化につれて自立を図るようになってゆきます。

 その後将軍は管領や、敵対勢力に京を追われて留守にしがちになります。幕府が朝廷との仲立ちをして、武家に官職を与える窓口としての役割が機能しなくなり、手続きが滞って行きます。官途名は祖父や親から受け継がれるものです。主家もその人物の能力よりも、親の名乗りを重視してその名乗りを決めていました。これを家格といいます。また、そもそも官途名は儀礼的な名乗りであり、実質を伴いませんから、正式な手続きなしに子孫がなのっても僭称のとがめだてはなかったようです。
 堺に進出した足利義維は正式に征夷大将軍についたわけではありません。にもかかわらず、堺公方、堺大樹(大樹は将軍の唐名)などと呼ばれておりました。将軍家からしてそういう実態だったのです。
 但し、足利義維については結果的に上洛できなかっただけで幕府組織は堺に立派に作り上げておりました。上洛して朝廷に申請すれば、文句なく正式な征夷大将軍となれたでしょう。上洛できなかったのは結果でしかありません。

 朝廷にしても幕府が京都にいてスポンサーをしてくれないと、何の儀式も執り行えないのです。武家政権の誕生以来、朝廷の財源である御料所や荘園領は武家に蚕食され、わずかばかりに残った収入の道も、戦国時代の到来によってその僅かながらの収入も京にいては手に入らず、殿中の公卿たちは地方に下って諸侯に芸を売りながら生計を立てるしますです。幕府も財布に余裕はもはやありません。流通は破壊され、富は織田信秀のような在地の有力者の所に溜まるだけになっていたのです。、

 後柏原天皇は1526年(大永六年)に亡くなりましたが、即位して二十二年間、手元不如意の為、即位の礼を執り行えませんでした。二十二年後に幕府を説き伏せてようやく行えたわけですが、その時も幕府は資金提供を渋りました、その補填をしたのが山科本願寺の実如です。天皇は在位中にやらなければならい儀式たたくさんあるのですが、その中でも大嘗祭は最も重要な儀式です。それを一度も執り行えなかった天皇は半帝あつかいされるのですが、この天皇も在位中に結局大嘗祭を開くことが出来ませんでした。また、天皇は生前に譲位するのが通例ですが、金がなくて譲位もできませんでした。譲位をすると上皇にかかる予算と、天皇にかかる予算と、東宮にかかる予算がかさむわけですからね。
 なので、後柏原天皇は天皇として生をまっとうしました。死の直前に死後の世界について『善智識』を伝授するという儀式があるのですが、ここでその儀式を務めたのは、知恩院の住持でした。名を超誉存牛といいます。彼が松平長親(道閲)の弟であったということは奇縁といえるでしょう。こういうことは本来、延暦寺のような護国の使命を与えられた寺社がやるべきことなのでしょうが、そうならなかったのは、ひとえに朝廷に金がなかったせい。知恩院にとっては寺格を上げる契機となった画期的な事件でした。

 後柏原天皇の後を後奈良天皇が継ぎましたが、手元不如意な事情は好転しません。後柏原天皇の代には永正(十七年)、後奈良天皇は天文(二十三年)と、明治になって一世一元の元号制度が定められる以前としては、異例の長期間にわたって同じ年号が使われております。これも改元に金がかかるせいで、幕府がそのスポンサーとなることを嫌がったからです。
 承久の乱で後鳥羽上皇が流刑にあって以来、政治の実権は武家に握られた天皇は祭祀王としての務めを果たす存在となりましたが、その祭祀すらままならぬ状況に追い込まれていました。

 織田信秀がそのあたりの事情を知ったのは、那古屋城を今川氏豊から分捕り、古渡に城を構えて熱田を第二の津島として傘下に入れた頃だと思われます。熱田神宮は地元の信仰を集める有力寺社でした。その大元締めである伊勢神宮の建物は全て白木作りです。耐用年数にくると建て替えるというのがしきたりでした。ところが朝廷が先ほど述べたような有様だったので、長く建て替えが出来ないでいました。
 1542年(天文十年)、信秀は伊勢外宮建て替え費用七百貫文を拠出します。この挙に天皇は痛く感激し、三河守の官職を信秀に与えたという話が『伊勢外宮引付』に載っているそうです。着目すべきはこれは斯波義統や織田大和守達勝の指示ではなく、織田信秀が勝手にやったことです。そして、三河守も主家や将軍家を通さず、朝廷が勝手に信秀に与えたものであるらしい。
 らしいと書いたのは織田信秀が三河守をもらったと書いているのは外宮引付のみなのですね。歴史学者の今谷明氏は『戦国大名と天皇』の中で、これは1540年(天文九年)に安祥城を手に入れた織田信秀が三河支配を朝廷に認めてもらった実利支配の実例であると述べております。この後、今川義元と徳川家康が織田信秀と同じように、幕府を介さず直接三河守の称号を得ております。これは三河守が象徴的な意味ではなく、朝廷が支配権を認めた実利ある官職であるというのですね。
 とても刺激的な説であり、戦国時代の朝廷の位置づけを考えるにあたり極めて重要な問題提起だと思います。

 ただ本稿においては私はその説を採用しません。まず安祥城の陥落は前稿の下克上編で述べたとおり、1547年(天文十六年)説をとっております。第二に、これが一番大きい理由ですが、『外宮引付』以外に織田信秀が三河守を名乗ったとする同時代史料がないのです。信秀が朝廷が発給する官職に何らかの価値を見出していたとすれば、当然それを利用するでしょう。三河守の権威に従えと、尾張の部下達や、三河の国人・土豪に号令を発してもおかしくないはずです。その形跡がないということ自体、織田信秀に三河守の官職自体に意義を見出していなかった顕れであると思います。
 信秀自身備後守を名乗っており、三河守はそれより目立って偉いわけでもありません。朝廷の支持の有無は多少の違いとしてあるでしょうが、それを信秀は表に出しませんでした。三河守にそのような価値はなかったとみてよいでしょう。むしろ、江戸時代に幕臣が将軍家より葵紋入り紋付羽織を下賜されるようなものだったのではないかと思われます。御紋を下賜されること、それ自体名誉なことではありますが、それによって松平・徳川一門に入ったことを意味しません。それは家宝として退蔵され、表に出せない名誉だけのものだったのではないか。そんな風に思います。

 ただ、熱田や伊勢神宮の神職達に三河に勢力を伸ばしたいという希望は伝えたと思われます。勝幡から古渡に根拠地を移したのは木曽川対岸の長島願証寺からの襲撃に対する備えであり、本願寺という宗教勢力に対抗するために、熱田神宮――伊勢神宮のスポンサーとなって、息子信長に天道思想を吹き込んだ。それらは究極的には今川氏と対等な競争相手となるために、周辺に展開する本願寺勢力を敵として勝利すべく、腹をくくったのではないかと思うのです。それは織田大和守達勝であり、三河の松平家臣団勢力のことですね。
 それは同時に財力という力の誇示でもありました。財力があるということは戦争遂行能力をもつということです。信秀の周囲に織田一門衆を始め、尾張国人衆が集ってきます。そして、そこに大義名分が伴って始めて、織田信秀は尾張衆を糾合し戦争を始めることができたのです。そしてその財力は大義の実現を求める者すらひきつけます。

 そのきっかけは朝廷が『支配』を認めた三河方面ではなく、北方からでした。その人物の名を土岐頼芸といいます。

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